ムーンホールフォール

衣純糖度

1

 弟が消えたのは満月の綺麗な夜だった。

その日、俺は自室の布団の中でぐっすり眠っていた。掛け布団から出ていた腕が寒いと感じて目を覚ますと、ベランダに出るための窓が開け放たれており、風がカーテンを揺らしていた。五月の頭とは言え、夜は寒い。開いた窓の向こうには、開け放った犯人であろう弟がこちらに背を向けて立っていた。

小さい頃からそうしているから、弟と俺は布団を横並びにして眠る。けど、いつの間にか弟は布団を抜け出したようだ。窓側にひいてある弟の布団がきちんとたたまれている。使わない時は綺麗に畳むようにと母さんに口酸っぱく言われてきたことに忠実に守っていた。

なんで布団を畳んでベランダに出ているのか、そんな疑問よりも先に俺は眠かった。布団から出て、弟を部屋に戻さないといけないと思うけど、体が動かない。俺は布団から出るのを諦めて、寒いから閉めろと口に出そうとしたが、眠気に邪魔されて口からは何も出せず、目と閉じたり開いたりしながら、しばらく弟の背を眺めていた。ふと気が付くと弟がこちらを見ていた。視線が合わさり、俺が起きていることに気が付いた弟はなにか言葉を口にした。

「      」

 そこで記憶は途切れた。俺は眠気に勝てず目を閉じてしまった。最後に見た弟は夜空に浮かぶ満月を背にしていた。どんな表情だったのかは、見えなかった。



 朝、起きるといつもは隣の布団で眠っている弟がいなかった。窓が開け放たれており、掛布団をしていても意味がないぐらい寒かった。

 寝ぼけた頭で深夜の事を思い出す。弟は時々、そういうことをした。雨の中の校庭を走り出したり、アイスを溶かして食べたりする。小さい頃はそれでもよかった。けど、小学六年生になっても、弟は変わらない。今回も、それだろうと思った。

「窓を開けて寝て見たかった」

 きっとそう言うのだろう。

 くしゃみをしながら、隣の布団が綺麗に畳まれているのを見る。

 いつも、俺よりも遅く起きるのに、珍しいなと思いながら、窓を閉めて、自分の布団を畳む。一階のリビングにいるのかと思い、止まらないくしゃみをしながら向かえばそこには朝食を作っている母さんの姿しかなかった。

 「あれ?」と、胸がざわめく。トイレにいるのかと思えば、入っていたのは父さんで、すぐ横の洗面台にもいない。玄関を見れば弟の靴は揃えておいてある。

弟を探そうと思い、家の全ての部屋を回っていく。リビングの隣の部屋も、お風呂にもいない。両親の寝室は見ない。入ってはいけないと言われているから弟がそこにいることはない。一階のどこにもいないので、二階に向かう。先ほどまでいた、俺たちの部屋にももちろんいない。一応クローゼットを確認する。やっぱりいない。

 最後に残されたのは、俺たちの部屋の隣の物置だった。物置といっても俺たちの部屋と同じぐらいの部屋の大きさだ。使ってない家具や、服など、押し込まれているその部屋の物の隙間で弟は時々本を読んでいた。もしかしたら、そこにいるかもしれない。いや、きっといる。だって、もうそこしか見てない場所はない。

 きっと、いつかと同じように棚と積まれた古いおもちゃ箱の間で、挟まりたかったと言って体育座りをしているはずだ。

 ドアを開ける。

 埃っぽい空気がただよう空間には誰もいない。おもちゃと棚の間には、ぽっかりとスペースがあるばかりだった。

 俺は冷たくなった手の平を握りながら、一階のリビングに戻った。「朔がいない」と告げれば、母さんは俺と同じように家中を探し始めた。朔、朔と何度も名前を呼ぶ。俺も、もう一度母さんと一緒に探し始める。もしかしたらとんでもない所にいるのかもしれないと思い、洗面台の下の棚や、シューズクローゼット、物置の狭い隙間も見る。けど、朔はいない。

 全て探し終えた母さんは青白い顔をしていた。

 そこからの出来事は一瞬だった。

 最初に家の近所を探す。隣の家の人も、その隣の家の人も朔の行方は知らない。近くの公園にもおらず、学校にもいなかった。母さんは近所を走りながら金切り声で朔の名前を呼ぶ。探せるところがなくなれば、父さんは戸惑いながら警察に電話をした。

警察官が家に来て事情を聞かれた。部屋の窓が全開だったことを告げれば、弟が家出したか、誰かが侵入し、弟を連れ去ったという話になった。警察によって、家の周辺を捜索が行われる。関わる人が増えていき、どんどんと話は大きくなっていく。けど、一向に朔は見つからなかった。

家にいるようにと言われて、俺は朔を探しに行けず、泣き続ける母さんの横でじっと座っていた。

ふと、そういえば市の図書館を見ていないと思った。朔が一番好きな場所。もしかしたらそこにいるかもと、こっそり家を抜け出して、図書館への道を走る。

小学校の低学年の頃、一人で行っちゃいけないと言われているのに、朔は平気な顔で行って戻ってきたことがあった。それ以来、勝手に行かないようにと、貸出カードは母さんが持っていた。きっと、そうだ。今回も図書館に行きたくなったと言って、図書館で本を読んでいる。

 朔はいつもそうだった、突然思い付いたことを、躊躇なく実行に移す。悩んだり、怒られることが怖いと思わないで、したくなったから、する……。

 そして俺は忘れていた言葉を思い出す。

満月を背にして、動く弟の唇から吐き出された言葉。

「月に行ってくる」

図書館まであと少しの道の真ん中で、立ち止まる。

朔は昨日言っていた。窓を開けて満月を背にして言っていた。これからすることを。

俺は目だけ空に向ける。日が傾いた空に、月があった。今度はそれを見上げようとして、頭を傾けた瞬間だった。視界が揺れて、背中に衝撃が走った。背中から倒れてしまったと思う前に、息は乱れ、上手く呼吸ができなかった。視界はぼやけて、よく空を見ることが出来ない。けど、確かに、そこには月があった。空には、月が出ていた。


