第27話

 遠目から見ても酷い建物だが、近くで見れば一層酷い。通路のいたるところに亀裂が走っていて、落下防止の鉄柵の一部は錆で崩壊。「注意」という張り紙がされていた。

 左から、二〇三号。これがボクの部屋。中央が二〇二号室。これが可楽涼音の部屋。そして、右が二〇一号室。こいつが、あの恰幅のいいおじさんである汗蔵さんの部屋だった。

 用があるのは中央。二〇二号室。

『よし』

 鍵を開ける必要はない。

 息を吸って、吐いた後、傷だらけの扉に額を押し付ける。力を込めると、水の中で手を掻くような抵抗があった後、にゅるん…とすり抜けた。

 幽霊って便利だなあ…と思いつつ、ボクは顔を上げて、部屋の中を見渡す。

 日昼間だというのに、酷く暗い部屋だ。狭く短い廊下があること、その奥に居間があることが、輪郭でしか識別することができない。当然、人の気配は無い。住んでいる人間が死んでいるのだからな。

『行くか』

 すーっと廊下を滑って居間に入る。窓にカーテンは無く、玄関より明るかったものの、微々たる違いだった。それもそのはず。この建物は、すぐ隣のアパートと目と鼻の距離で建てられているので、窓から見えるのは白い外壁だけ。光を取り込む役割は果たしていないと言えた。換気をしたところで、取り込むのは淀んだ空気。

 つくづく、これと同じ部屋に自分も住んでいることに恐れを覚える。こんな日当たりの悪い場所にいるから死にたくなるんだよ。

 早く出たいなあ…と思いつつ、ボクは居間を見渡す。机とか椅子とか、あと本棚とかがあるのはわかった。でも、机の上に何が置いてあるだとか、収納されている本は何だとかはわからない。

『明かり、点けるか』

 そう呟いたボクは、照明のスイッチを探すべく、壁の方を振り返った。

 その時だった。

「…………」

 目まぐるしく動いた視界の隅に、何かが映った。

「え…」

 全身に鳥肌が立つような感覚がして、ボクは声をあげて固まる。

 窓の傍の、畳の上。何かがあった。「あった」…と言うよりも、「倒れていた」。家具というには線がなだらかで、オブジェというには生々しい。生きている人間というには無機質な、人の形をした何か。

「…………」

 振り返るか? そのまま部屋を出るか? 振り返るか? 逃げ出すか?

「……………」

 悩んだ末、ボクは絆創膏を剥がすが如く、勢いに任せて振り返った。

 ボクの見間違いなんかじゃない。畳の上には確かに誰かが倒れていて、窓から差し込む心許ない光が、その輪郭をぼんやりとなぞっていた。

 思い出したかのように、血の香りがボクの鼻を掠める。それは、幽霊となってしまったボクの経験則によって、その者が「死んでいる」という事実を胸に抱かせた。

「し、死んでいる…?」

 誰だこいつ?

 瞬間、ボクは電気に触れたみたいに走り出し、玄関の扉をすり抜けて外に飛び出した。そのまの勢いで方向を転換し、手すりを超えると、路肩に停車するバンの前に舞い降りる。

 百合さんはスマホを眺めて、一人にやけていた。

『百合さん百合さん!』

 呼びかけると、彼女の視線がこちらを向き、窓が下りる。

「どうした? 何かあったか?」

『し、死んでます!』

「あ? そりゃそうだろ。私が殺したんだから…」

『そうじゃなくて! 部屋の中で誰かが死んでます!』

「あ?」

 呆けたような顔をしていた百合さんだったが、そこで事態の異常さを理解した。

 次の瞬間には、ボクを吹き飛ばす勢いでドアを開けて、車の外へと転がり出る。左右もろくに見ないで道路を横切ると、錆び付いたアルミ階段を昇って二階へと向かった。

 二〇二号室の扉の前に立った彼女は、ドアノブを掴んだ。そして、持っていた鍵を、鍵穴に挿し込む。

 捻ると、ガチャンッ! と、開錠される音。

「よっしゃ」

 百合さんは扉を開けた。靴を脱ぐこともせず、中へと飛び込む。

 三歩進まないうちに、彼女も死体の存在に気づいたようで、立ち止まった。

「…何だこりゃ。誰だありゃ」

『やっぱり、あれ、死体ですよね?』

「だよな…」

 百合さんの声が苦悶に満ちたものとなる。

 顎に手を当てた彼女は、死体らしきものが倒れている居間と、開きっぱなしになった玄関扉を見比べた後、ため息交じりに首を横に振った。

「いや、もしかしたら、マネキンって可能性も…」

『血の臭いしてますけど』

 これ以上の面倒ごとに巻き込まれたくないのだろう。百合さんの現実逃避が始まる。

「リアルな造形にするために、血を使っているのかもしれないだろう」

『つまり死体じゃないですか』

 ボクは百合さんの横を通り過ぎ、居間に入った。見渡すと、壁に光るスイッチが埋め込まれていることに気づく。

『百合さん、電気は通っているみたいなので、照明を着けましょう』

「くそ…」

 百合さんはしぶしぶ部屋に入って来て、ボクが指すスイッチを見つけると、爆弾の作動スイッチに触れるみたいに、恐る恐る押した。

 パチンッ! と、スイッチが入ると同時に、天井の照明が灯る。放たれたオレンジ色の光は、四畳の部屋を照らし出した。

 当然、窓際に倒れていた死体の姿も照らし出す。

『男…?』

 それは男だった。

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