59話 アスン平原東端・小村ワクラウより西の森

 人の住まない西の森には、命を食らう魔女が棲む。


 そんな噂が世界にはある。


 西の森とは正確に言えば、大陸北東に広がるアスン平原東端に位置する小村ワクラウから西にある森を指す。

 なぜこんな大雑把な言い回しなのかと言うと、この噂を初めに言い伝えられたのがワクラウだからなのだと言う。文書としては残されていないが、口承で今も受け継がれている。


 命を食らう魔女は、文字通り寿命を奪い、人を死に至らせる存在らしい。

 ぼくは「ぜひ会いたい」と思って、西の森を目指すことにした。


 野を越え、

 山を越え、

 荒れ地を抜けて、

 川を渡り、

 嵐の日は休んで、

 晴れた日は少し多めに歩いた。


 そういう風にちょっとずつ進んで、一人、ぼくはアスン平原東端までやってきた。長い長い旅だった。

 平原にはワクラウまでの一本道しかなく、森へ行くには青々とした大地を往かねばならなかった。遠く見ゆる森を頼りに、慎重に歩いていく。


 鳥が高く鳴いていた。

 太陽はギラギラ光り、風が吹くと何かの花の仄かな甘い香りがする。のどかな場所だった。灰と氷ばかりのぼくの故郷とは大違いだ。


 ガサリと音がした。


 びくっとして、音の方を振り向く。

 真っ白なウサギが一匹、草むらから顔を出していた。それはぴょんと軽やかに跳んで、森の方へと跳ねていく。

 きゅー、と細い鳴き声を上げて、ぼくの頭上を鳥が通り過ぎる。森の方へと飛んでいく。


「……動物たちが集まってる?」


 まさか、と自分で言いながら思った。でも、なんだかそんな気がした。森を目指して動物たちが向かっている。


 いったい何があるんだろう。


 自然とぼくも引き寄せられていく。人間という動物の一員として。

 森が近づく。昼間なのに、遠目にも暗いことがわかる。鬱蒼と密集した木々の葉は、太陽の光を意地でも通さない。


 本当に魔女はこんなところにいるのだろうか。


 途端に足が震えてきた。飛び交う銃弾より怖いものなんてないと思っていたけれど、未知の恐怖がぼくを震わせていた。


 と、森の中から茶色い影がぬっと出てきた。鹿だ。立派な角を備えた牡鹿が姿を現したのだった。

 鹿もまた、何かに誘われるようにウサギや鳥とともにある一点を目指す。ぼくもそれを追って、森の縁をなぞるように歩を進めた。


 ぞろぞろと、さらさらと、ザフザフと、ぼくらは歩く。やがて、


「あ」


 人の姿が見えた。


 森の入り口の切り株に腰掛けて、歌を唄っている。

 きれいな歌声だった。透き通るように穏やかで、安心する声。ぼくは自然と歌に聞き入り、その場で足を止めた。


「あれ、人間のお客さんは珍しいな」


 歌が止まり、目を開ける。歌を口ずさんでいた女の人がぼくを見ていた。チョコレートみたいに甘そうな、きれいな茶色い髪が肩の上で揺れていた。


「君、どこからきたの?」


 近寄ってきた鹿の頭を撫でながら言う。ぼくは落ち着いて息を吸った。


「南の、クラポ」

「クラポクラポ……南の端っこの、永久凍土の? ええっ、ほぼ真反対じゃん! 一人で来たの?」


 こくりとうなずく。


「わぁ、それは……大変だったでしょ。ケガしてない? お腹空いてる?」


 ぼくは首を振り、


「命の魔女に会いに来たんだ」


 ふっ、と。女の人は鹿の頭を撫でるのを止めた。


「……どうして?」

「……命の魔女に会えば、死ねるから」

「そっかぁ。どうして死にたいの?」

「生きてても意味ないから。大人は戦争ばっかしてるし、毎日苦しくなるばっかりで、友達ができても次の日には死んでる」

「クラポはずっとお隣の国と戦争状態だもんね。そっか、毎日辛かったね」

「うん。だから、死んじゃえば楽になると思った。けど……」

「けど?」

「大人たちは、必死にぼくらを守るんだ。毎日いろんな人が死んでいくのに、『子どもたちは宝だから』って、ぼくらを守るんだ」


 女の人はぼくの話を静かに聞いている。


