序章
「
そう言って、手を振る男の姿を見つけて、野崎は笑顔を見せた。
「すみません!待ちましたか?」
駆け寄るなり、開口一番そう謝る野崎に男は笑うと、「俺も今来たところだよ」と言った。
仕事の合間に、時間を作って出てきたのだろう。
三つ揃いのスーツにネクタイを締めた格好だが、男の立ち居振る舞いはどこか普通の会社員とは異なる雰囲気がある。
その男――
身内でもなければ、そうそう会える人ではないが、かつては野崎の上司でもあった男だ。
その頃から、至って気さくで気取らない男だったが……その人柄は今も変わらない。
もっとも、白髪は増え、恰幅の方はだいぶ良くなったが——
「休みの日に、わざわざ呼び出してすまんな」
松下はそう言うと、じっと義弟を見つめた。
スラリとした長身に黒髪短髪。スッと背筋の伸びた姿勢の良さが人目を引く。綿のパンツに生成りのシャツ。カジュアルなジャケットを羽織った姿には清潔感があり、精悍な顔立ちの野崎にはよく似合っていた。
もう40代半ばだが、日頃から鍛えているのだろう。その体からは中年を感じさせない躍動感があった。
若い頃からあまり変わらない風貌に羨ましさを感じつつも、義弟であることに誇らしさも感じて、松下は眩しそうに笑った。
松下にそう言われて野崎は首を振ると、「平気です。今年の正月は実家に帰らなかったんで……きちんと挨拶出来なかったから、ちょうど良かった」と苦笑した。
「係長が出勤する程、忙しかったのか?」
「えぇ……まぁ」
と、野崎は思わず言葉を濁した。
昨年。
15年の結婚生活に終止符を打った野崎だったが、円満と言うにはやや程遠い離婚であった為、正月は実家に顔を出しづらかった。
なので、本当は休めたところを、部下に譲って正月出勤にしてしまったのだ。
なんとなく、その事情を察したのか。
松下は笑って頷くと、「お義母さんが心配してたぞ」と義弟を気遣うように肩を叩いた。
——3月上旬。
平日の横浜。時刻は正午過ぎ。
みなとみらいは、観光客とビジネスマンで溢れていた。
「店を予約してある。食事をしながら話そう」
松下にそう言われて案内されたのは、インターコンチネンタルホテルの4階。
目の前に横浜港が見える、日本料理店だった。
そこで、2人はしばらく他愛のない雑談を交わしながら食事をした。
「そう言えば、純平君はもう大学卒業ですか?」
暫く会っていない甥っ子を思い出して、野崎は聞いた。
「来年な」
「警察官になるって言ってたけど」
「そのつもりらしいよ」
松下はそう言って苦笑した。
「憧れの叔父さん目指して刑事になるって言ってる」
それを聞いて野崎も苦笑した。
「なんだよ……アイツも結局白バイには行かないのか」
「ははは。身内に2人も刑事がいりゃそうなるさ」
そう言って、松下は目を細めて笑うと「お前もそろそろ昇進して、
そのセリフに野崎は困った顔をして俯いた。
「いつまでも所轄で
「そんなことないですよ。今ぐらいが俺にはちょうどいいです」
謙遜する義弟の横顔を見て松下は言った。
「少ない人員で回す方が大変だろうに……それとも、
「……」
何も答えない野崎に、松下は肩をすくめた。
駆け出しの頃に比べたら、
真面目で実直すぎる所があったが、経験を積むごとに適度に力を抜くことも覚えたのだろう。
時に飄々とした態度でおどけてみせるが、今では部下を従える立場だ。
穏やかに見せている表情とは裏腹に、思う事は山ほど胸に燻ぶっているだろう—―……そう思いながら松下は言った。
「ま、異動はともかく。昇進出来る実力があるなら、早いに越したことないぞ」と釘を刺す。
「ボヤボヤしてたら定年になっちまう」
そう言われ、満更そう遠い先の話でもないことに気づいて、野崎は思わず苦笑した。
「それはそうと……」
話の矛先を変えようと軽く咳払いをして、野崎は聞いた。
「相談したいことがあるって……なんですか?」
「あぁ」
松下は頷くと、どう切り出したものか……と、一瞬考えてから「実はな」と言った。
「友人の行方が分からなくて困ってる」
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