第53話 王都発、敵国行(三)

「結構似合っているじゃないか」

 レオンガンドが、ルウファの姿を見るなり口にしたのはそんな言葉だった。しかし、その台詞とは裏腹に、笑いを堪えきれないといった表情なのは、どういうつもりなのだろう。似合っていないといっているようなものではないのか。

 などと想いつつも、ファリアは、ルウファの横顔を見て、胸中ではレオンガンドの表情と同様の見解にならざるを得なという気分ではあった。

(確かに、似合ってはいないけど……ねえ?)

 同意を求めるべき相手もいない空間で、彼女は心のなかでつぶやいた。

 頭髪と眉毛まで特製の染料で真っ黒に染めたものの、ルウファの顔立ちは貴公子のそれであり、どことなく不自然なものに感じられた。そして、どこか野生的な面構えのセツナとは似ても似つかないものだ。

 それも当然だろう。

 顔立ちも違えば、背格好も違うのだ。似る要素など最初からなかった。ただ、遠目に黒髪の少年に見えてくれればいいという理由だけで、ルウファが選ばれた。

 そして、遠方からならば、顔立ちなどはっきりとわかるはずもない。

 いや、そもそも、セツナの顔なんてほとんど知られてはいないのだから、関係がないかもしれない。

 例えセツナの容姿に関する正確な情報が伝わっていたとしても、実際に見たことがないのならば、ルウファの変装を見破ることはできないはずだ。ルウファの知人には簡単に看破されるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