「命をかけて」

「……守られた?」

「…………死ぬつもりだったんだ。防空壕から出て外に立っていれば、そのうち砲撃が当たって死ぬって。それで良かった。ぼくはそれで良かったのに」


 それなのに、あの人は飛び出してきた。ケガをしていたくせに、生き延びるために撤退してきたくせに。

 最期まで笑っていた。

 『君が無事で良かった』と。苦しむ顔も見せずに。


「だから」


 だからぼくは、


「罪を償うために?」


 女の人に言われて、黙ってしまった。彼女は肩に留まった鳥のあごを指で擦りながら、諭すように問う。


「それは本当に罪だったのかな」

「ぼくがいなければ、あの人は死ななかった」

「そうかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。必要なのはどうなったかじゃなくて、どう在ったか、じゃないかな」


 だからここまで来たんでしょ?


 その言葉は、ぼくの口をぴたりと、しっかりと、縫い止めてしまった。ほどくための言葉をぼくは探す。それが見つかるまで、彼女は微笑みながら待っていてくれた。


「弱いことが悔しい」


 ぼくはしばらくして、ようやく頭に浮かんだことを言った。


「ぼくがもっと強ければ、友達を守れた。ぼくがもっと強ければ、こんなに苦しくなかった。ぼくがもっと強ければ──死のうとなんて思わなかった」

「弱いことは罪じゃない」


 ウサギがどしっと彼女の膝の上に跳び乗った。


「私はそう思うな。最初から強い人なんていなくて、みんな少しずつ弱さを克服して、強くなっていく。君はもう、その一歩を踏み出してる」


 彼女の瞳は、ぼくをじっと見ている。


「たった一人で長い長い旅をしてきた君が、弱いなんて思えないもの」


 気づけば、

 ぼくは少しだけ、

 泣いていた。


「色んな場所を見てきた」

「どうだった?」

「平和な国があった。旅人だらけの村があった。クラポみたいに戦争してる国があった。誰もいない街があった。牛と一緒に暮らしてる人たちがいた。すごく寒いけど、住んでる人たちは温かい国があった。本当に世界は広くて、色々な国があって──」


 これまで歩んできた道のりが鮮明に、あまりに鮮明にぼくの脳裏に蘇る。ぼくを守ってくれた人、送り出してくれた人、敵対した人、騙そうとした人、優しくしてくれた人、諭してくれた人。今、目の前で、答え合わせをしてくれる人。


「みんな、一生懸命、生きてる」


 うん、と女の人はうなずいた。


「それがわかったなら、君の旅に十分価値はあったと思う。命の魔女は、人を裁く存在ではないから」

「……それじゃあ」

「うん、私が──」

「ウェナ」


 声がして、ぼくらはそちらに顔を上げた。金色の髪を短く整えた、若い男の人が鍬を肩に歩いてくる。


「お、そちらは?」とぼくに目を向ける。

「クラポからのお客さん」

「それどこ?」

「シウはもっと勉強した方がいいね。大陸南西の海岸線沿いに位置する、永久凍土の国だよ」

「遠すぎて知る機会がねーよ。てかそんなとこから来たのか。すげーな坊主」

「あ、はい。えっと……」


 男の人は快活に笑って、女の人の肩に手を置いた。


「オレはシウ。すぐそこのワクラウって村に住んでんだ。で、こっちはウェナ。歌が上手い」


 どすっ、とウェナさんの手刀がシウさんの脇腹を突いた。


「もっと紹介の仕方あるでしょ」


 と不満顔を戻してぼくに向き直る。


「私はウェナ。村じゃなくて、この森の中で暮らしてるの。歌が好きで、薬にもちょっと詳しいよ。そして──君が探してた、命の魔女」


 驚いた様子でシウさんはウェナさんを見下ろした。


「言っていいのかよ」

「それが目的で遥々ここまで来たって言うからね。言わないとフェアじゃないでしょ。──でも、さっきも言った通り、私が君に何かをしてあげるってことはない。してあげられることもない。魔女なんて、そんなたいそうな存在じゃないからね」