そこからの記憶はない。

通りがかった人に発見されて、俺は家に戻されたそうだった。病院で見てもらえば、風邪をひいたということで、安静にして眠っているようにと言われた。

 経験したことのない温度の熱が出て、気持ち悪さは消えず、トイレ以外、ずっと布団の中から出ることが出来なかった。悪夢と嘔吐を繰り返すしかできないまま、時間はいつの間にか一週間程経っていた。忙しい両親に変わり、遠方から駆け付けた祖母が面倒を見てくれた。

 風邪が治って、現実に起きてくれば世界が反転してしまっているようだった。朔は戻らず、両親はすっかり落ち込んで、母さんはずっと泣いている。仕事に行かず、ティッシュの箱を膝に抱えて、丸めた白を周囲に散乱させていた。驚く程の量の涙をに吸い込ませて、その白は増え続ける。

家の中には暗い空気が漂い、幾ら換気をしてもずっと、空気は淀んだまま。カーテンを全開にしても、部屋にはくすんだ色が漂って、太陽の光は部屋に届かない。まるで、薄暗い、救いのない映画の登場人物になった気分だった。

弟がいなくなっても、生活は続く。

今までと同じように学校に行かないといけない。朔のことは、学校中に知られていて、以前は感じなかった視線で体に穴が開きそうだった。

授業をうけて、部活もして家に帰る。けど、以前のようにいかない。俺の周りだけに見えない一つの膜があり、その内側に暗く、薄く、重たい空気が流れていた。その膜はどんなことをしても無くならず、ずっと俺にまとわりつく。

周りの友達もクラスメイトも先生も、壊れ物のように俺を扱かった。丁重に、壊れないようにと、ガラス細工はこんな気分だろうかと思いながら教室で過ごす。

慰めと励ましと同情はどれが一番ましなのか、考えるけど、結論は出なかった。全部、やめてほしかった、何もしないでほしかった。

行きたくないと思う。けど、家にいて母さんの泣き声をずっと聞くよりはマシだった。


 弟がいなくなってから、授業中、食事中、ふと、気が付くと弟のことを考えている。

 弟がいなくなる五カ月程前から、喧嘩をきっかけに俺と弟はずっと会話をしていなかった。五カ月が立つ間に、俺は中学生になり、弟は小学六年生になっていた。それまでは、仲のいい兄弟だったと思う。一緒に遊ぶし、よく話す。喧嘩もしたけれどそれはとるに足らない些細な喧嘩だった。三日も立てばなにもなかったかのように戻る。けど、ある時、俺たちは今までとは明らかに違う喧嘩をした。

 弟は変わった奴だった。

学校では、勉強が好きだと言って、本ばかり読む。友達も一人もいないようで、休み時間にいつも学校の図書室にいるか、教室で一人本を読んでいる。家でも、外に出て遊ぶよりも、部屋に籠って何かを作っている方が好きで、ずっとブロックの玩具で色々なものを作っていた。大量にある小さいブロックを組み合わせて、飛行機とか家とかそういったミニチュアの作品を作るのが上手だった。ブロックを発売している会社で行われたコンテストで、作った城が優勝したこともある。すごいと思ったけど、俺はそんなことは小学校の低学年までの遊びだと思っていた。けど、弟は五年生になっても変わらない。自分の好きなことに真っすぐだった。

 俺はそんな弟がもどかしかった。無口で、学校に馴染めず、一人ぼっちで、笑わない。弟の同級生が、弟をからかっている場面を目撃したこともあった。

 卒業をしてしまう、そうすれば、朔は大丈夫だろうか?

 それは朔も感じていたようで、周りに馴染もうとサッカーをクラスのみんなと一緒にしようとしていた。けど、上手くできなくって、仲間外れにされてしまっていた。

幸い、俺はサッカーをずっとやっていたから、弟に教えることができた。だから弟に、サッカーを教えようと家から連れ出して、公園で一緒にサッカーの練習をした。

俺は楽しかったけれど、弟はそうではなかったみたいだった。サッカーをするようになってからの何度目かの休日の夕方の公園で、弟が怒りだし、喧嘩になった。色々言い合って、最終的に弟が黙り込んで、その喧嘩は終わった。次の日に謝れば元に戻ると思っていたのに。

次の日の朝、起きて弟に「おはよう」と言った。弟は俺を見ただけで何も口にはしなかった。口を一文字に結んで、目もどこか違う方を向いている。なんだ、その顔はと思ったが、弟の口からはそれ以降も言葉が出てくることはなかった。

 何かを話しかけても、弟は黙ったまま、俺が怒鳴っても、両親が怒っても、弟は黙ったままで、一言も口を聞こうとしなかった。

そんな日々はずっと続いて、いつの間にか、俺は中学生になってしまった。中学校に入学し、サッカー部に入った。忙しくなり、小学校とは違う生活に、ついていくのに精いっぱいで、弟とはそれきり、同じ家にいるのに、関わらないような生活になった。一緒になるのは、家から帰って夕飯を食べる時。そして、ずっとそうしてきたから、同じ部屋で布団をひいて寝る時だけ。でも会話は一切ない。そんな中での今回の出来事だった。


だから俺は今も弟のことで、母さんみたいに泣けなかった。

自分に弟のことで泣く資格があるのかわからないのだ。弟を傷つけたくせに、いなくなった途端に泣くなんて、おかしいのではないか。そんな事と同時に、俺は弟の「月に行ってくる」というのが本当のことのように思っていた。