「に、似合ってますか……?」

「ああ。ばっちりだ。これで、他国にセツナの不在を悟られることはないだろう」

「はあ……」

 レオンガンドの力強い断言にも、ルウファはまるで安心できないといった反応を見せた。

 彼の身になれば、不安におちいるのもわからなくはない。

 変装といっても、髪を黒く染め、衣服を高価なものから安物に改めたくらいなのだ。その程度の変装では万全とは思えないし、安心できないのも当然だった。

 といって、これ以上どうすればセツナに近づけられるのか、といえば、ほかに名案があろうはずもない。

 ファリアは、不安そうに微笑するルウファの横顔から前方に視線を戻した。

 彼女たちがいるのは、獅子王宮ししおうきゅうの真っ只中、鎧の回廊にある戦略会議室の中だ。

 壁面に張られた三つの地図は、その戦略会議の向かう先を示しているかのようであり、実際その通りなのだろう。

 しかし、無数の椅子が並べられた長方形のテーブルについているのは現在、レオンガンドひとりだけだった。

 文官武官は愚か、彼が重用している側近の姿も見当たらない。

 この室内にいるのは、たった三人だけなのだ。

 余程重要な話なのか、それとも、レオンガンドの側近たちが多忙のあまり顔を見せる暇さえないのか。

 ファリアには、前者よりも後者の可能性のほうが高いように想われた。

「さて、本題に入ろう。きみたちに新たな任務を引き受けてもらいたいのだ」

「これとは別に、ですか?」

 至極当然のことをおずおずと尋ねたのは、ルウファである。

 その挙動不審にも見える態度は、王への畏怖いふと緊張から来るものに違いない。彼は、王宮に呼び立てられて以来、ずっとそんな調子だった。

 それもそのはずである。

 バルガザール家といえば、ガンディアでも名だたる家柄であり、名門中の名門だ。

 彼の実兄ラクサスがそうであるように幾人もの騎士を輩出しており、なにより、彼の父アルガザードは将軍であり、軍の指揮を任されるほどの人物なのだ。

 そんな家に生まれ、未来の騎士としての英才教育を施されたのだとすれば、王への忠誠心が並外れたものとなっていたとしてもおかしくない。

 もっとも、生まれてからこの方、忠誠を誓うべき主君を頂いたことのないファリアにはいまひとつ実感しづらい感情ではある。

 無論、ファリアがレオンガンドを前にして緊張していないというわけではないのだが。

「そうだ。もちろん、きみには武装召喚師セツナ=カミヤとして振舞ってもらわなくてはならない。表向きは彼の手柄になってしまうが……」

「だ、大丈夫ですよ!」

「それならいい。任務の内容だが、ふたりにはクレブールへ向かってもらいたい」

「クレブール……ですか?」

 ファリアは、レオンガンドの意図を探るようにその都市の名を反芻はんすうした。彼女の脳裏には、クレブールの色あざやかな町並みが浮かび上がる。

 彼女は一度だけ、その都市を訪れたことがあった。

 散策するほどの時間的余裕はなかったが、それでもクレブールの市街を塗り潰す多様な色彩しきさいは覚えていた。

 クレブールといえば、ガンディア王国南部にある都市だ。

 規模としては城塞都市マルダールよりも小さいのだが、マルダール以上の活気に満ち溢れる都市だった。

 クレブールはガンディアの南端に位置しているといっても過言ではなく、同盟国であるミオン、ルシオンとの国境に近かった。

 そのため両国との交流が盛んであり、人の出入りの多さは王都にも勝るとも劣らないといわれている。そしてルシオン、ミオンの人々との交流は、クレブールに多大な影響を与えており、三国の特色が入り乱れた都市が、半ば混沌とするようにして出来上がっていったのだという。

「リノンが、ようやくルシオンに帰ることになったのでね。きみたちにクレブールまでの護衛を頼むことにしたのだ」

「リノンクレア様なら、白聖騎士隊はくせいきしたいの方々とともに御帰国ごきこくされるのではないのですか?」

 ルウファの質問は、ファリアの疑問と同様のものだった。レオンガンドは、穏やかにうなずく。

「そうだ。本来ならば、リノンに護衛の必要はない。白聖騎士隊さえいれば、帰途、皇魔おうまに遭遇しようが、野盗の集団に襲い掛かられようが苦もなく排除してくれるだろう。が、彼女は我が妹とはいえ、同盟国の王子妃殿下だ。我が国が護衛もつけずに送り返したとなると、ルシオンでどんな評判が立つかわかったものではないだろう?」

「それはわかりますけど……体面のことを気になさるのでしたら、騎士の方々に任せたほうが都合が良いのでは?」

「都合――そう、都合の問題なんだよ。騎士を同行させるよりも、きみたちを行かせたほうがなにかと都合がいい」

 レオンガンドの双眸そうぼうに鋭利な光が宿る。

 その理知的な輝きは、彼がつい先日までうつけなどと呼ばれていたのが信じられなくなるほどのものだった。そしてそれは一朝一夕いっちょういっせきで身につく類のものではないことは、ファリアにも理解できる。

 以前より、レオンガンド本人が内包していた実力の一端に過ぎないのだろう。

 もっとも、ガンディアに来て以来、まるで古くからの友人のように接してもらっているファリアには、わかりきった事実であり、驚くような出来事ではなかった。

 レオンガンド自身、己の能力を隠しているわけではなかったが、うつけという悪評を面白がっていたところがあり、わざと愚鈍ぐどんに振舞うこともあったのも事実である。

 ファリアは度々そのことで注意したのだが、レオンガンドは笑って取り合わなかったものだ。

「黒き矛のセツナが、クレブールに向かったという事実が欲しいのだよ。理由はなんだって構わないが、リノンの帰国に付き従ったというのなら説得力も増すというものだろう? セツナはバルサー平原の戦いで名を上げたばかりの、少し前まではだれも知らなかった人物だ。そんな無名の召喚師が、先の活躍で王に気に入られ、愛しい妹の帰国に際しての護衛に抜擢された――中々に素敵な筋書きじゃないか?」

 レオンガンドが熱っぽく語るのは、まさに夢物語のようなものだ。

 つい先日までどこのだれも知らなかった少年が、厳しい戦いの勝利を決定付けたがために、一躍ガンディアの有名人の仲間入りを果たしたのだ。仕官を夢見る若者でさえ想像しないに違いない。絵空事と鼻で笑うものもいるかもしれない。

 しかし、事実だ。

 セツナは、戦場に立ったことすらない素人だと自称していた。実際、その通りだったし、いくら武装召喚師なのだとしても、彼の活躍を予想できたのはだれひとりとしていなかった。

 ファリアでさえ、そうだ。

 彼が、戦局を左右するほどの力を発揮するなど、想定しようもない。

 カランにてランカインを打ち倒したという実績から、ある程度の活躍は間違いないと見ていたが――まさかのまさかだ。

 彼女が、あのとき彼の活躍に対して我を忘れずにいられたのは、そこが戦場だったからに他ならない。

 戦場特有の狂ったような熱気が、むしろ、彼女に冷静でいることを強いた。いつもなら狂喜乱舞するところだったが。

(でも、素敵かしら?)