 そう言って笑う。気恥ずかしそうに。


「同意。どっかの誰かさんを知ってるとな」


 シウさんも笑う。懐かしむように。

 命の魔女は「だからね」と優しく続ける。


「私に出来るのは、君がここまで来た道のりとその覚悟を讃えてあげられるくらい。それでもいい?」

「十分です」


 ぼくの口は自然と動いた。


「命の魔女に会うことが、ぼくの目的だったから」


 すい、とウェナさんの手がぼくの頭に伸びる。ぽん、と手を乗せ、くしゃくしゃと撫でられた。


「それじゃあ、大事なお客様、ようこそワクラウへ。歓迎するよ」


 ぶわっとあたりに花が咲いた。真っ白な、真珠のような花が一面を覆って、世界が鮮やかに白く染め上げられる。


「……すごくきれい」

「そうでしょ。私が大好きな、思い出の花なの」


 風に吹き上げられて散った花弁の一片を愛おしそうに摘む。


「魔女さんは、ずっとこの森にいるんですか?」

「そうでもないよ。出掛けてて、いないときも結構ある。運が良かったね」

「本当だよ。今日だって二週間ぶりに帰ってきたんだろ。先代とは大違いだぜ」

「先代……? 命の魔女は、あなただけじゃないんですか?」

「私は二代目だよ。最初の命の魔女は私のお母さんだったの。私が死んでしまいそうになったとき、その命をかけて私を助けてくれた」

「……素敵な……人だったんですね」

「そう。本当に本当に、大好きなお母さん。私の、たった一人の。だからウェナは──あっ」

「はははっ! ウェナ、お前いくつになってもその一人称が抜けないな!」

「う、うるさいっ! シウだって、いまだにジュドさんにお世話になりまくってるくせに!」


 顔を赤くしてウェナさんは返す。二人はずいぶん旧い仲らしい。いいなぁ、とぼくはこっそり思った。

 おほん、とウェナさんは咳払いして仕切り直す。


「まぁそういうわけで、私はお母さんから命と魔法を受け継いだ、二代目命の魔女なのです。魔法も調合もまだまだ未熟で、お母さんの娘兼、先代魔女様の弟子として修行中なのです」

「そっか……魔女でも大変なんですね。色々と」

「大変なのよー、すっごく。もうすっごく普通に苦労してるよ。やっぱり魔女なんてただの人間と変わらないね」


 本当に疲れてそうに肩を落とすウェナさんに思わず笑う。よし、とシウさんが手を鳴らした。


「じゃ、せっかくだし今日は家に泊まってけ! お客さんなんて珍しいからな。母さんも喜ぶぜ!」

「え、でも……」


 トンと背中を押される。え、と思ったら、鹿がぼくの背中に頭を押しつけていた。ウェナさんがくすくす笑う。


「みんなも泊まっていってほしいって。動物に好かれるのは素敵な心を持ってる証。明日も私はここにいるから。今日はゆっくりお休み」


 そう言われた途端、ぼくの両足はひどく重たくなった。今まで押し隠していた疲労を急に自覚したみたいだった。


「……寝る方が先か?」


 シウさんはのしのし歩いてくると、背中を向けて、ぐわっとぼくを背負い上げた。視線が高くなり、白い花畑がより遠くまで見渡せるようになる。

 広い背中に体を預けると、重たい眠気がふいに襲ってくる。まぶたが落ちかけて、まだ、と気合で押し上げる。


「ウェナさん」


 ぼくは命の魔女に呼びかけた。


「ありがとうございました」


 彼女は穏やかに微笑んで、優しく手を振った。

 そうしてぼくは眠りの底へ、久しぶりの安堵とともに、ゆっくり、ゆっくりと沈んでいった。

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