第三章『霧島百合の葛藤』
第10話
どのくらい眠っていただろうか?
『起きなさい』
「……………」
『起きなさい』
「……………」
『起きなさい…』
眠っているボクの枕元で、おばあちゃんのような、優しい声が囁いた。
誰だ? と思った瞬間、今度は、別の声。
「ああ、もう…、どうしよう。ほんと、どうしよう」
苦悩に満ちた、若い女性の声が聴こえたのだ。
「人、殺しちゃったよお…」
そこでボクは意識を取り戻した。
途端に、全身の肉が裂けるような痛みが走る。それだけでなく、全身の骨が軋むかのように、キイキイとした音が脳裏を響き渡った。
気分が悪すぎて、声が出ない。痛すぎて、動くこともできない。
そりゃそうか…。だって、車に轢かれたんだもんな。肉が裂けているのは当たり前。骨が砕けているのも当たり前。きっともうボクの身体は、人間としての機能を失っているのだろう。
だったら早く、あの世に…。
そう思った瞬間、まるで波が引くみたいに、身体の痛みがすーっと消えた。頭の中に響いていた音も、プラグを抜いたかのように、ぶつりと途切れる。
え、死んだのか? とは少し違う。感覚を取り戻した…と言うのが適切だろうか? 背中に硬い感触があった。肌を、ぬるい空気が舐めている。
瞼が、接着剤で固められたみたいに重い。無理に力を込めると、ゆっくりと開いた。
一メートルほど先に、鼠みたいな色をした、低い天井があった。
何処だここ?
様子を伺うべく、目を動かそうとしたとき、また女性の声が聴こえた。
「ああ、私の人生って、本当、悪い事ばっかりだ…」
女性の声は、横たわっているボクの頭上から聴こえた。
「…………」
首をのけ反らせてみたが、何かが視界を遮り、よくわからない。
試しに、ボクは腹に力を込めた。事故の後だというのに、しっかりと筋肉が収縮し、上体を起こすことに成功する。
見回して気づく。どうやらボクは、後部座席を倒したバンの荷台に横たわっていたようだ。左右にはスライド式のドアがあって、灰色に曇った窓ガラス越しにガードレールが見えた。路肩に停めているらしい。
「ああ、もう…、なんで、なんでだよお…」
ハスキーな女性の声。
身を捩って振り返ると、運転席にその声を発す者が座っていた。
ハンドルに額を押し付けたその人は、ジャージのような、ポリエステル質の上着を羽織っていて、髪は茶色でポニーテール。若い印象を抱かせる細い肉付きをしていて、耳に月の意匠のピアスがぶら下げていた。
ずっと嘆いている。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう…」
よく見ると、彼女はクマさんのぬいぐるみを抱きしめていた。
ぬいぐるみに涙を落としながら、こんなことを洩らす。
「殺しちゃったよ…、人殺しちゃった…」
女性の言葉を聞いて、はっとする。なるほど彼女は、ボクを撥ねて殺してしまったのだと思い、後悔の念に苛まれているらしい。
ボクは己の手を覗き込み、閉じたり開いたりして、問題なく動くことを確認した。さらにシャツを捲り上げて、大事はないかを確かめた。最後に、ジーパンの上から自分の脚に触れる。何処を押しても、摘まんで引っ張っても、異常な激痛が走ることはなかった。
なるほど、ボクが撥ねられたことは事実ではあるが、命に係わる大きな怪我を負うことが無かったらしい。
ボクは、運転席と助手席の隙間から身を乗り出し、女性の横顔を覗き込んだ。
『あ、あの…』
亡霊だと思われてもいけないので、恐る恐る声を掛ける。
だが、小さすぎたようで、若い女性は気づくことなく、ハンドルに額を押しつけて後悔の言葉を発するだけだった。
ボクはもう一度声を掛ける。
『あの、すみません…、大丈夫ですか?』
だが、やはり女性には聴こえていない。
