第50話

「………」

 可楽涼音は口を一文字に結び、視線を少し下げる。前髪が彼女の目元を覆ったが、小刻みに震える肩だとか、赤く染まった頬だとか、握りしめた拳から、彼女に怒りが沸き上がったのだとわかった。

「殺されたくなかったら、葵の肉体から出ていけ。今すぐに」

「………」

 だが、可楽はうんともすんとも言わない。右腕が、背中に隠れている。左手は、恐怖を抑え込むかのように、胸を鷲掴みにしていた。

 百合さんが舌打ちをする。怒り…と言うよりも、焦りからだと思った。早くしないと、自分の命が危ないのだから。

「早くしろ。早く出ていけ」

 一歩、可楽涼音に近づく。

「早く」

 可楽の歯ぎしりが聴こえた。

「早くしろ」

 百合さんが、引き金に指を掛ける。

「諦めろ。お前はもう死んだんだ。やり返したいなら、悪霊になってから来な」

 また一歩、可楽涼音に近づく。

 目と鼻の先まで来た、その時だった。

「馬鹿じゃないの?」

 可楽涼音が言葉を絞り出す。強がってか、無理やりに低くした声。視線を上げた彼女の顔は、冷や汗が大量に浮かんでいて、目も焦点が合っていないのか泳いでいた。

「私を脅すつもり? 状況、理解していないみたいね」

「ああ?」

 百合さんの顔に苛立ちが浮かぶ。

「早くしろよ」

「脅してるのは私なの!」

 胸を握っていた力が緩んだ。

「私に銃口向けて良いの? これは百合葵の肉体よ? あなたは傷つけることが出来ないわ!」

「ああ、そう」

 百合さんは気にしていない風に頷いたが、一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした。それを可楽涼音は見逃さなかったようで、ニヤッと笑い捲し立てる。

「そして、私はこの身体を傷つけられる! だって、私の身体じゃないからね! 失くして惜しいものじゃない!」

「何言ってんだお前。お前の元の身体は…」

 百合さんはそうつっこもうとした、その時だった。

 可楽涼音が動く。背中に隠していた腕を抜いたのだ。そしてその手には、刃渡り十センチほどの、小さなナイフが握られていた。

 百合さんの顔が強張る。可楽涼音の襲撃を考慮し、半歩下がるとともに、銃口を向けようとした。そして、百合さんの予想通り、可楽涼音はナイフを振るった。

 ただし、自分の肉体に。

 何の躊躇もなく頬にナイフを突き立てたのだ。

 当然、可楽涼音は激痛に顔を歪めたが、直ぐに狂気に満ちた笑みを浮かべ、引き抜いた。口の薄い肉は裂けて、血が飛び散る。

 これで終わりではない。返す刃で、ザクザクと己の太ももにナイフを突き立てた。もちろん、抜くときは刃を傾けて、周りの肉が抉れるようにする。

「やめろ!」

 百合さんが止めに入る。だが、血の飛び散る自傷行為は止まらない。腕を掴まれるよりも先に、可楽涼音は、ナイフを腹に三発突き立てた。それだけじゃない。両の腕、胸、脹脛にもナイフで刺した傷を作った。百合さんが掴もうとしても、刃を切り上げて距離を取らせる。

 その隙に、またナイフで自分を刺した。

 どのくらい刺された? 可楽涼音…いや、ボクの肉体には、黒ひげ危機一髪を髣髴とさせるくらいの刺し傷が出来ていて、そこから噴き出した血は、己の身体を鮮やかに染め上げていた。

「ざまあないわね」

 口から血を吐きながら、可楽涼音がそう言う。

「あの世で、待ってるからね」

 次の瞬間、顔面から倒れる。バシャッ! と、血が四方八方に飛び散り、地面を赤く染め上げた。

「やられた!」

 青ざめた百合さんが、可楽涼音に駆け寄る。腕を掴んで起こそうとしたのだが、血でぬめり失敗した。

「くそ! すぐに病院に…」

 彼女がそう洩らした、その時だった。

 ぬいぐるみである、ボクの身に異変が起こった。

『え、え、ええ…、ええ?』

 掃除機で吸われるかのように、奇妙な力がボクを引っ張った。反射的に踏ん張ろうとしたのだが、魂だけが、にゅるんっ! と、ぬいぐるみから抜ける。その後は早かった。一層踏ん張りが効かなくなって、ボクの魂は、血塗れとなった肉体へと引き寄せられていった。

 それと同時に、ボクの肉体から、可楽涼音の魂が抜け出る。幽霊となった彼女はボクを一瞥すると、ニヤッと笑った。

『じゃあね、頑張ってね』

 それが、最後の言葉。

『あ、待て…!』

 制止させようと腕を伸ばしたが、それよりも先に、肉体と結びつく。

「あ…」

 元の身体に戻れた。

 その実感が強くボクの胸を打つ。しかし、沸き上がったのは安堵などではなく、激痛。全身を千切られるかのような、ミキサーで肉を細切れにされるかのような、筆舌に尽くしがたい、強烈な激痛だった。

 たまらず叫ぶ。

「うっがああああああっ!」

 たまらず悲鳴を上げると、筋肉に力が入り、傷口から血が噴出する。

「痛い痛い痛い! 痛い痛い痛い! 痛い痛い! ああああ痛い!」

「葵!」

 百合さんがボクの肩を掴んだ。

「落ち着け…、力を抜け。すぐに止血してやる」

「痛い…」

 声を出してはいけない。力んではいけない。わかっているのに、声が洩れる。身体に力が入る。一層激痛は勢いを強め、血はみるみる流れ落ちる。

「くそ…」

 危機的状況でも、百合さんは平静を装うと必死だった。スカートの裾を裂いて、ボクの腹に押し当てようとする。だが、そんな薄い布が何になるというのか。すぐに血によって染め上げられ、指の隙間から溢れ出した。

