第41話 平穏なりし要塞の日々
「ふう……やっと抜け出せたわね」
洪水のような人だかりから、もみくちゃにされながらもなんとか脱出することに成功したファリアは、その静まりそうもない
彼女にも想像がつかないくらいの状況だったが、それもこれも、レオンガンドの不用意な――それでいて
先の戦いの勝利を軍だけの手柄にすることもできたのだ。
そうすれば、ガンディアの弱兵という評判は
元より誠実な人柄だということもあるのだろうが、意識を失うほどに戦い抜いたセツナへのせめてもの恩返しという気持ちもあったのかもしれない。
もちろん、それだけではない。
先ごろ行われた
それを聞いたファリアは、当然の結果に疑問も生じなかった。
セツナの働きがあればこその完勝といっても、誰も文句をいわないだろう。
武装召喚師だからということで卑下される謂れはなかったし、否定されるはずもない。
彼は、与えられた役割を全身全霊でこなした。
そして、ガンディア軍に大勝利をもたらしたのだ。
それを褒め称えずして、なにを称賛するというのか。
期待以上の働きには、さしものレオンガンドも驚愕するばかりだったようだが。
ともかくも、レオンガンドの
いや、それどころではない。
ガンディア国内のみならず、周辺諸国にもその名が知れ渡ったとしても不思議ではなかった。
さながら、雷名が轟くが如く。
ガンディア国内ならば、今回のような騒ぎになるだけで済むのだろうが、これが国外であった場合どうだろう。
それこそ、ログナーならば――。
(駄目駄目。馬鹿なこと考えてる場合じゃないわ)
ファリアは、胸中でひとりつぶやくと、
いまは、セツナとともにここから立ち去ることを第一に考えるべきだった。
人だかりを
恐ろしいまでの騒ぎへと発展してしまったのは、やはり
市民がセツナのことで盛り上がるのはいいのだ。
むしろ、セツナの活躍で活気を取り戻せたのなら、それに越したことはない。
しかし、その結果、セツナの日常に支障が出ては、
とはいえ、こんな騒ぎも今の間だけのことだ。
しばらくすれば起きなくなるに違いない。
ここまで過剰に盛り上がっているのは、熱しやすく冷めやすいというガンディア国民の性格を大きく反映しているからなのだ。
ファリアは、
彼はまだ、人だかりの中にいるのだろうか。
(なんか、とてつもなく疲れたぞ)
セツナは、ぐったりと、その場に座り込んだ。疲労感がどっと押し寄せてくる。
山のような人だかりからなんとか抜け出すことに成功した彼は、人目を避けるようにして大通りを外れ、人通りの少ない路地に身を隠したのだ。
そうでもしなければ、またあの騒ぎに巻き込まれそうな予感がしたからだ。
もちろん、数え切れないほどの人たちに誉めそやされ、持ち上げられることそのものは、決して悪い気分ではなかった。
むしろ、素直に嬉しかったし、過剰なまでの賞賛には気恥ずかしさすら覚えたほどだ。
自分の活躍をここまで喜んでくれるとなれば、あれだけ全力で戦ったことにも意味があったのだと思えてくるというものだろう。
そうはいっても、あの人だかりの中でもみくちゃにされ続けるのは勘弁願いたかったし、だからこそ抜け出してきたのだ。
そして、なんとか脱出することには成功し、こうして人混みから逃れることこそできたものの、そこにはファリアはおらず、痛恨の想いだった。
抜け出した後、その場に留まっていればすぐにでも合流できたのかもしれない。しかし、合流よりも早く人だかりに埋もれてしまうことを危惧したのだ。
その結果、唯一の頼りであるファリアと離れ離れになったのは、痛手というほかない。
(なんだかな~)
セツナは、嘆息交じりにレオンガンドの顔を思い浮かべた。
いつになく晴れやかな笑みをした美貌の男が、大観衆の前でセツナの名を喧伝するといった光景を想像して、彼はため息をさらに深めた。