「私はいつだってダメなんだ…。いつだって、失敗をする。小学生の時の演劇で小道具を作った時も、接着が甘くて本番当日に壊れたし、中学生の修学旅行で迷子になって警察に保護されちゃうし、高校の体育祭のクラスリレーで、あと少しで勝てたって言うのに、転んじゃうし…、就職先で、発注数間違えて、店を倒産させちゃったし…、店の商品券換金していたことがバレちゃったし、ニートになってからは誰も助けてくれなくなったし、せっかく再就職しても、一千万する機械ぶっ壊しちゃったし…」
突如始まる自分語り。しかもかなり声が大きい。
いやまあ、したくなるのもわかるよ。ボクだって自殺を決意したあの日、SNSで病んだ風のコメントを投稿しまくったからな。誰もいいねしてくれなかったけど。
『いやまて、商品券の換金はまずくないか?』
女性のこれまでの人生を聞いて、違和感のあったところを率直につっこむ。
その瞬間、女性がボクの声に気づき、顔を上げた。
充血した、猫のような目がこちらを見る。
整った顔だ。鼻筋が通っていて、唇は花びらのように薄い。頬は細くしまっていて、眉は自然な感じに流れている。綺麗な顔だと形容できなかったのは、その肌は乾燥で粉を吹いて、全体的に血色が悪かったからだ。
年齢は、二十代後半くらいかな? この人が、ボクを撥ねたのか。
ボクは挨拶をするのを忘れて、心臓をドキドキとさせた。
「え?」
女性の眉間に皺が寄る。目を細めた彼女は、ボクの顔をまじまじと見つめた。
なんだか恥ずかしくなって、ボクは頷く。
女性は首を亀のように伸ばす。
ボクは頭を下げた。
『ど、どうも』
次の瞬間、元より青かった女性の顔が、一層青く染まった。
「うわああああああああっ!」
まるで幽霊を見たかのように、彼女は悲鳴を上げて飛び上がった。その拍子に、抱きしめていたクマさんのぬいぐるみが宙を舞った。
ぬいぐるみが落ちるのと同時に、彼女の頭頂部が天井に激突する。痛がる様子も見せず、運転席の扉に触れて、外に出ようとしたが、開かない。鍵が掛かっているのだから当然だ。だが彼女は必死にノブを引き続けていた。
「あれ? あれ? あれれ」
ミシミシと、ドアノブが軋む。これでは折れてしまうと思い、ボクは女性を宥めた。
『お、落ち着いてくださいよ。ごめんなさい、急に話しかけちゃって…』
「んぎゃあああああああああっ!」
女性は更に汚い悲鳴を上げた。
一層激しくドアノブを引っ張る。
「ごめんなさいごめんなさい! 殺しちゃってごめんなさい! ごめんなさい! 償いますから! 償いますから!」
『いやいや、いいですよ。ボクは元気なんですから!』
そう言ったところで、女性はぴたりと止まった。
「げ、げんき?」
恐怖で歪みつつも、希望に満ちた目がこちらを振り返る。
ボクは腕を組み、力強く頷いた。
『ええ、元気です。元気いっぱいです』
「………」
女性は目をぱちくりとさせた後、身を捩り、後部座席の方を見た。
釣られて、ボクも振り返る。
何てことない。そこには、円柱状に巻かれ、ビニール紐で縛られた羽毛布団が置いてあるだけだった。
「ほら! やっぱり死んでる!」
再び、女性は甲高い声をあげた。
「本当にごめんなさい! お墓は大理石にしますから! 滅茶苦茶徳の高いお坊さんにお願いしますから! 香典には五千円を包みますから!」
『そうですね! 大理石って黒くてかっこいいですもんね! 徳の高いお坊さんにお願いすれば、ボクもきっと成仏できますね! 香典は気持ちが大切ですもんね!』
ボクは手を叩き、女性の言葉に賛同する。
『って! だから勝手に殺すな!』
「いやまあ、勝手に殺したのは事実ですし」
『いやまあ、確かにあんたが勝手に撥ねてきたのだけども!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます