第9話

 どのくらい気を失っていただろうか? そこまで時間は経っていなかった気がする。

「………」

 停電から復活したみたいに、ボクは目を開けた。

 頭が割れるみたいに痛い。実際割れているんじゃないか? って思って触れてみると、酷く腫れあがっていた。

「くそ…」

 今、何時だ?

 冷たいアスファルトに手を付いたボクは、ゆっくりと身体を起こす。スマホを確認しようとポケットに手を入れたが、中には何も入っていなかった。

「………」

 スマホ、部屋に忘れてきたな。今から取りに戻るのも面倒だ。とりあえず銭湯に向かって、そこで時間を確認すればいい。湯船に浸かれる時間はどのくらい残っているのやら…。

 そう思ったボクは、若干痺れの残る足で地面を踏みしめ、立ち上がった。

 その時、背後で何かが動く気配がした。

 振り返ると、黒髪の女の子が、「うーん…」と呻き声をあげながら、生まれたての小鹿のような脚で立ち上がろうとしているところだった。おそらく、横から走って来てボクに激突した人だ。こちらに背を向けているから顔はわからないけれど、長い髪や肩よりも幅の広い腰は、明らかの女性のそれだった。背は低く、二十代…下手すれば十代という印象をボクに与える。

 格好は、ジーパンに、白いウインドブレーカ―を羽織っている。

「…………」

 ボクは呆然と女の子の背中を見つめた。

 次の瞬間、女の子はハスキーな声で「くそ…」と悪態をつくと、足元に落ちていた、彼女のものと思われるスマホを拾い上げて、路地の向こうへと走って行ってしまった。

「…………」

 取り残されたボクを、冷えた風が撫でていく。

 なんだよ…。人にぶつかっておいて、「ごめんなさい」も無しかよ。いやまあ、前方不注意だったボクにも非はあるのだが…。

 全く、今日は酷い日だ。自殺の計画が大家さんにばれるし、その大家さんにはフラれるし、ぶつかってこられて痛い目を見るし。

 追い打ちをかけるように、頭上の黒い空から、冷たい雫が降ってきて、ボクの首筋でぽつりと弾けた。あ…と思った瞬間、また一つ、もう一つと雨の雫が落ちてきて、ボクに激突する。

 ええ、今日、雨の予報だったっけ? 帰ろうかな? いや、やっぱりお風呂に入ってさっぱりしないと気が済まないよな。いざとなれば、店主に傘を借りればいい。酷くなる前に銭湯に向かおう…。いや、頭打った後に風呂に入っても良いのか?

「(いや、いいだろ)」

 そう結論付けたボクは、額のこぶに触れた後、歩き出した。

        ※

 銭湯を目指して歩いていたのだが、ここで異変に気付いた。

「(あれ?)」

 周りがやけに静かだったのだ。夜だから静かなのは当然なのだが、それにしても静かすぎる。車が走る音だとか、民家から洩れているテレビの音だとか、あと、自分の足音が全く聞こえない。

 首を傾げたボクは、己の右耳の穴を叩く。音は聴こえた。けれど、響き方が違うというか、まるで何かが詰まっているかのような、くぐもった音だった。

 試しに、声を発して見る。

「(ああ、ああ、あああー!)」

 やっぱり聴こえた。だけど、やっぱり耳栓をした時のような響き方をしている。しかも、いつもより低い気がした。

「(嘘だろ…)」

 もしかして、さっきぶつかった拍子に、鼓膜か脳に異常が起きたのか? 行くべきは銭湯じゃなくて病院か?