 ファリアには、とてもそうは想えなかった。

 それ以上に言い知れぬ怖れを感じている。

 具体的になにが恐ろしいのか、自分でもよくわからないのだが。

 誰しもにとって夢のような日々は、セツナにとって悪い夢ばかりではないか。

 そんな風に考えてしまうのは、セツナの側に立って物事を捉えすぎているからなのか、どうか。

 ファリアは、時々、自分がなにをしたいのかわからなくなった。そして、こんなことは、彼女の人生で初めてのことだった。

「そんな夢みたいな話だ。すぐに噂となって拡散するだろうし、なにより、諸国の諜報網が真っ先に捉えることになるだろう。ガンディア軍の主力といって差し支えない武装召喚師が、ガンディアの南にいるという情報がね。これで、少なくともしばらくはログナーの我が国への警戒も弱まるはずだ」

「なるほど。その間にセツナたちにログナーの様子を探ってもらおうというわけですね」

「そういうことだ。出発は、今のところ二日後を予定している。同行するのは、リノンと白聖騎士隊、それに選りすぐりの兵士百名だ。事の仔細しさいは、白聖騎士隊長に聞いておいて欲しい」

「わかりました」

 ファリアは、静かにうなずいた。

 二日後とはまた急な話ではあるが、突然の任務を言い渡されたのはセツナたちも同じだ。

 しかも、向こうは命の危険を伴う過酷な任務だが、こちらは、行程によっては皇魔に出くわすことなどないかもしれないし、安全な旅行と考えることもできた。

 もっとも、白聖騎士隊長ことリノンクレア・レーヴェ=ルシオンが、街道を通ってまっすぐ帰国しようとするかどうか、それが問題といえば問題だった。

(さすがに、自重じちょうしてくださると想うけれど……)

 リノンクレアは、国のためになら自身を犠牲にできる高潔な女性ではあるが、かといって完全無欠とは程遠い人物でもあった。

 いや、それは当たり前のことなのだ。

 ファリアの知る限り、そんな人間はだれひとりとしていなかった。

 不完全だからこそ人間である、というのは母からの受け売りではあるが。

 ともかくも、りんとした騎士であり、美しい王子妃であり、可愛らしい女性であるリノンクレアの子供染みた一面が出ないことだけを、ファリアは心の底から願った。

 不意に、レオンガンドが椅子から立ち上がった。

 王の改まった表情に、ファリアは、緊張とともに姿勢を正した。

「きみたちには苦労を掛けることになるだろうが、よろしく頼む」

「はっ!」

「特に、きみには期待しているよ。ルウファ=バルガザール」

「は、はい! 必ずや御期待に応えて見せます!」

 レオンガンドからの予期せぬ言葉に、ルウファが、驚愕のあまり声を裏返らせてしまったのは、彼としては仕方のないことだったのだろう。

 ファリアは、くすりと笑った。



「上手くいきましたか?」

 レオンガンド以外だれもいない静寂に包まれた戦略会議室に波紋を浮かべるように問いかけてきたのは、彼もよく知る青年だった。

 音も立てずに扉を開閉して室内に入ってきたかと思うと、無音のままでありながら軽やかな足取りで、彼のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。

 無表情という言葉がこれほど似合う人間もいないのではないかというほど、表情に変化のない男だった。長めに伸ばされた黒髪に、どことなく妖しい輝きを帯びた灰色の瞳を持っている。名をキース=レルガといった。

 レオンガンドは、彼の目を見つめながら返答を浮かべた。

「その言い様では、まるでわたしが彼女らを騙すのに苦心していたかのようじゃないか。まあいいさ。ふたりは了承してくれたよ。二日後には、セツナ御一行がクレブールに向かうという情報が流布されることになるだろう。ログナーがそれによってこちらへの警戒を緩めてくれるならそれで良し」

「そうならなくとも、セツナ=カミヤたちがいる、と」

「彼らなら、ログナーを掻き回してくれるはずだ」

 レオンガンドは、そうはいったものの、確たる根拠があるわけではなかった。希望的観測というほどでもないが、楽観的に考えている部分もあるのは認めるしかない。

 騎士ラクサス=バルガザールは、能力的にも人格的にも申し分のない人物である。剣の腕は一級品であり、騎士の中でも最高峰だといわれている。

 部隊長としての経験も豊富であり、今回の任務では彼の指揮能力にも期待しての抜擢であった。

 セツナ=カミヤは、戦闘能力ではまったく問題がなかった。

 大国でさえ持ち得ないような破壊力を秘めているのだ。

 だが、一方では経験の少なさが気になるところではあった。バルサー要塞奪還戦が彼の初陣であり、それまで実戦といえば、カランでのランカインとの戦いと、召喚直後の皇魔との戦いだけだという。

 彼の生まれ育った世界、国では、実戦などというものがなかったらしい。あったとしても喧嘩くらいのものであり、それも血なまぐさいものではない。

 少なくとも、生死を懸けた戦いなどとは無縁の人生を送ってきたというのだ。

 そんな少年が、この世界に召喚され、力を手に入れてしまったがために、いまやこの国の重要な戦力に数えられている。

 セツナにとってそれが喜ばしいことなのか、レオンガンドにはわからない。

 経験の少なさは、ラクサスが助けてくれれば問題にはならないが、だとしても、やはり、レオンガンドは考えざるを得ないのだ。

(これで良かったのか?)

