第9話 焦燥

 この頃の萌菜は、経済的に家族に楽をさせてあげられるようになっていた。 

 その意味では、アイドルとして一つの目標を達成してはいたのだが、相変わらず、あの少年の姿は萌菜の脳裏から消え去ってはくれず、萌菜が充実感に浸ることは許されなかった。

 振り払っても振り払っても追いすがってくるあの少年の幻影から逃れるためには、全力で駆け続けるしかなかった。

 そして、逃走の果ての目的地として、アイドル・クイーンの座を明確に意識するようになっていった。

「全日本アイドル・クイーン・フェスティバル」で一位を獲得し、全国からNO1 アイドルとして認められること。

 そうしなければ、いつまでもあの少年の存在に悩まされ続けるように思えた。

 しかし、そのためには、高い壁が立ちふさがっていた。

 水島瑠璃である。

「レインボー」に所属する「全日本アイドル・クイーン・フェスティバル」の女王。

 アイドルの中のアイドル。

 萌菜よりは一つ年上で、デビュー当初から頭角を現していた瑠璃は、アイドル界のエリートといえた。

 童顔の愛らしさと人形のような端正さを持ち合わせた容貌は早くからアイドルファンの注目を集めていたが、さらにダンスと歌唱力に秀で、楽曲の世界観の表現力にも目を見張るものがあったため、アイドルに特に興味のない人々にもその魅力を大きくアピールすることとなった。

 そうしてアイドルとしての地位をいち早く確立するとともに、女優、モデルとしても幅広く活動し、一方でバラエティ番組にも進出。

 人気クイズ番組の解答者として、でしゃばることなく、だが絶妙のタイミングで機転の利いたユーモアセンスを発揮して番組に不可欠な存在となり、お茶の間の人気者となった。

 一方、一般の知名度が上昇しても、アイドルファンをないがしろにするようなことはなかった。

 握手の対応も丁寧で非の打ち所がなく、またSNSも気配りの行き届いた巧みな文章をつづったので、ファンの心を常にひきつけていた。

「全日本アイドル・クイーン・フェスティバル」に代表されるような人気投票がからむ場合のファンの結束力は異常といっていいほど固く、そのあまりの熱狂さゆえに、宗教団体のようだと揶揄されることもあるほどだ。

 一人がCDを大量に購入し、数百票を投じることもざらにあるという。

 地元愛も強く、群馬県の観光大使に任命されてからは、ご当地グルメや観光スポットを熱心に紹介する姿がテレビ番組でしばしば見られた。

 今では、群馬県を代表する芸能人として、日本全国に認知されているといってよい。

 最近では、一九歳になって天性の愛らしさに大人の色気が加わって、美しさが増したというのが巷のもっぱらの評判である。

 また、アイドルファンは総じて男性が多く、特に瑠璃のファンはそれらが圧倒的多数を占めているが、そんな彼女にとって致命的な打撃を与えかねないスキャンダルの類も一切ない。

 写真週刊誌が執拗に瑠璃を追いかけているという噂だが、今までのところ全くの徒労に帰している。

 つまり、アイドルとして完璧な存在なのである。

 満開に咲き誇る大輪の花。

 天性のアイドル。

 そんなあまりにも大きな存在に立ち向かうにはどうしたらいいのか。

 打てる手はすべて打ったように思えた。

 瑠璃を追い越すために、自分に残された手段はなにがあるのか。

 わからない。どうすれば、いいのかわからない。

 萌菜の焦燥は募るばかりだった。

 そんな様子を的確に見てとったのか、「ファータ・フィオーレ」のCDを発売している大手音楽会社の五十代の社長にある日、声をかけられた。

 音楽業界のみならず、芸能界全般に顔の利く大物として知られていた。

「最近、焦っているみたいだね。

 僕は君のことをもっと応援したい気持ちがあるんだ。

 この僕に任せてもらえれば、君はもっと飛躍できるよ。

 おいしい料理を食べながら、君の将来について話し合ってみないか」

 萌菜はその誘いに応じ、マネジャー抜きで、ミシュランにも選ばれた赤坂の日本料理店で食事を共にした。

 そして食後、六本木の高級ホテルの最上階の部屋へ。

 萌菜に覚悟はできていた。

 あの少年が抗いようのない強い力で、萌菜の背中を強く押しているようにも感じた。

 わたしがこれ以上の高みを目指してはい上がっていくには、これしかない。そう思えた。

 萌菜はそのホテルの部屋で一夜を明かした。

 そのことがあってしばらくすると、ドラマ出演とソロコンサートが実現した。

 演技に対する世間の評価もおおむね好評で、コンサートの動員数も満足のいく結果だった。

 SNSや握手会でのやりとりを通して、「最近、きれいになった」との声が頻繁に聞かれるようにもなった。

 そのファンの評価には複雑な気分にもなったけれど、自分がアイドルとして、さらにワンランクアップしたという自負も生まれた。

 いくらかの期待を持って、その年の「全日本アイドル・クイーン・フェスティバル」を迎えた。

 獲得票数、十五万六千七百八十票。

 去年よりも大きく票を伸ばしたものの、結果は二位。

 水島瑠璃の壁はやはり厚かった。

 瑠璃の獲得票数は、二十二万三千五百十七票。

 およそ七万票もの差がある。

 萌菜がアイドルを代表する一人に登りつめたことは間違いのないところであったが、こと瑠璃との対決に関していえば、萌菜の完敗であった。

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