今日モデルの貴方は明日

黄間友香

第1話

 コロッケパンは、半口ぐらいだとコロッケにまで届かない。それでも私はパンをゴミ袋に放った。袋には閉店後に売れ残ったパンが既にこんもりと入っている。コッペパンは粉っぽくてパサパサしていた。ずっと売れなかったやつかもしれない。レジでは多町さんが「あ、そこの新作残しといて。子どもが苺好きなのよ」と言いながら、お札を手際良く数えていた。私は苺のフェアと旗が立っている場所は一つずつ残して、他のパンたちをせっせと袋に入れた。

 クローズ後、私のすることは廃棄のパンを大きな袋に入れていくことだ。最初は食べ物を捨ててしまうことに心が痛んだけどすぐに慣れる。つい5秒前までは商品として置かれていたのに、モノと化したパンを放り込んでいくのは作業だった。

 バイトたちはパンを袋に入れながら一口だけ齧ったりする。パンの匂いをずっと嗅いでいると食欲があるわけではないけど、お腹は働いた分だけ減る。多町さんは人気のパンから食べていく。時給1時間分ぐらいのパンは一口ずつ消費しないと気が済まないというのが多町さんの主張だった。私も最初はそうしていたけど、甘いのとかバターが多そうなパンは飽きてきてやめた。嫌いにならないものが一番良い。

 半口つまんではどんどんゴミ袋に入れていく。パンの多くは、私たちの口に入りすらせずに廃棄されていく。

 レジを閉め終わった多町さんも途中からやってきて、パンを摘んでは袋に入れ始めた。私はカツサンドを頬張った。フワッとした食パンにはカツサンドのソースが染み込んでいて、一番美味しいからいつも半分ぐらい食べてしまう。思いっきり齧って頬が膨らんでる時、多町さんが私の隣にしゃがみこんだ。

「トワちゃんさ、一昨日買ってなかった? コロッケパン」

 慌ててサンドイッチを飲み込んだ。多町さんの前髪は帽子の癖がついていた。

「え、買ってないですよ。休みだったしここにも来てないです」

「そうだよね。あたしもなんでわざわざ休みの日に買ってくんだろって思った。でも絶対トワちゃんだと思うんだよね」

 そうそう、今日シフト被るし絶対聞こうと思ってたんだ、と言いながら多町さんが箒を取り出して掃除を始める。陳列棚の間を縫いながら一口ずつ食べては捨てていく。私はどうやって答えようかグルグルと考えを巡らせた。

 バイトがパンを買っていくのを、私は見たことがない。一度タダで食べれてしまうとわざわざお金を出してパンを買うのがもったいないというのは、このパン屋に努めている人たち全員が共有している。それに私は高校を卒業したら一生食べなくても大丈夫なぐらいパンを一口ずつ食べている。

「もしかしたら、母かもしれないです」

 もしかしたらではなく母だ。私には確信があった。

「え、でも制服だったよ」

 うわっ、なんで制服。氷を直に当てられているような、痛くて冷たい感覚が全身に走った。悟られないために私は一つだけメロンパンを久しぶりに齧った。外のクッキー生地を思いっきり床にこぼしてしまう。私は丁寧にカスを拾った。バイトを始まる前まで、メロンパンは私の中で不動の一番を誇っていた。

 わざわざ私の冬服を引っ張り出して年甲斐もなく制服を着る。よりによって娘のバイト先に顔をだすなんて色々通り越して変態だ。母は歴としたいい年のおばさんだった。どんなに抗っても、見た目が違くても、そうだ。セーラー服を着た母の幸福そうな顔を簡単に思い浮かべることができて、余計にうんざりする。

「じゃあ……、妹かもしれないです」

 私は架空の妹を作った。じゃあって何よ、と多町さんはゲラゲラ笑った。


 妹さん、トワちゃんに言えばパンがタダなの知らないの? 最初の方持って帰ったりしてたんで、知ってると思います。じゃあどうしても食べたくなっちゃったのかな。そうかもしれないです。お姉ちゃん好きなんだね、わざわざ買いに来るなんて。

 屈託のない多町さんに、私は鈍い返事をした。他のパートの人とシフトが当たる時は、一言も喋らずにいることも多い。高校生は私だけで、どう扱って良いのか分からないという。多町さんはおそらく20代で他のパートさんよりも私に歳が近いこともあってか、気さくに話しかけてくれる。それでも、しっかりと踏み込ませないと線引きはしっかりしていて、これ以上突っ込まれない。知らない箇所が沢山あるのは誰かに見せつけるための関係ではないということだ。