あの日以降、俺は気が付くと月を探してしまう。あの、黄色い円に弟がいるような気がした。弟は月にいるような気がしていた。

 弟がいなくなってから、一ヶ月ぐらいたった満月の晩だった。自分の部屋でカーテンを閉めようとすれば、夜空に浮かぶ満月が目に入った。あの日と同じ、弟が背にしていた満月。

 弟が寝ていた場所に布団を移動すれば窓から月が見えた。カーテンを閉めずにその月を見ながら眠ってしまえば、俺は夢を見た。


 目を開けるとそこは月だった。

見上げると、上空は真っ黒の中で、いつも月があるところにくすんだ青い色の丸いものが見えた。こんな光景をテレビの中で見たことがあった。よくよく目を凝らすと青く丸いものは、地球で、俺はここが月であることに気が付いた。ジャンプをすればいつもの六倍浮かびあがって、体がとても軽かった。

 一人驚いていると、後ろから声をかけられた。

「弟さんがお待ちです」

「わあっ」

突然の声に驚いて振り返ると、そこには兎が一匹こちらを向いていた。兎と言っても、見た事あるものよりも大きく、俺の腰あたりまでの大きさで、二足で歩いている。ふさふさの毛におおわれて、くりくりの真っ黒の目がこちらを見ていた。

 兎が喋っていることに驚いている俺とは反対に兎は冷静だった。 

「あまりお時間がありませんので、お急ぎ下さい。ご説明は歩きながらしましょう」

「えぇ? はい……」

 可愛らしい見た目とは相反して有無を言わさないその声に従って、俺は歩いていく兎の後を追った。

 歩いた先にあったのは、地面から突き出たようにあるエレベーターだった。それに乗り込んだ兎の後を追って俺もその中に乗り込んだ。動き出した所で俺は質問の雨を兎に浴びせようと口を開こうとしたが、その前に兎はこちらを向いて深くおじぎをした。

「本日は遠路遥々、月に来ていただいてありがとうございます」

「やっぱりここ月なの?」

「はい、そうですね。月であり、私たちが住んでいる星でもあります。私たちの種族はこの月の地下に都市を築いて暮らしています。」

「弟がいるって言ってたけど、ホントなの?」

「はい、弟さんはここで対ピロピロパーポポ兵器を作っていただいております」

「ピロピロパーポポ?」

「月を破壊しようとるすピロピロ星の宇宙人ですね」

 話をまとめると次のようなことだった。月の地下都市に住んでいる兎たちは、ある時からピロピロ星のピロピロパーポポ達に攻撃を受けるようになった。彼らの目的は月を破壊することで、兎たちはそれに対抗するために様々な手段を用いてきたけれど、万策尽きかけた時、対ピロピロパーポポ兵器の開発に成功した。しかし、それを完全に使いこなせる兎がおらず、困っていた時、地球にいる弟に目がつけられた。交渉を重ねた末、弟は月にくる事に承諾して、今は対ピロピロパーポポ兵器の制作に尽力しているということだった。

「弟にそんな宇宙人を倒せるような兵器が作れるの?」

 ピロピロ星のピロピロパーポポよりも、月の地下都市に住んでいる兎よりも、俺はそのことに一番驚いていた。

「はい、それは実際に見ていただければわかります」

そう言った瞬間、エレベーターが止まって扉が開いた。

 開けた空間だった。壁一面が白一色で、広さはどれくらいだろう。俺の通っている中学の体育館を三倍にしたくらいだ。それだけでも異様なのに、その上、部屋の隅から隅まで、等間隔に飛行機のような乗り物が整列していた。部屋いっぱいに並んでいるから、相当な数だろう。よくよく見ていくと、形も色も大きさもバラバラだった。そして俺をここに連れてきた兎と同じような沢山の兎がせわしなく動いている。飛行機の整備をしたり、掃除をしたりと忙しそうだ。

 歩いていく兎の後ろを着いていくと、エレベーターがあった壁の反対の壁に着いていた。そこにひとつの扉があり、兎はノックをして中へ入っていく。兎に続いて、足を一歩踏み入れれば、随分小さい部屋だった。小さいと言っても、俺と朔の部屋ぐらいはある。

その部屋には先人がいた。部屋では隅っこに置いてある机に向かって、兎ではない、人が、何か作業をしていた。こちらに気付いて振り返ったそいつは、一ヶ月ぶりに見る弟だった。

「朔!」

「あ」

 久しぶりに再会した弟は何も変わっていなかった。やせぽっちの体で口を一文字に結んで俺を見ても表情一つ変えない。見るものを吸い込むように見る大きな目で俺を見つめていた。

「お前、月に行ってたのか……」

 言うべき言葉は沢山あったはずなのに、そんな言葉しか出てこなかった。俺は何を言うのが正しいのかわからなかった。なにしてるんだ。母さんが泣いてるぞ。家に帰るぞ。言葉は浮かんだけれど、どれも正しくないような気がした。

「これがあの対ピロピロパーポポ兵器です」

 動揺している俺などお構いなしに、兎は喋った。

 兎が指し示したのは、弟が座っていた机の上に大量に置かれたブロックだった。そう、あの弟が好きだった小さいブロックによく似ていた。

「これをですね、作りたい形に組み合わせるんです。あ、丁度完成したものがありますね、頂戴致します」

 机に置かれていた弟が作ったであろう飛行機の模型を兎は手に取ると、部屋を出て行こうとした。俺は戸惑って、弟と兎を交互に見ると弟は「行ってきなよ」と言ったので兎の後を追った。


