第16話

 起こすために強烈な刺激が必要だ。

『ど、どうしよう…、どうしよう…』

 振り返ると、警察官は目と鼻の先まで迫って来ていた。こちらをチラチラと見ながら、胸のトランシーバーを掴んで、何処かに連絡を入れている。

 幽霊のボクには、もう何もできない…。

『あ、そうだ…』

 あることを思いついたボクは、ドリンクホルダーに置いてあった缶コーヒーに手を翳した。

『浮かび上がれ!』

 そう念じる。

 するとどうだろう? カタカタ…と震えた缶は、次の瞬間、糸で引っ張られたかのように浮かび上がった。

『おおっ!』

 これにはボクも感動する。ぶっつけ本番、というか、ほぼダメ元だったのだが、心霊系の動画でよく見る「ポルターガイスト」ってやつだった。

 ボクは缶に念を送り続ける。缶は不安定ながらも浮き続け、眠りこけている百合さんの頭上まで移動した。

『よし…、これを何とか落として…』

 そう呟いたボクは、浮いていた缶を百合さんの頭頂部へ落とそうとした。けれど落ちない。必死に「落ちろ」と念じているのに、浮いたままピクリとも動かなかった。

 静電気のせいで、ゴミが指に貼りついて取れないときのようなもどかしさ。

『くそ、なんでだよ!』

 思わずそう言った、その時だった。

 幽霊であるボクの身体に、ぞわっ! と鳥肌が立った。何故そんな感覚に陥ったのか? 強いて言うとしたら、足元に気配を感じたのだ。ゴキブリを見つけた時のような、防衛本能を刺激される強烈な恐怖を。

『え…』

 思わず足元を見る。

 そこにいたのは、クマさんのぬいぐるみ。動いているわけではない。けれど、ボクはそのぬいぐるみから生々しい気配を感じた。

『なんだ…、こいつ…』

 そう呟いた時、浮かせていた缶コーヒーから意識が逸れる。その瞬間、缶は重力に引っ張られて落下し、百合さんの額にかつーん! と当たった。当然、中の液体が零れだして、彼女の顔に流れ出た。

「おわっ!」

 百合さんがすっとんきょうな声をあげてひっくり返る。三秒ほどは何が起こったのかわからないようにのたうち回っていたが、突如落ちてきた缶、顔に降りかかった液体、そして、隣にボクがいることに気づいた途端、鬼のような形相を向けてきた。

「おいお前! 急に何をする!」

『何をするって…』

 ほら…と、ボクは後方を顎でしゃくった。

 そこには警官二人立っていて、彼らはトランシーバーを耳に当てていて、どこかに連絡を入れているところだった。

『なんか、警察官が近づいてきたんですよ…』

「はあ?」

 百合さんが声を裏返した時、片方の警官が百合さんに気づく。すぐに動き出して、窓越しに車内を覗き込もうとしてきた。

 その後の、百合さんの反応は早かった。

「ひっ!」

 引きつったような声をあげた彼女は、ブレーキを踏むとともにキーを捻り、エンジンを作動させる。

 ぶるんっ! と揺れるバンに、警官は何か嫌なものを感じ取り、窓を叩いた。

「すみません! 開けてください!」

「逃げるぞ!」

 アクセルを踏み込むとともに、バンはバックを開始する。それでも警官はしがみ付いてきたが、ハンドルを一気に左に切り、振り落とした。

 制止できないことを悟った警官らは、バンにしがみ付くことを諦めて、パトカーの方へと走って行った。その隙に、百合さんはアクセルを踏み込みつつハンドルを切り、左右なんてろくに見ないで道路に飛び出した。

 慣性の法則が働いて、ボクの身体が外に放り出されそうになる。荷台の死体は転がって、鈍い音を立ててドアにぶつかった。

 べたべたとする顔なんてお構いなし。百合さんは幽霊から逃げるかのように、バンを猛スピードで加速させて、道路を走り始めた。

 車通りの無い田舎道だということが幸いした。一瞬にして、バンは百キロに到達する。振り返って見たが、パトカーが迫ってくる様子はない。

 若干余裕を取り戻したボクは、百合さんに聞いた。

『あ、あの、今のは何でしょうか…?』

「バレたんだろ! 私が交通事故を起こしたこと! 死体を攫って逃げてってことが!」

『…はあ』

 まあ、普通に考えてそうだよな…とは思う。

 だけど、違和感は拭えなかった。

 そんなに簡単に見つかることがあるだろうか? ボクらは一晩中車で走り続けて、威武火市からは縁もゆかりもない地にやってきたんだぞ? しかも、なるべく監視カメラには映らない道を選んで通ってきた。

 それなのに、なんでこんなにも早く…。

『別件…ってことは、ないだろうな…』

 ぽつりとそう言った時だった。

「ああ、そうだ葵!」

 スピードを緩めた百合さんが、怒った声をあげる。

「なんだよこれ! 顔べたべたなんだけど!」

『ああ、すみません…。でも、百合さん起きなかったので』

「いや、どうやったんだよって! お前何にも触れないだろう!」

『ああ、そのこと』

 ボクは手を掲げて、閉じたり開いたりした。

『なんか浮かべられました』

「ポルターガイストか!」

『みたいですね』

「でかしたぞ! 葵お前、クレセント錠は開けられるか?」

『空き巣しようとするな!』

 などとくだらない悪事を企んでいると、遠くの方からパトカーのサイレンが聴こえた。しかも、段々と大きくなっている。

『ボクらを追いかけているようですね』

「捕まってたまるかっての」

 追われており、捕まってしまったら即お縄だというこの状況で、百合さんは口元を三日月のように歪めていた。次の瞬間には、アクセルを再び踏み込み、バンを加速させる。

 迫っていたサイレンが、再び小さくなった。しかし油断はできない。相手はカーチェイスのプロ。長期戦になればボクらに勝ち目はないだろう。

『ほんとに大丈夫なんですか?』

「舐めるな! 私は最短で運転免許を手に入れた女だぞ!」

『合宿に参加してんじゃねえ!』

 ボクのツッコミを涼しく受け流し、百合さんは加速する。

 百メートル先に交差点。信号は、青。見ると、横断歩道の方が点滅を開始していた。

 百合さんは舌打ちをするとともに、バンを更に加速させる。スピードメーターは八十キロを振り切り、車内には小石が跳ねる嫌な音が響きわたった。

「突っ切るぞ!」

 青信号。迫る車。

 黄色に変わる信号。加速する車。

 赤に変わる信号。

 次の瞬間、百合さんは急ブレーキを踏んだ。

 ギャギャギャッ! と化け物が鳴くような音を立てながら、タイヤがアスファルトを擦る。当然慣性が働いて、荷台にあるボクの死体は、前の方へと滑った。霊体であるボクも前につんのめり、窓ガラスに顔をめり込ませて止まった。

 ちょうど、停止線の上の出来事だった。

 しゅう…と、焦げ臭いにおいが辺りに漂う。

 再び、パトカーのサイレンが近づいてきた。

「安心したまえよ」

 下手すれば全員がミンチになっていたかもしれない状況で、百合さんは得意げに言った。

「私はゴールド免許だぞ? 運転の所作は完璧さ」

『ボクを撥ね殺したので免停です』

「それもそうか」

 納得した百合さんは、左右から車が来ていないことを確認し、再びバンを発進させた。

 赤信号の下を潜り抜けたバンは、パトカーを撒くことに成功するのだった。

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