 教室にいるときみたいに枝葉の先まで満たされている必要がない。十分に距離をとった状態で喋るのは、とてもとても楽だった。歯形が残ったパンがまた1つ山の中に紛れた。


 普段私はパンを持って帰らない。けど、私はうまく断れないでアンパンとミニドーナツが入った袋を手に持っている。折角パン屋にバイト行ってるんだから、その分家族にも還元してあげなきゃと、多町さんが持たせてくれた。本当はもっと入れてくれていたのを、気づかれないようゴミ袋にそっと放った。

 多町さんは、苺系のパンを3個持ち帰った。バイトの規則では一人1個までと決められている。社員さんがいない今日みたいな日は規則をなかったことにして、多町さんは多めにパンを持ち帰る。

「きちんと包装してないから、帰ったらパイがハゲてるかもしれないなー」

 紙袋の中に散乱したパイは、ボロボロになってしまうから外では絶対に食べられない。一度持ち帰った時は、スプーンですくって食べた。

「口に入れれば全部一緒なんで大丈夫ですよ」

「いやぁ、子どもがね。気にするんだよねぇ」

 そうなんですね、と私が相槌を打つ前に、多町さんはじゃあねと言って颯爽と坂を登っていった。プツンと唐突に切れてしまう会話に、私は未だ戸惑ってしまう。多町さんのすごく明るいのにすごく冷たいところは、うまく言えないけど新鮮だ。

 多町さんの自転車は、前と後ろにチャイルドシートが付いている。そこに乗っているお子さんを私は知らない。多町さんが坂を登り切る姿を見届けてから、私も反対方向に自転車を走らせた。


 最近、家に帰ると玄関まで母がわざわざ出迎えてくれるようになった。パンの匂いがする、とバイト帰りの時は必ず言う。うちは鏡が玄関に置いてある特異な家庭という訳じゃなく、玄関先に立っている母だ。つり上がっていてきつい印象を持つ目も、高くもなく低くもない鼻も、ちょっと頬骨が出っ張っているところまでそっくりだけど、遺伝の力ではない。母は自分の顔をいじって、私になった。

「遅かったね。おかえり」

 母が笑う時、右頬だけ引きつったような感じになる。私の顔になった今も、それは変わらなかった。私が無言で母を見つめるとますます一人だけ楽しそうにしている。根負けして私は乱暴にカバンを置いた。

「私のバイト先行ったでしょ。止めてよ」

 睨みつけても、母は事の重大さを分かっていない。なんだそのことか、となんでもないようにあしらう。私の顔でそうされると、余計に苛立ちが募った。

「だって、行ってみたかったんだもん」

「少なくとも制服は勘弁して」

「いいじゃない。あらかじめどのパン買ってくかちゃんと決めたから、5分ぐらいですぐに帰ったんだよ」

「そういう問題じゃないんだけど。バイトの人に一昨日来たって訊かれたんだよ。やめてよ」

 母は私が不満を漏らすのを照れ隠しだと思っている節があって、私の言葉が全く響いていない。むしろ揶揄うような視線を向けてくる。

 母の顔は私のほくろの位置まで綺麗にトレースされていたけど、毛穴とかニキビとか、剃りすぎた眉毛とかはなくて、とても精巧に作られた人形みたいにツルツルとしている。

「今日何食べたの?」

 私の話はなかったことになる。

「なんでもいいじゃん」

「いいじゃない、一緒のもの食べようよ。お母さん明日十環の食べたパン買ってくる」

 母、ではなくなった人との距離感は、あんまりにも近くて息が詰まる。一卵性の双子になろうとするために、母は一卵性の双子が全くしなさそうなことばかりを提案してくる。その徹底ぶりを見ていると、顔を変えようとしていたことを忘れそうになる。

「本当に嫌なんだから」

 ごめんを2回繰り返して、母は玄関から退散した。

 ローファーを揃える。私と母は靴のサイズが5ミリ違うけど、ほとんど誤差のようなものだ。履きぐせのついたローファーを、私は取り出しづらい靴箱の二段目に入れた。

 袖を摘んで匂いを嗅いでみた。慣れすぎたのか、パンの匂いがするのかはあまり分からない。そもそも、バイトの間は着替えているから制服はロッカーに置きっぱなしになっている。それでも母は匂うと言う。

「お母さん、これパン」

「お土産? これ十環が食べたやつ?」

「違う」

 帰るまでに崩れてしまうようなパンを持って帰ればよかった。ミニドーナッツの油で袋が濡れている。

 自分の姿形を変えるのなら、整形ぐらいでちょうどいい。今の母は私過ぎる。しかもどんどんとエスカレートしていって、バイトにまで侵食してきた。私にはそれがとても恐ろしいことのように思えた。

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