 兎は先ほどの部屋の一角を占めていた大きな機械へ向かった。機械は銀一色の真四角なもので、一つの側面にはシャッターが付いていた。

「この機械に入れるんです」

 兎はそういうと、シャッターの隣にあるボタンを押し、シャッターを開ける。そこには空間が広がっており真ん中には赤い円が小さく書かれていた。兎がひょこひょことその中心へ行き、飛行機の模型を円の内側に収まるように置いた。ちょこんと置かれた飛行機の模型を確認して、兎は僕の隣に戻って来た。

「あとは、ボタンを閉めるだけです」

 ボタンを押してシャッターを閉め、さらにその下のレバーを引く。すると、唸るような音が鳴りだした。

「弟様が作ってくださる戦闘機のおかげで、我々はピロピロパーポポをの軍力を8割程まで減らすことに成功しました。それまでは、何匹もの兵士が犠牲になりました。頑丈で、攻撃力があり、最後まで兎を守ってくれる強度を備えた弟さんの戦闘機の設計のおかげなのです」

 兎が言い終わると同時に機械は唸り声を止めた。兎がシャッターを上げれば、そこには何倍にも大きくなった飛行機が鎮座しており、それは倉庫にある他のものと同じだった。


「今回、お兄様をお呼びしたのは、朔様の希望でした」

 先ほどの朔の作業部屋の一角で俺と朔はテーブルをはさんでソファに座って、向かい合っていた。テーブルの上にはお茶とクッキーが置いてある。弟の隣には案内をしてくれた兎が座り、喋っていた。

「月に行く事をご家族の方に話さずに、朔様は移動されました。きっと心配されていることだと思います。しかし、こちらとしても月の国について地球の方々にお話をするわけにはいかなかったのです。特に十八歳以上の人間です。そこで、内密に移動していただいた後、月へご家族を招待して事情を話すということになりました。そして今夜、その計画が実行されたのです」

 そんな話をしている兎の横で朔は自分には無関係な出来事のような顔をしてクッキーを食べていた。

「ご家族全員の意識をこちらに招待する予定でしたが、ご両親の意識のコントロールだけ、出来ませんでした。歳を重ねるだけ、自分の常識外の事が起こると拒絶反応を起こしてしまうのです。お兄様はまだお若いので意識だけ、こちらに移動していただけましたが、お父様やお母様はもう意識の転送が難しくなっておりました。そのため、お兄様だけここにいる結果となりました」

 兎は一通り話を終えて、頭を下げた。

「以上が事の顛末でございます、ご容赦くださいませ」

「……そういうことだから」

口を開いた弟はたった一言そう言った。

家の中がめちゃくちゃになっているのに簡単に言うものだから、俺は思わず声を荒げた。

「何言ってるんだよ、お前がいなくなって母さん、毎日泣いてるんだぞ」

 荒げた声が震えそうになり、喉に力を込めて続ける。

「俺だって、お前がいなくなって……」

「兄ちゃんは泣いてないだろ」

 ハッとして弟を見る。朔の視線はしっかりと俺を捉えていた。

「僕はもう決めたんだ。ここで戦闘機を作って月を守る。最初は悩んだよ。母さんや父さんに毎日会えなくなるし、好きな本も読めないし、パフェも食べれない。でも、決めたんだ」

 そう言った弟の顔は今までに見たことないくらい大人びていた。

“ジリリリリリリリリリ”

 その瞬間、兎からベルのような音が鳴った。目をやれば兎は懐中時計を持っており、音の発生源はそれだった。

「お時間です。また、次の満月の晩にお迎えにあがります」


 まばたきをしたと思った瞬間、布団の中にいた。

先ほどまでのように体は軽くなく、空気が重く体は床に押し付けられるようだった。瞼が重く、上手く目を開くことが出来ない。やっとの思いで開けた目で窓の方を見る。カーテンの隙間から漏れる光で、朝が来ていることが分かった。

 弟は生きていた。月へ行っていた。飛行機を作っていた。けど、生きていた。服の上から心臓を抑えて、目を閉じてしばらく動けなかった。


 そんな夢を見た日の放課後、部活は休みで、俺は図書室に来ていた。中学生になってから、授業以外に来たのは初めてだった。小さくて、校舎の奥まったところにある図書室には、数名の生徒と常駐の先生がいるのみで、静かだった。小学生の時は時々行っていたなと一人思い出す。中学生になって、行かなくなってしまった。

 本棚の間を歩き、目当ての本を探す。月に関することが書かれた本の郡は、図書室のさらに奥まった場所にあった。何冊か手にとって中身を確認する。一冊に決めて、貸出カウンターに向う。

「お願いします」

 図書当番の女子は一人俯いて本を読んでいた。こちらに気付かないので声をかければ、見覚えのある顔だった。

 佐藤さんは同じ小学校の出身で、時々話す仲だった。

「珍しいね、図書館来るの」

 そう一言言われ、彼女は差し出した本と貸出カードを受け取った。本の表紙を見て「月を調べてるの?」と言った。

 そうだよ、と言えば、新刊のコーナーにも新しい月に関する本があることを告げた。

「そっちもいいかも」

 カウンターから出てきた佐藤さんの後を追い、新刊コーナーへ向かえば一冊の月に関する本を渡された。

「こっちの方が、さっきのよりも新しいし」

「うん、ありがとう」

 表紙と裏表紙を確認していると、佐藤さんはポツリと呟いた。

「……朔くんのこと、大変だったね」

 やめろ。思わず出そうになった言葉の変わりを探している間に、佐藤さんは言葉を続けた。

「……人間って、物語を作るんだって。朔くんがいなくなって、色んな人が色んなことを言ってるけど、それは全部その人が朔くんがいなくなった理由を理解したくて、勝手に自分が納得できる物語を作ってるんだって」

 “やべえ変態につれてかれたんだろ”