「あ、ああ…、ああ…、葵…、死ぬな」

「痛い…、痛い…、死ぬ…」

「死ぬな」

 血まみれの布切れを捨てて、百合さんがまた、スカートを千切る。これもすぐに血で染め上げられ、今度は脇の布を裂こうとした。

 その時だった。

「このくそアマ!」

 背後から、斎藤の怒鳴り声が聴こえた。

 ただでさえ冷え始めている肉体が、一層凍り付く。身構えるよりも先に気配が迫って来て、そいつは百合さんの背中を蹴りつけた。

 百合さんがボクの胸に倒れてくる。

「殺してやる!」

 見上げると、そこには強烈な殺気を放った斎藤がいた。

 怒りと流れ出した血液のおかげで、彼の顔は赤く膨れ上がっていた。血まみれの手は、自分の頭に落ちてきた石を掴んでいる。

 百合さんも同じ目に遭わせるべく、斎藤は石を振り上げる。

「くそ!」

 すかさず、百合さんが振り返り、銃の引き金を引いた。腹を狙ったつもりだったようだが、反動に耐えられず、銃口が逸れる。放たれた弾丸は、幸か不幸か、彼の脛の肉を抉った。

「うおわ!」

 バランスを崩す斎藤。しかし、最後っ屁と言わんばかりに、その石を百合さんの脳天に振り下ろす。

 ゴンッ! と嫌な音。

 百合さんは呻き声をあげると、轢かれた蛙みたいに地面に伏した。その上に覆いかぶさるようにして、斎藤が倒れ込む。

 まだ意識がある斎藤は、聞き取れない言葉を発すると、何度も、何度も、何度も、何度も、持っていた石を百合さんに叩きつけた。その度に、肉が潰れるような、骨が砕けるような音が、そして、彼女の泣き出しそうな悲鳴が響き渡る。

「ああっ! ああっ! くうっ!」

「ゆ、百合さん…」

 ダメだ。このままじゃ、彼女が殺される。

「や、やめろ…」

 ボクはズタズタの身体に鞭を打ち、立ち上がろうとした。けれど、立ち上がれない。気合の問題じゃなかった。筋肉が切断されているんだ。これは、どうしようもなかった。

「やめろ…!」

 そう言った瞬間、喉の奥から血が溢れ出す。冷たい地面に手を付くと、裂けた部分が歪んで、血が滲みだした。腹からも絶えず血が流れ出ていて、足元には血だまりが出来ていた。

「やめろ…」

 殴られながら、百合さんがこちらを見た。

 血まみれの彼女は、同じく血まみれのボクに微笑みかけ、唇で、ある言葉をなぞった。


「いきろ」


 それを聞いた瞬間、ボクの腹が、かあっと熱くなった。単純に血が溢れただけかもしれない。けれど、その焼けるような熱に、薄れ掛かっていたボクの意識が鮮明に輪郭を結ぶ。

 火事場の馬鹿力というべきか、その時だけ、ボクは痛みを忘れて立ち上がっていた。ふらつきもしない、意識が飛ぶようなこともない。しっかりと地面を踏みしめ、斎藤を見下ろす。

 ボクの視線に気づいてか、斎藤が百合さんを殴るのを止めた。そして、ボクの方を見上げる。

 彼の顔が、カマドウマでも見るような、侮蔑を滲ませたものに変わる。動けなくなった百合さんを踏みつけて、立ち上がった。

 言葉は交わさない。頬を伝った血の雫が、足元に落ちたとき、二人同時に動き出す。

 ボクは右の拳を握りしめた。

 斎藤は、石を握りしめた。

 ボクは拳を放つ。

 斎藤は石を振り下ろす。

 ボクの拳が斎藤の顔面を捉えるよりも先に、重い石が、ボクの頭頂部に激突した。

 頭蓋骨の内側に、鐘を突いたかのような音が響き渡る。衝撃は脊椎を伝って足に伝わり、波紋が跳ね返るかのように、爪先から膝にかけて、感覚が消え失せた。途端に、ボクは立っていられなくなって、バランスを崩す。

 スローモーションのように流れる世界の中、腰から胸、胸から首に掛けて、感覚が消えていく。

 ダメだ。ダメだ…、消えちゃだめだ。

 薄れゆく意識の中、そう思った、その時だった。

 死んだも同然の身体に、燃えカスのように残ったエネルギーとやらが、血管や皮膚を介して、ボクの拳に収束するような感覚があった。

 ボクは歯を食いしばると、拳を放つ。

 意図したのか、それとも偶然か、その瞬間、膝がカクリ…と曲がった。

 軌道を逸らした拳は、斎藤の顎の下に命中する。想定していた場所とは違った。もう後には引けないと、振り抜いた。

 手応えは無い。まるで岩を殴りつけたかのような感触だった。けれど、斎藤は小さく呻いて、大げさに首をのけ反らせる。そして、ふらりふらりと…と後退った後、背中から倒れ込んだ。

「…………」

 彼が気を失ったのか、それとも、ただ単に転んだのか。それを確認しようと地面を踏みしめる。けれど、その時には首から下の感覚は消え失せていて、ボクは顔面から倒れ込んだ。ゴン…と、鼻先に鈍い痛み。鼻血が滲むのが分かるのと同時に、気を失ったのだった。

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