もちろん、レオンガンドに対してどうこういうつもりはない。
彼には彼のやり方があり、その結果としてセツナは人々の注目の的になってしまっただけのことなのだろう。
レオンガンド自身、ここまでの事態になるとは予想だにしていなかったはずだ。
人だかりが未だに収束していないことは、大通りのほうから聞こえる喧騒のおかげで簡単に
いや、収束どころか拡大の一途を辿っているようにさえ思えるのは、それだけ声が大きくなっているからだ。
数え切れないほどのひとが集まっているところを見れば、気になるのが人情というものだ。そして、その渦中にいる人物が、
そこには、様々な思惑があっただろう。
ひとつは好奇であったり、興味であったり、皆がそうしているから参加したものもいるだろうし、わけもわからず巻き込まれたという人もいるかもしれない。ともかくも、老若男女が見せる数多の表情が、セツナの
皆、きらきらしていた。
「はあ……」
興奮して見境のなくなった集団の恐ろしさを身に染みて感じることになったこともあり、この出来事は、セツナにとって忘れがたい事件になった。
頭上を仰ぐと、さっきから代わり映えのしない青空が、その雄大さを誇示することもなく、ただただ漠然と広がっていた。
白く輝く天体は、やはり太陽であるらしく、夜空を照らすのもまた、月といった。
そういう意味では、セツナの生まれ育った世界――というよりは地球――と、このイルス・ヴァレに目に見えた違いはないように思える。
もちろん、武装召喚術という技術などと呼ぶには強大すぎる力もあるにはあるし、
(それを除けば……なあ)
無論、彼の住んでいた街とは随分と勝手が違う。
中世めいた町並みとはいうものの、それは見た目だけの話であり、実際のところはどうなのかなど、ほとんどまったくわかっていないのが現状だった。
そもそも、この世界の時代区分とセツナの世界の時代区分が同一であるという前提で考えること自体、無理があるのではないか。
ゆっくりと伸びをして、あくびを漏らす。
ファリア曰く、五日もの間眠りっぱなしだったというのだが、セツナにはそのような実感はまるでなかった。よく寝た、という感覚さえもない。
夢は、どうだったか。
(見たのかな?)
おぼろげな記憶を辿れば、見たような気もするのだが。
(まあ、どっちでもいいか)
セツナは、静かに立ち上がると、辺りを見回した。
大通りを少し逸れた路地に人気がないのは、露天や屋台の集中する大通りにこそ人足が集中するからだろう。それにしても、大通りから少し外れただけで、人影ひとつ見当たらなくなるのは異様な感じがした。
「ん?」
ふと、セツナは違和感を覚えた。とてつもなく奇妙な感覚だった。寒気とともに全身の皮膚が
それは、なにかが発散している波動のようにも感じられた。
(どこだ……?)
セツナは、違和感の発信源を探して、視線を
決して広くはない路地の隅から隅まで行き渡らせ、異常の有無を確認する。見知らぬ町並みから異常を見出すことなど不可能かもしれなかったが、あれこれ考えている暇はなかった。そうする間にも、違和感は強くなる一方だった。
まるで戦場に立っているような感覚に近い。
しかし、違うのだ。
ここは戦場ではない。血の臭いもなければ、死の影も見えない。狂ったような熱気などあるはずもなく、故に、
ただ
「あ――」
セツナは、路地の先、大通りとの合流地点に目を向けたとき、緩慢な人波の中を悠然と進む女の姿を発見して、息を止めた。燃えるような真紅の髪は、さながら地獄の業火のようであり、人波に埋没することなくその存在を主張している。
(あれは……!)
セツナは、我知らず、その場から飛び出していた。地面を蹴る足に力が
会って、問い質さなければならない。
炎の如き髪の女など、セツナはひとりしか知らなかった。
(アズマリア=アルテマックス!)
