第2話

 母の顔を覆っているのは付け替えパーツという。文字通り顔にパーツを入れ込んで、元の顔と全く別の顔立ちになれるというものだ。パーツと素顔の境目はほとんどなくて、どんな顔にでもなれる。最初は私が付け替えパーツが欲しくてクリニックに行った。

 付け替えパーツを扱っているクリニックは、コットンキャンディーみたいな甘い香りが漂っていた。私はコットンキャンディーという言葉は知っていたけど、それがわたあめだというのは知らなかった。わたあめとコットンキャンディーは頭の端と中間地点ぐらいにあって、2つの言葉はつなげるには遠い距離にあった。

 匂いはよく知っていた。縁日ではなく、いろんな女の子たちが付けてる香水の匂いと同じ匂い。匂いに色があるとすれば絶対にピンク色で女の子を前面に押し出したような香りがする。クリニックにはそんな匂いが充満していた。母はあからさまに鼻を摘んでいて、やめなよと言ってもつまみ続ける。そうしていればいずれ誰かが気がついて、母の思う通りに匂いを消してくれるとどこかで思っているのか。

 夏休みだしついでに、という足取りで来たけど、本当は最後の砦に向かうような気持ちで私は母と連れ立ってネットで見つけたクリニックに向かったのだった。地元のクリニックもあったけれど、きっと施術してくれないだろうから何とかできそうなところを探し出した。

 クリニックは古めかしいビルの中とは思えないほど、中はピンクで統一されて可愛らしい。予約していたことを告げると、問診票を記入して待っていてくださいとバインダーを渡された。バインダーもペンも、何なら手渡してくれた受付の人のネイルまでピンクで、かなり徹底されたピンクの空間だった。私が受け取っている間、母はキョロキョロとあたりを見回していた。

「あのお面こっち見てるみたいで嫌じゃない?」

 確かに診察室の扉の上にベネチアのカーニバルにありそうなお面とか能で使うようなおかめの面とかがずらりと飾られていて、そこだけ禍々しい雰囲気だった。クリニックの人たちの趣味なんだろうか。私は母の言葉に適当に返事をして空いていた席に腰を下ろした。

 問診票には大量の記入事項があった。どんな顔にしたいのかというぼんやりした問いに対して、細部まで回答が必要になる。最後らへんのページはどうやら規約のようで、署名欄があった。改めて自分の理想の顔を問われると難しい。

 目の前にあるポスターの施術例を見ると、本当に別人のように変わっている。アフターの方が明らかに表情が輝いているのは、比較対象としてどうなのだろう。ただ、表情の差を差し引いたところで、多くの人はアフターの方が良いと断言すると思う。ほんの少しだけ鼻を高くするとか、二重にするとか、付け替えパーツはそういう細かい調整とは訳が違う。

『今日モデルの貴方は明日』とピンク色の文字で書かれたポスターには、爽やかに微笑んでいる女の人がいる。目を細めて書いてある名前を読んだ。知らない人だった。吹き出しには「私と同じ顔になろう♪」と書いてある。自分が可愛いの対象になるというのはどんな気持ちだろう。2000年代っぽい化粧の感じのせいか、全体的にすごく古い。

「ねぇ、顔どんな感じにしたらいいと思う?」

「決めてきてないの?」

 咎めるように母が眉を潜めた。聞いてみただけとはぐらかすと、母は盛大なため息をついた。周りの人たちに聞かせるためのものだ。大体は決まっているし、待合室のつなぎの会話ぐらいの軽い気持ちで聞いてみたのに。母に圧迫されて自分の思考を止めないよう、ゆっくりを息を吐き出す。

「なんで決めてこないのよ。訊かれるに決まってるじゃない」

「いざ顔変えるって思ったら、本当に大丈夫か不安になるんだって」

 成り行きで出てきた言葉だったけれど、私の本心をかすめていた。自分の顔の不満なんていくらでも出てくる。でも変えて良いよと掌を返されると、変更したかったのが一体何だったのか分からなくなった。

 母は有名な女優を何人か挙げて、この人は目、この人は口の形が良いとスマホの画面を見せてくれた。かなり具体的な理想を持っていて意外だった。参考になるところもある。

 母は一通りの理想系を話終えたあと、

「分相応な顔にしとかないと後で面倒なことになるから、思いっきり変えるのもどうかと思うけどね」

 と締めた。どっちなんだ、と思いながら私はできるところから記入していった。

 待合室には他にも何人かいて、皆マスクをしていてどことなくオドオドしている。ここで知り合いと会いたいとは思わない。けれど余計に警戒している印象を受けた。未成年だと親を連れてこなければいけないから、私のように親と来ている人もいた。

「あの人、本当に親子なのかな?」

 母の会話は唐突に始まって唐突に終わる。母が指差す方を見ると角のソファーに座っている女の子はボソボソと隣の男と話していた。女の子はかなり濃い化粧をしているし、カラコンを入れていて元の顔からはかなり違っている気がする。それでも、隣にいる男とは似ていない。最後に目に焼き付けておこうとするように、男はじっと女の子の顔を見つめていた。

「ねぇ、聞いてる?」

 私はわざわざ隣にいる母にぐりんと顔を向けた。母はいたって真面目な顔をして、私に尋ねている。私は母の肩を小突いてみたけど、何よというだけで女の子を見るのを止めない。母には目から口に直通のパイプがあるようで、パイプは常識を通さない。見たままをベラベラと喋るから母のするのレベルは低かった。

「聞いてるけど、親子かどうかなんて知らないよ。ほっといてあげなよ」

「大丈夫なのかしらって思っただけ。変なことに巻き込まれてたら大変じゃない」

「まだ言ってるの」

 クリニックに来るまで、母は顔を変えるのは犯罪者ぐらいだと散々反対した。ピンク色の待合室にお面、プラス不審な親子とスリーコンボが決まって、信頼は地に落ちている。

「首突っ込んで余計なことしてもしょうがないじゃん」

「そうは言ってもねぇ」

 これ以上何か下手なことをして欲しくないという私の思いとは裏腹に、母は野次馬根性を出して二人の動向を見守っていた。母に言われるまでは気に留めていなかったけど、確かにあの二人は何だか怪しい。だって父親は娘の太腿を触るだろうか? 娘はそれをやんわりと避けるだろうか。今思うと、あの時何かすべきだったのかもしれない。けれど、女の子はすぐに呼ばれて、男と一緒に診察室の中へ消えていった。

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