 “虐待をされてたとか”

 “いじめられてたらしいよ”

 聞こえていたけど、聞こえていないふりをした言葉が形を持って、脳に現れる。捏造された弟の話はたくさん現れて、まるで心配しているかのような声で語られる。そんな勝手な物語を作るくらいなら、黙っていることが一番の慰めなのに。

 佐藤さんは、黙っていてくれる人かと思っていたのに。

「佐藤さんは、どんな物語を作ったの」

 そう聞けば、一言だけ帰ってきた。

「……脱出したんだよ」


 次の満月の夜に、また弟と会った。今度は月の地面ではなく、最後にいたあの、部屋だった。あのベルが鳴った時と同じように、向かいのソファに弟と兎が座っていた。

「お久しぶりです」

 兎は挨拶をして、深々とおじぎをした。

「前回は足早に終わってしまって申し訳ありません。今回はじっくりとお話できる場を設けましたので。ささ、お餅でも召し上がってください」

 兎はそう言うと、テーブルの上にあった柔らかそうなお餅を示した。

 弟を見ると、またあの顔をしていた。俺と喧嘩をした後の、一切口を開かず、俺を見る時の顔。口を一文字に結び、目と目が合わず、視線は俺の後ろを見ているように見える。喧嘩をする前はもう少し、表情があった。嬉しいのも悲しいのもわかったのに。今はずっと、あの顔だった。喧嘩をした時に弟にひどいことを言った自覚はある。だから、何度も謝った。ごめんな。そう、ちゃんと伝えたのに。弟はそれからもずっとあの顔のままだった。

弟の顔を見ながら、そんな事を考えていると突然兎は何かを思い付いたように「あっ!」と声を挙げた。

「今日は、お兄様に朔様が作成した戦闘機の活躍を見てもらおうと思っていたんです!」

 そう言って、兎はいそいそと準備を始めた。部屋を暗くして、天井からスクリーンが現れる。そこに映像が投影され始める。準備が終わって唐突に始まったのは、映画のワンシーンのような飛行機による戦闘シーンだった。

 カメラの視点は朔の作った戦闘機に取りつけられていて、きっと、操縦席からの視点になっている。光の線のようなものが放たれて、赤く丸い形をしている鉄の塊を壊していく。それはきっと敵で、画面に見える敵は無数にいる。それは光線によって壊れて、落ちていく。何台も倒していけば、赤い敵は消えていく。

「このように、弟様の飛行機は活躍しております」

 全ての敵が消えれば、映像が終わった。部屋は明るくなり、兎はまるで自分の事のように自慢げに語った。

「朔様の戦闘機はどれひとつ、同じものがないのです。いつも乗る兎、一匹一匹に合わせて、形状の特徴も変えて……」

 止まらない兎を横目に俺は朔に聞く。

「戦闘機、造るの楽しいか?」

 俺が問えば、朔は頷いた。

「楽しい」

 とても楽しそうには見えない表情で、朔は楽しいという。そう、朔はずっとそうだった。そんな弟の顔を変えたくて、俺は話題を変える。

「……佐藤さんが、お前の事を気にしてたよ」 

 佐藤さんの話をすれば、弟の声が少し弾んだ気がした。

「え、本当?」

 お前、佐藤さんに憧れてたもんな。そんなことを言えば、朔がまた黙ってしまうことが目に見えていたので、声には出さず、俺は目の前にあるお餅を口に入れた。何も言わない俺に朔は問う。

「なんて言ってたの?」

 俺は聞いた言葉のまま伝える。

「脱出したんだって」

「脱出?」

 意味がよくわからなかったらしく、弟は首をかしげる。

俺は返答をせずに、今度は自分の疑問をぶつけた。

「で、ピロポロパーポポはいつになったら、倒せるんだ?」

 質問に答えたのは弟ではなく、兎だった。

「先日も話した通り、八割の軍事力は潰すことができました。我々が望むのは、ピロピロパーポポの全滅ではないのです。我々の安全な暮らしなのです。だから、月への侵略を企てている中心人物をに侵略を諦めさせることが目的であり、ピロピロパーポポを倒すことは、目的ではありません」

 弟の隣に座る兎は語気を強めて俺に反論する。ぷんすかと怒っているが、見た目が愛らしい姿なのであまり怖くない。

「じゃあ、その中心人物は諦めそうなの?」

「……昨日もまた、相手からの攻撃がありました」

 兎は溜息まじりで返答をする。

「ピロピロ星で月の破壊の中心人物になっているのはコードック大臣という人物です。そのコードックを倒さない限り、侵略はやまないでしょう…」

「へー……。じゃあ、そいつを倒さない限り、朔は帰って来れないのか」

一人と一匹はおかしなことを聞いたような顔をした。弟は目を開いてお餅を食べる手を止めて、兎はおかしい事を聞いたかのように耳を動かした。

「いえ、朔様は…」

「僕は、帰らないよ」

 兎に言わせず、自分で断言したのは朔だった。

「僕は、ピロピロパーポポが月の破壊を諦めても、地球には帰らないよ」

「なんでだよ、その侵略者が諦めたらお前が戦闘機を作る必要もないし、お前がここにいる意味もないだろ?」

「だって、地球の僕の体はもうないんだ」

 弟は俺に向かって腕を差し出した。なんだろうと、見ていると差し出していない方の腕で手首を掴んだ。カチ、そんな音とともに弟の手は簡単に外れた。腕が外れても血が出ない、その断面は無機質な機械だった。弟は外れた手を俺に見せるように揺らす。