 果断かだんろうとは、想う。

 決断することが彼の役目なのだ。

 迷いは、ガンディアにとっての好機を逸することになりかねず、それは時として国家の致命傷になりかねない。

 この国をよりよくするためには、非道とも取られるような選択をしなければならないこともあるだろう。

 それが例えば、少年を敵国に放り込むことであり、大量殺人者をそれに同行させることだとしても。

 レオンガンドは、まぶたを閉じた。視界を覆った暗闇に浮かぶのは、ある男の虚ろなまなざしだった。

 男の名は、ランカイン=ビューネルといった。

 その家名から、ザルワーンを支配する五竜氏族ごりゅうしぞくに連なるビューネル家の人間であることは明白であり、事実、彼はザルワーンからの刺客であった。

 ランス=ビレインと名を変え、傭兵としてこの国に潜伏せんぷくしていたのだが、その目的とはガンディアを混乱させることでログナーの侵攻を援護するというものだった。

 しかし、彼の目的は果たされなかった。

 カランこそ焼き尽くし、多数の死傷者を出したものの、この国に大きな混乱は起きず、ましてや即座にログナーが動き出すということもなかったのだ。

 歯車が狂ったのか。

 それとも単に、彼が狂っていたのか。

「カイン=ヴィーヴルのことなら、心配は要らないでしょう」

「わかっている」

 レオンガンドは、まるで頭の中を覗いているかのようなキースの言葉に内心むっとしたものの、表情にも声音にも感情を乗せることはしなかった。静かに目を開く。感情の見えないキースの表情は、彫像ちょうぞうほどの面白みもない。

 ランカインを同行させたのは、強力な武装召喚師だからというだけではなく、彼がログナーに詳しいからでもある。

 彼がまだザルワーンにあったころ、ログナーの地形を記憶するために何度となく脚を運んだのだという。

 無論、彼の罪をゆるしたのではない。

 赦すことはないだろう。

 彼がどれほどの戦果を上げ、戦功を積もうとも、国民を虐殺ぎゃくさつしたという事実は消えない。

 であれば、極刑きょっけいこそが相応しいというものもいるだろう。

 しかし、それでは生温なまぬるいのだ。

 国民感情ではなく、レオンガンドの心がそう言っている。

 ランカインに相応しい罰とは、何であるのか。

 それが見つかるまでは、せめて、この国のために命を磨り減らしてもらおう。

(この国のために)

 その想いは、己への欺瞞ぎまんなどではない。

 それだけははっきりとしていた。

 レオンガンドは、この国を愛しているのだ。

 ガンディア。

 大小無数の国々に囲まれた小さな天地に過ぎない。

 小さな、本当に小さな国だ。

 今日まで歴史を刻んでこれたのは天運に恵まれていたからなのかもしれない。戦いが起きたとしても、小国家間の小競り合い程度で済んでいたのだ。しかし、停滞した大陸の情勢が動き出せば、そうも言っていられなくなるのは明白だった。

 レオンガンドは、立ち上がるなり背後を振り返った。壁一面に張り付けられた地図が視界を埋め尽くす。

 ワーグラーン大陸の全体図である。まず目を引くのが、ヴァシュタリア、ザイオン帝国、ディール王国という大陸を三分する勢力だろう。

 至高神ヴァシュタラによる救済を掲げ、大陸北部をその信仰の下に統治するヴァシュタリア。

 初代皇帝シウェルハインが固めた地盤を着実に拡大し、大陸東部を支配下に置くザイオン帝国。

 聖皇せいおうミエンディアの血統を主張し、大陸の統一に乗り出したデュエイン=ディールを祖とし、大陸西部を治めるディール王国。

 いわゆるワーグラーンの三大勢力である。

 大陸図を勢力や国家の領土ごとに色分けすれば、その三つの勢力が大陸のほとんどを塗り潰してしまうだろう。

 ガンディアなど、それらと比べるのもおこがましいくらいに矮小な存在だった。それはログナーもザルワーンも同様であり、三大勢力のいずれかが動き出せば、小国家群などたちまち吹き飛んでしまうというのは自明の理であった。