「ったく、だらしないなあ。そんなんだから、
などと口にしながらも、ルクス=ヴェインは、だらしなくくずおれた男たちの姿に呆れ果てたわけではなかった。
彼の周りでは、屈強な肉体を持つ男たちが、息も絶え絶えといった様子で這い
二十代前半が中心だったが、三十代半ばの男も少なくはない。
男たちの全身から噴き出した大量の汗が、乾いた地面を黒く塗り潰すかのようだった。
晴れやかな青空の下、吹き抜ける風が、軽い運動をしたばかりの体に心地いい。
そこは、バルサー要塞の堅固な城壁の内部だった。
中心に聳え立つ壮麗というよりは剛毅な印象を与える天守、その少し南に運動をするのに適した広場がある。元々、要塞に
そうでもしなければ、気が狂いそうなほどに退屈だったのだ。
ガンディアとの契約期間の延長によってバルサー要塞に留まることになった《蒼き風》の面々だったが、実際のところ、彼らがすべきことなどほとんどなかった。
バルサー要塞への駐屯とは、つまるところ、ログナーへの牽制である。
戦後、取り戻したばかりの要塞を再び奪い返されないために、ある程度の戦力を残す必要に迫られたレオンガンドが下した結論でもあった。
要するにガンディアの正規兵はあまりにも頼りにならないということであり、傭兵たちこそ信頼できるということだ。
そしてそれは当然の結果だと、誰もが想っていた。
ガンディア軍の戦場でのあの腰の引け具合を見たならば、そういった決断を下さざるを得ないだろう。
無論、兵士たちとて全員が全員、
一部には、みずからの命も
しかし、ガンディア兵の大多数が、最後の最後で
(いや……それも仕方ないか)
彼は頭を振って、みずからの考えを打ち消した。
思い返せば、ルクスたち歴戦の
荒れ狂う暴風の如く戦場を駆け抜けたひとりの少年、その
その力は、あまりにも強大すぎたのだ。
あまりにも
だからこそ、兵士たちは、セツナに恐怖を抱いたのだろう。
ともかくも酷い有様だった。
ルクスの記憶にもないくらいの
(惨状……か。ひどいな)
ルクスは、自分の言葉に苦笑した。
セツナの凶悪なまでの活躍振りを惨状と評するのは、あまりにも失礼だろう。彼は彼なりに力を尽くしただけなのだ。だれよりも純粋に、役割を果たしただけに過ぎない。
その様子がいかに悪魔的であろうとも、悲惨なものではないはずだ。
もっとも、気高く清らかなものでもないのだろうが。
「手柄、ですか……?」
と、ルクスの意識を現世に呼び戻したのは、
若い男だった。黒髪の青年は、手にした木剣を杖代わりに立ち上がると、一呼吸置いてからこちらに向き直った。彼は《蒼き風》の傭兵ではなかった。ガンディアの正規兵であり、
アルガザード将軍とともにバルサー要塞に駐留することになった兵士のひとりだ。それは、彼以外のこの場に倒れている全員にも言えることではあるが。
そうなのだ。
ルクスが、今もなお地面に倒れ伏し、立ち上がることさえままならない男たちに呆れないのは、彼らから多少の向上心を感じ取ることができるからだ。それは、彼ら約三十名の兵士がみずからの意志で、ルクスの鍛錬に付き合っていることからもわかるだろう。
彼らが、訓練を付けてくれと、志願してきたのだ。
一介の傭兵風情に過ぎないルクスに、である。
これにはさすがのルクスも目を丸くしたし、同時に、ガンディアもまだまだ捨てたものでもないかもしれないと想ったのだ。
彼らも彼らなりに考えていたのだろう。
あの戦いにおいて、自分たちの果たした役割とはなんだったのか。そもそも役割を果たせたのか、なにかできたのか、ただその場にいただけではないのか。弱兵の
「そう、手柄。きみらがもっとしっかりしていれば、セツナなんかに手柄を奪われずに済んだってこと」
「そんな無茶な!?」
大袈裟なまでの悲鳴を上げたのは、立ち上がったひとりだけではなかった。倒れたままの兵士たちも、ルクスの言動に打ちのめされたかのような声を発していた。
ルクスは、予想以上の反応に満足した。微笑する。
「まあ、冗談はこれくらいにして、続きをやるかい?」
「じょ、冗談……って」
たかがそれくらいのことで崩れ落ちそうな青年の様子に、ルクスは、木剣を構えるのをやめた。
彼は立っているのがやっとなのだ。全身から疲労感が滲み出ている。これでは木剣を振るうこともままならない。
訓練になどならないだろう。
それはやはりほかの兵士たちも同様であり、地に伏す彼らを見回して、ルクスは、ひとまず訓練を切り上げようとした。時間にして約二時間ほどではあったが、ルクスにとっては良い運動といった程度のものだった。
彼らを訓練をしていてもみずからを鍛えることにはならない。
それもわかってはいたことだが。
「おお、やってるな。相変わらず
野太い男の声に、ルクスは、全力でそちらを振り返った。《蒼き風》団長シグルド=フォリアーの
無論、彼とて周囲を威圧しながら歩いているつもりはないはずだ。しかし、鍛え上げられた肉体と野生の猛獣を想起させる
もっとも、いまはその顔には、似つかわしくないくらいに清々しい笑みが湛えられていたが。
ルクスは、勤めて冷静に告げた。
「団長、怖いよ。顔、怖いよ」
「ルクス、てめえ」
ルクスがシグルドに追い掛け回される羽目になったのは、言うまでもない。
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