「この体も偽物だよ。兄ちゃんが意識だけここにいれるように、僕も意識だけここにあるんだ」

 そう、淡々と弟は説明をする。

「ご説明が不足していたようで…」

 兎はもごもごと何かを言う。

「朔様はもう、地球には戻らない、いや、戻れないのです。そういう契約でして……」

「なんで、何も言わないんだよ」

 押さえきれず大きな声になってしまう。

なんで、何にも言わなかったんだ。母さんなんて、いつもいつも泣いていて、仕事にも行けずに、ありえない量の食べ物をいつも食べて太ってしまった。父さんは時々、意識が飛んだように止まってしまうようになった。遠方のばあちゃんは来るだびに家の仏壇の前で手を合わせてお前の事を祈っている。

「どうして、一言も、何も言ってくれなかったんだ」

 泣くのは嫌だった。まだ一度も泣いたことなんてなかったのに。弟の前で泣くなんてしたくなかったのに。けど、目の奥が痛くなり、零れる落ちるものは勝手に落ちてきて、視界がぼやける。弟の顔が見れない。

「ちゃんと言ったじゃんか。月に行くって」

 “月へ行ってくる”その言葉を俺はしっかりとあの満月の晩に聞いていた。

「本当に行くとは、思わないだろ」

“ジリリリリリリリリ”

 手で涙を拭えば、兎の懐中時計のベルの音が聞こえた。慌てて顔をあげるが、見えると思った弟の顔はそこになかった。


 布団の中で起きた。重たい体と痛む頭の中で、繰り返し流れるのは、「僕は、帰らないよ」の言葉だった。

 体調が悪いから学校を休みたいと言えば、母さんは寝てなさいと言ってくれた。

 また眠ろうと思ったのに、目を閉じてもしっかりと意識はここにあるだけだった。ふと、机の上にある本の存在を思い出す。あの時に図書館で借りた月の本はまだ延滞したままだった。少しか読んでいなかったと思い出し、布団から起き上がり、手にとって、再び読み始めた。

 新月と満月を繰り返すことを、朔望月という。そのことは知っていた、だって、俺たちの名前の由来だったから。俺が満月の日に生まれたから「望」、新月の日に生まれたから弟は「朔」になった。

 朔は新月の夜に生まれた。月のない真っ暗な夜に、弟は産声をあげた。弟が赤ちゃんだった時の記憶はないけど、物心がつく頃から、ずっと隣にいいた。

 いつか弟が言っていた。月は穴だから、僕が生まれた日は完璧な夜空の日なんだと。俺は自分が生まれた満月の夜をけなされた気がして、満月がある方が完璧な夜空じゃないかと、反論をした。その時、弟は珍しく、悲しそうな顔をして「そうなの?」と言って、じっと、月を見つめていた。

 月の写真の眺めながらページを捲っていけば、あるページで手が止まる。

月がなくなったらどうなるのか。潮の満ち引きがなくなって、地球は壊れるそうだ。風は吹き荒れ、夜は何も見えなくなり、数えきれないほどの人の命がなくなる。きっと、俺も家族も含めた人類はいなくなる。月と引き換えに弟が地球からいなくなってしまった。けど、弟が月を守らないと、僕は生きられない。


 休んだ次の日、図書室に本を返すために向かえば、カウンターに佐藤さんはおらず、ホッと胸を撫でおろす。佐藤さんの言葉が胸に引っ掛かり、あまり顔を合わせたくなかった。

本を返して、また図書室の奥へ向かう。違う月の本を見るためだった。

 前回と同じ場所を見ようと思ったのに、そこには佐藤さんがいた。

 人の気配を察知したのか、佐藤さんは本棚から視線を逸らし、横から現れた僕を見た。目が合えば、「また、借りにきたの?」と静かな声で言った。

 そのまま踵を返したかったが、不自然すぎる。

「いや、通りかかっただけ」

 笑顔を作って、去るために背を向ける。

「ごめん!」

 後ろから聞こえたのは、図書室にそぐわない大きな声の唐突な謝罪の言葉だった。

「脱出したって言ったの、怒ってるよね」

 違う。そこじゃない。俺は佐藤さんに怒ってない。

「いつか、伝えなきゃと思って、話しかけるチャンスがなくって、まだ伝えるのに早かったかもって、話した後に気付いて、謝りたかっ」

「うるさい!」

 自分の口からでた怒号は、静かな空間に響いた。佐藤さんの顔を見ないまま、俺は走り出す。周りにいた生徒がこちらを見てきたが、そのまま図書室を出る。

 俺は俺に怒っていた。

 


 今度の満月の晩も、また月へ来た。月からもう帰れない弟と、どんな言葉を交わせばいいのか答えはでないまま、眠りにつけば、そこに弟は居なかった。

 前回と同じ、あの応接室だった。前回と違うのは、そこに弟の姿がなく、兎のみ、居た事だった。兎は俯きながら、震える声で話し出す。

「朔様は、今回、居りません」

「なんで」

「以前、話をしたピロピロ星で侵略を企てていた、コードック大臣が直接、月への侵略を始めたのです。大臣が操縦する戦闘機は、我々の機体よりも数倍大きく、我々の戦闘機は全て壊されてしまいました。朔様は対抗できるようにさらに大きな戦闘機を作成してくれました。けれども、もう、操縦が出来る兎がいなくなってしまってのです」

 兎は一呼吸おいて、ゆっくりと言葉を発した。

「朔様は、今、自ら、責めてきたコードック大臣と戦っております」

 連れて行ってくれと伝えれば、俺が一番最初に立っていた月の地面へ兎は案内してくれた。あんなにあった戦闘機が一つもなくなった空っぽの空間を走り抜け、エレベーターを昇る。激しく鼓動する心臓を抑えていれば、エレベーターが開く。扉が開いた先には、地面を埋め尽くす無数の兎が上を見つめていた。