 力の差は歴然。

 十倍、二十倍などという生温いものではないのだ。

 いや、ガンディアにとっては十倍の差でさえ絶望的だと思えるのだが、三大勢力の動員しうる兵力は、その遥か上を行くであろう。

 圧倒的な物量差だ。

 それらと相対すれば、戦いというものさえ起きずに飲み込まれてしまうに違いなかった。

巨獣きょじゅう……)

 ふと、そんな言葉が、レオンガンドの脳裏に浮かんだ。

 ワーグラーン大陸という広大な舞台の上に君臨する三頭の巨大な獣が、肩を寄せ合う小動物たちを尻目に睨み合っている――そんな幻想。三頭の巨獣が一度行動を開始すれば、小動物たちなど瞬く間に踏み潰されるのが落ちだろう。

 睨み合いを続けている今が好機なのだ。

形振なりふり構っていられないのさ)

 レオンガンドは、胸中で告げると、大陸図の上で睨み合う巨獣たちから視線を外した。

 力が必要だ。

 巨獣の足音が聞こえるまでに力をつけなくてはならない。

 国家として強靭きょうじんにならなくてはならない。

 そのための簡単な方法は、他国を併呑へいどんするということだ。数多ある小国家に攻め込み、打ち倒し、喰らい、取り込むのだ。

 ガンディアのために。

 この愛すべき小国のために。

 すべての人々の心の平穏のために。

「まずは、ログナーだ」

 彼の決意は、もはや揺るぎようがなかった。



「ったく、どこから湧いてきたんだよ!」

 セツナが、だれとはなしに罵声ばせいを浴びせたくなったのは無理からぬことだったのかもしれない。

 静寂せいじゃくを引き裂いたのは、狂気に満ちた奇声である。

 それら金切り音が、心地良い眠りを徹底的に破壊し、彼の意識を覚醒させたのだ。眠気は潰え去ったものの、安眠を妨害されたことによる不快感が、彼の表情を険しいものにしていた。

 世界を覆うのは夜の闇であり、頭上に瞬く無数の星々と膨大な月明かりが、彼の視界にわずかばかりの光明をもたらしていた。

 そして、周囲の闇に蠢く数多あまたの赤い光は、間違いなく人外の化け物の眼光だった。

 皇魔。

「大方、近くの森に巣でもあったのだろう」

 背後から聞こえたラクサスの声は極めて冷静だった。

「巣!?」

「皇魔は巣を作り、繁殖はんしょくする。そんなことも知らないのか?」

 これ見よがしに知識を披露してきたのは、ランカインである。

「悪かったな!」

「嫌われたものだな」

「笑ってる場合かよ!」

 セツナは吐き捨てるように叫ぶと、周囲の状況を確認するために視線を巡らせた。

 背後にはラクサス=バルガザールが立っていて、いつの間にか抜いていた長剣を構えている。ランカイン=ビューネルは、セツナの右前方におり、彼は無手だった。

 それはセツナも同様だったが、武装召喚師であれば当然のことだろう。

 そこは、マルダールの西方、アザーク領へと至るベイル街道の外れである。

 ランカインとの合流後、一刻も早くアザークへ向かいたいというラクサスの要求に従い、マルダールでは夕食を取っただけだった。

 マルダールを後にした三人は、馬車でベイル街道を急いだものの、夜の間に国境に到達することは不可能だという御者の忠告に従い、街道の外れで野営することにしたのだ。馬車の中は、男四人が寝るには狭すぎたため、御者が使うことにし、残る三人は外で眠ることになった。

 馬車には野営のために夜具を積んでいたため、寒さに震えるようなことはなかったのだが。

 まさか、皇魔に夜襲を仕掛けられるとは、セツナには想像もできなかった。

 不意に、甲高い悲鳴が上がった。

 馬のいななきであり、皇魔の気配に起こされたようだった。それまで悲鳴を上げなかったところを見ると、皇魔の最初の叫び声では起きなかったらしい。神経が図太いのか、どうか。

「さっさと片付けよう。馬を傷つけられでもしたらたまったものではないからな」

「わかってる! 武装召喚!」

 セツナは、黒き矛を召喚すると、召喚の光に驚きこちらに注意を向けた皇魔の群れの中に飛び込んだのだった。

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