料理人と異聞奇譚

田子錬二

第1話

 タイマーが鳴った。オレはストップボタンを押して、湯気を上げているお湯の中に入っている二つの茹でカゴを引き上げる。そして、中身をそれぞれ用意した二つのソースの中に入れた。ガスレンジのコックを回して点火。フライパンを煽る動きなんて何度もしてきた動きで、慣れた手つきでソースとパスタを合わせていく。ソース濃度を確認すると、火を落としてそれぞれの味見をする。


「・・・よし。」


 後ろにある作業台の上には皿が二枚。それぞれパスタを盛り込んでいく。最後にそれぞれのパスタに仕上げを施す。


「はい、お待たせしました。イイダコと春キャベツのペペロンチーノとアマトリチャーナです。」


 二種類のパスタをカウンターへ、座っていた二人の女性の前にそれぞれのパスタを置いた。最後に、ごゆっくり、と告げてその場を離れる。


 すぐに洗い場に下ろしたフライパンを洗い始める。フライパン二枚を洗い終えると、カウンターの向こうから声がかかった。


「お願いします。三番さんの注文です。イイダコと春キャベツが二つとカルボです。それぞれランチセットです。」


 そう言ったのはバイトのエリ。彼女はカウンターに伝票を挟めたバインダーを置いた。はいよ、短い返事を返す。それから、近寄って伝票に目を通した。聞き間違いがあっては困るので確認である。


 オレは瞬間的に作業の工程をイメージし終えるとパスタの計量にかかった。



 ここカフェダイニング・タムは普通の飲食店である。オレはこの店のオーナーシェフだ。偉い人間でもないし自分の名前を売りたい訳でもないので、自己紹介は差し控えさせてもらう。ただ皆はオレの事をタムと呼ぶ。だが、呼び名なんて好きにすればいいと思っている。この店は席数がカウンターを含めても三十ほどの小さな店だ。高校を卒業して調理の専門学校に通い、そこを卒業したオレは勢いで東京に出る事を選択した。いろんな人の話を聞いた結果、その方が自分にとってプラスになると考えたからだ。職場を転々としながら学んだ知識を元に立ち上げたこの店は、今のところ有名店ではないけれど近隣の住人からの評判は良く、ランチの時間には一度満席になるほどである。


 オレにとっては自分の店を構える事は昔からの夢であり目標だった。こうして自分の店を持っているのだから夢を叶えたと言って良い。しかし、料理の道に足を踏み入れたときに思い描いていた自分と今の自分は随分違っているなと思わなくもない。だって、当時思い描いた自分は一流のイタリア料理人だったはずだ。初めて勤めた店で長く続かなかった時点で当時の目標は頓挫してしまったんだと思う。その後も幾度となく繰り返した挫折がオレの考え方を変え、頭を柔らかくしたんだと思う。一流になれなかった事に関しては素直に残念だ。けれど、こうしてカフェダイニングの店主になれたのだ。自分で言うのはよくない事なのかもしれないがオレの腕は二流。それでも、今の自分も悪くない、オレにはそう思えている。



 パスタを盛り込んだ皿をカウンターに乗せた。


「はい、お待たせ。三番さんによろしく。」


 エリの背中に声をかけるオレ。すると、はーい、ゆるい返事をしたエリがこちらを向いた。


 エリはパスタが盛り込まれた皿を三枚持って三番テーブルへ向かった。座っているお客さん、おそらく主婦であろう三人は先に提供したサラダをたべている。主婦達は話に花を咲かせている。それもエリがパスタを持っていくまで、彼女が声をかけると三人の主婦は話をやめた。


 使用したフライパンを洗いながらなんとなくその光景を見ていた。


 視界の端には先程パスタを提供した二人の女性が会話をしながら食事を楽しんでいる。そろそろ食べ終わりそうだ。コーヒーまで注文してくれるかな?と思いつつ蛇口を捻って水を止めた。


 さてどうするか。追加の注文を待つのはいいが、この時間を使って仕込みの準備を進めよう、そう思い冷蔵庫を開けて数種の野菜を取り出した。


 結局、二人の女声は食事を終えた後にコーヒーを勧めたけれど注文をしてはくれなかった。売上的には少しでも積んでおきたいところではあるが、これはこれで仕込みが進むので良しとしよう。


 ボロネーゼソースに使用する牛ひき肉に火を入れつつ、みじん切りにした玉ねぎ、人参、セロリを鍋に入れて火にかけた。


「三番さん追加です。ブレンド三、チーズケーキ二つとガトーです。」


 エリの方を見ると、彼女は三番テーブルの伝票に追加で注文された内容を書いていた。オレはいつも通りに、はいよ、短い返事の後で伝票を確認。それからブレンドコーヒーを落とす準備に取り掛かった。

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