 兎と一緒にその群衆の中に混ざり上空を見る。そこでは二つの戦闘機が戦っていた。赤い、巨大な丸い形のものがきっと敵で、以前兎が乗っていたものよりはるかに大きい白い戦闘機には、朔が乗っている。

 兎たちは自身の星の命運を見ていた。

「どうして、弟が選ばれたんだ」

 弟の戦闘機を見つめたま、兎に問いかける。

「どうして、弟に月に来て欲しいなんて言ったんだ」

「朔様が、望んだんです。他にも何名が候補は居ました。けど、朔様だけでした、月へ行きたいと行ってくれたのは」

 敵の戦闘機が、赤いビームを打つ、朔の戦闘機はそれを交わすので精いっぱいのように見える。今すぐ、戦うのをやめて、そこから降りて欲しいと、言いたい。けど、弟に俺の声は届かない。

「朔、ごめん。ごめんな、ひどいこと言って」

 俺が呟いた瞬間だった。

 朔の乗っている戦闘機が、急な旋回をはじめ加速する。ビームが機体に当たるのも、お構いなしに今度は一直線に向かう。

 朔が何をしようとしたか、分かった瞬間には、もう朔の機体は敵に突っ込んでいた。

 爆発とともに、二つの戦闘機はバラバラに宙に飛散する。

「朔!」

 俺の叫び声とは反対に、周りの兎は歓声をあげていた。

「朔様、ありがとうございます、ありがとうございます」

 朔の隣にいつもいた兎が、何度も何度も繰り返す。上空で飛散する戦闘機の欠片は、宇宙へ流れていく。

「朔っ、朔っ!」

 何度も何度も叫ぶように名前を呼ぶ。


「さくっ」

 自分の叫んだ声で目を覚ます。部屋は薄暗く、まだ完全に日が昇っていないようだった。俺はゆっくりと立ち上がり、部屋を出る。二階から一階に向かい、リビングに向かう。リビングの隣の部屋の一角にある仏壇の前に立つ。

 そこにあるのは、弟の笑顔の写真と、骨壺だった。周りには、弟が作っていたブロックの飛行機と、お菓子と、月の図鑑が供えられている。

 俺が寝込んでいる間に全ては終わっていた。お通夜も葬儀も火葬も、俺が寝込んでいる間に、終わっていた。

弟は家の近くの湖で浮いている所が発見されて、事故死だと言われた。事故と言われたが、俺だけは分かっていた。朔は月へ行った。何がどうして、湖に入ることが月へ行くことなのか、わからないけど、朔が自ら湖に行ったのは確かだった。自ら飛び込んだのだ。自ら、死んだのだ。

 三つの記憶が頭に再生される。


 一つ目の記憶は最後に喧嘩をした日。

 公園でサッカーをした。ボールを蹴り合っていたのに、俺が蹴ったボールを朔は蹴り返さなかった。

「朔?」

「サッカーなんてやりたくない」

「なんてって、サッカーできるようになれば、クラスの連中と一緒に遊べるだろ?」

「一緒に遊ばなくて良い」

「来年から、俺が居なくなれば誰も学校でお前のこと助けてくれないんだぞ」

「いい、助けてくれなくて」

「母さんが心配して、何回も朔は大丈夫かって心配してる」

「僕、おかしなことしてない」

「だから~、ずっと一人でいるのがおかしいんだよ!」

「……それが、変なの?」

「うん、変なんだよ」

 弟が俯いてしまって、言いすぎてしまったと思ったけど、間違っていないと思う。朔はもっと色んな人と話して関わっていくべきた。ずっと、一人じゃだめだ。けど、弟は走り出す。「おい」と呼びかけたのに、弟はそのまま公園から出て行ってしまった。


二つ目の記憶は、月の本を図書館で借りた日。

「脱出したんだよ」

「脱出?」

「朔くんが亡くなった三日前に私、朔くんと図書館で会ったんだ。久しぶり、なんてしゃべってたら、突然、朔くんが泣きだしたの。理由を聞けば、「普通になりたい」って言ったから、どうしたのって理由を聞いても何も教えてくれなくて、「月へ行きたい」って、「月へ脱出したい」って言った。私は何のことかわからなくて、きっと嫌なことがあって、逃げたいって言ってると思った。朔くん、前に宇宙飛行士になって月に行きたいって言っていたから……」

「普通になりたいって言ったの?」

「うん、きっとまた誰かに言われたんだろうね。朔くんよく同じクラスの子にからかわれていたから」


 三つ目の記憶は、あの日。

 真夜中、空いている窓と、揺れるカーテン。ベランダに俺に背を向けて佇む弟。

 開いたり閉じたりしている目がこちらを見た弟を捉える。

 俺に気が付いた弟はこう言った。

「月に行ってくる」




 目の前にある朔の遺影写真は笑顔だった。これは俺と朔は喧嘩する前に、プラネタリウムを見に行った時に撮ったものだ。楽しかったらしく、珍しくずっと頬が緩んだ顔をしていた。

 朔、お前は確かに、変だったよ。無口だし、勉強が楽しいなんて言ってるし、友達がいなくてもいいなんて言ってずっと一人で遊んでいる。

「あ、あ」

 涙が溢れる前の目の痛みが俺を襲って、喉から勝手に声が漏れる。お前を月へ行かせてしまったやつは、誰なんだ。俺なのか。なあ朔、誰なんだと問いかけるまでもなく、俺なのか。

 “変だよ”

言っちゃいけない言葉だった。でも、

「変だからおかしいなんてことはない、お前の視点はいつも俺と違っていて、話していて面白いし、お前のことずっと好きだったよ」

返答がないことは分かっているのに、言葉が口から止まらない。

「月を穴だと思っていたり、サッカーボールが意思を持って動いているから蹴りたくないとか、おかしいなと思ったけど、そんなこと考えているお前は変だけど、好きだったよ」

 怒って欲しい、変なんて言うなって。眉を吊り上げて、大きな声で。怒ってくれればよかったのに。でも、遺影の写真はいつまでたっても、笑顔だった。

 呻くように泣いていた俺の声を聞きつけた両親が来るまで、俺はずっと泣き続けていた。


 泣き疲れて、また眠ってしまえば、また、夢を見た。

 目を開けるとそこは月だった。最初の来た時のように真っ黒な空の中に地球があった。

 またか、と思えば、最初の時と同じように兎が現れた。

「望様」

 兎は深々とお辞儀をする。

「朔様のおかげで、我々の星は救われました。いつまでも、いつまでも、朔様の英雄譚は語り継がれることでしょう」

 朔は本当に月に行っており、そこで幸せに暮らしているそんな夢だったらよかったのに、なんで。

「どうしてこんな夢みてるんだろうな」

「これは夢ではありません。あなたが、見ているので、夢ではありません」

 兎は有無の言わない口調で告げる。

「どうせなら、ずっと幸せに月で暮らしている夢で良かったのに。どうして、また、弟がいない経験をするんだ」

 兎の目が俺を真っすぐ見つめて、何も言わなかった。

 兎は一呼吸開けてからこう告げた。

「我々は今、宇宙に散らばった朔様の亡骸を供養しようとしています」

「供養?」

「我々は亡くなったもの骨を粉々に砕いて、砂時計にします。粉の流れる間、想いを馳せ、思い出すことが供養になるのです。砂時計が完成したら、我々の街の中心に置かせていただきます」

 街の中心にある、一つの砂時計の周りに沢山の兎たちがいることを想像する。その兎たちは一心に朔の事を想像し、感謝をして、供養をする。何度も思い出して、朔の存在は永遠になる。

「その、砂時計が完成したら、俺のことも案内してくれる?」

 兎は首を振った。

「もう、お兄様をこちらに案内することはできません。朔様がいない今、もう来ていただくことが叶わないのです」

 申し訳なさそうに兎は告げる。けど、声には絶対的な拒絶が含まれていた。

 だから、俺は決意をした。

「……うん、わかった。自分でここに来る」

 兎は首を傾けて、俺を見つめる。

「俺、自分でここにくるよ」

「そう、ですか。またお会いできるのを、楽しみしております」

 兎は納得した顔で、微笑んだような顔をした。

「では、これで最後です。朔様のお兄様、あなた方のことは永遠に語り継がれるでしょう」

 俺は目を閉じた。



 放課後、サッカー部を退部した。その足で、図書室に向かえば、カウンターに佐藤さんはいた。

 佐藤さんは俺に気付いて、顔を強張らせた。怒鳴ってしまったまま、謝っていなかった。話がしたいと言えば、佐藤さんは、来てくれた。佐藤さんは先生に許可を得て、一緒に図書室を出た。そのまま、近くの渡り廊下まで行き、立ち止まる。横に並んで、俺は話し出した。

「この前は怒鳴ってごめん」

 俯いたまま謝罪の言葉を伝えれば、佐藤さんはひと呼吸置いてから返事をした。

「こっちこそごめん。言うべきじゃなかったし、怒ってもしかたないことした」

「朔、たぶん、自殺した」

 言葉にすれば、たった四文字だった。それだけ口からだせば、あとはすらすらと話すことができた。

「事故って、言われてるけど、朔がいなくなった夜、俺、言われたんだ。月にいってくるって」

「うん」

「佐藤さんにも言ってたから、たぶん、自分で、湖に行った」

「うん」

「でも、母さんにも、誰にも言えなかった」

「うん」

「……俺なんだ、朔に変って言ったの」

 佐藤さんは、いつもそうだった。弟と話してる時も俺と話している時も、いつも変わらない。だから、聞いて欲しかった、俺の作った物語を。

 俺はゆっくり話し出す。

朔とした喧嘩のこと、それ以降喋らなかったこと。

満月の晩にいつも見た夢。

佐藤さんは時々頷きながら静かに聞いていた。誰かに話したかったことを話し終えれば、佐藤さんは一言言った。

「物語を作ったんだね、月で英雄になった。それは事実だよ、望くんが作った、事実」

 佐藤さんは笑顔でも、馬鹿にした顔でもなく、真面目な顔で、俺が言って欲しい言葉をくれた。

「朔と図書館で一緒にいてくれてありがとう。朔は、きっと佐藤さんのこと、好きだったと思う」

「……朔くんは、多分そんなこと一ミリも考えてなったと思うよ」

「でも、朔が家で名前を出す人は、佐藤さんだけだったよ」

 それから、俺と佐藤さんは朔の話をした。朔が読んでいた本について、佐藤さんにいつもおすすめの本を聞いていたこと、俺の知らない朔がいた。

 日が暗くなり、渡り廊下から見える空に夕暮れに滲んだ。薄い夜空に、月が浮かんでいる。それに気づいたらしい佐藤さんが「そういえば」と言って、俺に聞く。

「部活、いいの?」

「うん、やめてきた」

「え、なんで?」

「やることができたんだ」 

「俺、朔が宇宙飛行士になりたいって言ったこと知らなかった」

 朔がいつも月の図鑑を見ていたのは、そういうことだったのか。

「朔が、月で供養されてる。なら、俺が月に行かなきゃいけない。方法はこれから調べるけど、きっと、勉強しなきゃいけない。俺、一個のことしか集中できないから、やめた」

 決意を込めて、宣言する。

「俺、月へ行くよ」

 宇宙飛行士になって、月へ行く。もしかしたら、月に弟がいるかもしれない。だって、弟は月へ行くと言っていたから、もしかしたら、いるかもしれない。

弟を弔いに月へ行こうと、思う。

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