 それからもボクは声を発してみたり、耳の横で指パッチンをしてみたりしたが、やはりいつものように聴こえることはなかった。

「(まじかあ、ほんと運が悪い)」

 ボクは肩を落とす。

 とりあえず様子を見よう。今日は風呂に入って眠って、翌日になっても治っていなかったら病院に行くのだ。死んだらその時。惜しい命じゃない。

 音が上手く聞こえない世界で、ボクは無理やり気を取り直し、歩き出す。

 五十メートルと進まないうちに、また交差点に差し掛かった。

 その時だった。

 悪いことは、三度ある。いや四度ある。ぼーっとしながら飛び出したボクの身体を、白い光が照らし出した。

 その貫くような光にはっとして、横目で見る。

 空間を裂くような勢いで、黒色のバンが迫ってきているではないか。

 停まる気配は無い。間に合わない。

 ああ、しまった…って思った。

 世界の色が、ほんの少し暗くなる。時がスローモーションのように流れ始めた。今わの際に見る、止まった世界だ。だからと言ってボクが高速で動けるわけではなく、その世界は、逃げようとしても逃げられず、足に力を込めようとしても込められず、その鉄の塊が自分の身体に激突するのを待つだけの、覚悟の時間そのものだった。

 前方不注意。一度ならず二度までも。自分はなんて馬鹿なんだ…と思った。それと同時に、脳の後ろに、ぱちぱち…と泡が弾けるような感覚がして、走馬灯が過る。

 父に殴られた時、母に叩かれた時、両親に見捨てられた時、祖母に罵声を浴びせられた時、同級生にいじめられた時、上級生からリンチを受けた時、お金がなくて一週間橋の下で暮らした時、大学で友達が出来なかったとき、そして、愛の告白も空しく断られた時。

 ボクの肉体に刻まれた過去が、ボクを地獄に突き落とすように溢れ出し、全身を駆けた。

 ボクとバンの距離は、約一メートル。

 結局覚悟ができなかったボクは、文字通り目を逸らす。

「(なむさんっ!)」

 次の瞬間、ボクの身体に、バンが激突した。

 なんと形容すべきか。突風に吹かれるような感覚が全身の皮膚を駆けたかと思えば、太い棒を横腹の辺りから体内にねじ込まれるような、鈍い痛み。水の中に飛び込んだみたいに音が遮られて、体内で骨が砕ける音だけが、直接鼓膜と脳を揺らした。

 壁に投げつけたスライムみたいに、ボクの肉体が、ひしゃげて車のボンネットに貼りつく。

 と思えば、ボクは吹き飛んで、黒いアスファルトの上を、まるで水切り石のように、一回、二回、三回と跳ねた。それでも止まらない。大根おろし器みたいに、腕の肉を削ぎながら地面を滑り、奥にあった電柱に背中をぶつけ、やっとこさ止まった。

「あ…、あ…」

 止まった…。

 安堵する一方、心臓が頭蓋骨の内側まで昇ってきたかのように、心音が脳を揺らしていた。ドクン…ドクン…と脈動するたびに、強烈な激痛に襲われて、口から鉄と酸の混じったものが零れ落ちる。

「あ、ああ…、ああ…」

 どう、なった? ボクは、生きているのか?

 目を動かす。見ると、右腕が無くなっていた。いや、ちゃんとあるのだけれど、肉の殆どが削げ落ちていて、そこから溢れ出した血液が輪郭を覆い隠している。ボクは、自分の腕を、腕であると認識できていないのだ。

 息は…、できる。でもダメだ。吸う度に、肺に刺されるような痛みが走る。吐くのもダメだ。喉が削げるような痛みがある。でも、息を止めるともっと苦しいから、剃刀を咀嚼するように空気を吸い込み、硫酸で口を濯ぐみたいに空気を吐いた。

 そうすればするほど、鼓動が逸り、血液がアスファルトを侵食していった。なるほど、歩みなどではない。全力疾走だ。生きるために息をすればするほど、ボクは死へと近づいているのだ。そう実感した。

「ああ…」

 死ぬ、死ぬ、死ぬ…、死にたくない。死ぬ…。もう無理だ。死ぬ…。死ぬ…。

 そう思っていた時、バンの扉が開く音がした。見ると、十メートル先にバンが停まっていて、その運転席から、誰かが出てくるのがわかった。

 ヘッドライトが眩しくて、姿が分からない。

 ボクを轢いた奴の顔を拝むよりも先に、ボクは気を失ったのだった。

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