第27話 卑怯者と呼ばれて

(おれは……)

 セツナは、眼前に広がる地獄の如き光景を見据みすえたまま、矛の柄を握る手に力を込めるだけだった。矛が噴き出した炎にまれ、焼き殺された数百に及ぶ敵兵の亡骸なきがらが、大地を埋め尽くしていた。

 すべもなく焼き尽くされたものたちは、無念むねんと思うひまもなかったのかもしれない。重厚な鎧に身を包んでいようとも、圧倒的な火力の前では意味がなかった。炎に包まれ、焼き殺されてしまったのだ。

 痛みは、あったのだろうか?

(殺した)

 セツナは、いまさらのように恐怖におののいていた。

 そう、いまさらだ。

 なにもかもいまさらなのだ。

 セツナはみずからの意志で武器を手に取り、戦場にのぞんんだのだ。なにを言っても、無様ぶざまな言い訳にしかならない。

 しかし、そういった冷ややかな理性とは裏腹に、セツナの感情は、己の取った行動が生んだ結果に衝撃を覚えざるを得ないのだ。手が震える。その手の震えはやがて全身を揺らし、心へと至る。

 叫ぶ。

(人を殺したんだ!)

 それも、数え切れないくらいの人間を、一瞬にして焼き払ってしまった。

 いとも容易たやすく、思いがけないくらいにあっさりと。逡巡する暇もなければ、殺すという意志さえなかった。気がついたときには、目の前の無数の敵兵が、無惨むざんな亡骸に変わり果てていたのだ。

 あまりにも恐ろしい力だった。

 想像すらできない結果だった。

 冷静でいられたのは、それがあまりにも常軌じょうきいっした事態だったからに他ならない。

 一線を越えた。

 超えてしまった。

 武装召喚師とはいえ、まだしもただの少年であったころには、もはや戻りようがなかった。

 この手は、見えない血によって赤黒く染まってしまった。

 無数の命を理不尽なまでの暴力で破壊してしまった。

 セツナは、歯噛はがみした。心の奥底から湧き上がる様々な感情が、いまや物凄まじい奔流となってセツナ自身を責め、さいなむのだ。

 生まれてからというもの、散々言い聞かされてきたことがある。

 他人の命を奪ってはならないという当たり前の道徳観だ。

 それこそ、一見平穏な社会に生まれたからこその言葉であっただろし、考え方だったに違いない。だが、そうした社会通念が、いままさに鋭利な刃を閃かせるのだ。

 黒き矛を握っていても、その激情の嵐を収めることはできなかった。むしろ、矛を認識すればするほど、感情はたかぶり、セツナを責め立てた。

「セツナ!」

 危機感に満ちたファリアの叫び声は、遥か後方からだった。

 セツナは、いつの間にか俯けていた顔を上げた。はっとする。地獄のような戦場の片隅を映し出す視界を、切り裂くように飛来するいくつもの物体が、その尖端に込められた強烈な殺意をセツナに叩きつけようとしていた。

 しかしもはや到達する直前、避けることなどできるはずもなかった。

(死ぬ!?)

 セツナは、胸中で悲鳴を上げた。

 眼前に迫る十五本の矢は、矛の力を以てしても防ぎようがない気がした。だが、絶望することもできない。

 すべては一瞬の出来事であり、それはさながら、セツナが矛を振るい、数多の兵士を死に至らしめたときのようなものだった。

 敵兵の放った無数の矢は、しかし、セツナの眼前で、突如として撃ち落された。すべての矢が、ほぼ同時に、である。

 なにが起きたのかなど、セツナにわかるはずもなかったし、そもそも、セツナが自分の無事を理解したのは大きな手で背中を叩かれてからだった。矢が撃ち落されたという事実は、認識の外であった。

「無事か? セツナよぉ」

 シグルドの大声は、セツナの耳には痛いくらいだったが、その痛みは我を忘れかけたセツナにとっては救いに近い響きを持っていた。

「え、あ、ああ……なんとか」

 セツナは、鎧が覆っているはずの背中に激痛が走ったことに驚きながら背後を振り返った。軽い鎧だ。装甲が薄いのはわかりきっていたが、手で叩かれただけでこれほどの痛みを感じるものなのだろうか。

 視界を覆うほどの巨躯きょくは、シグルドのものであろう。その巨体が生み出す力は相当なものに違いないが。

「どうやら、大丈夫そうですね。安心しましたよ」

 シグルドの隣に立つジンの微笑びしょうに、セツナは、やっと安堵あんどというものを覚えた。そして、自分が助かったという事実を思い知る。眼前にまで迫っていた矢は、どうなったのだろう。

 無数の矢は、間違いなくセツナに到達する軌道を辿っており、避けようともしない標的に当たらないはずはなかったのだが。

 セツナは、怪訝けげんな表情で矢の飛んできた方向に目を向けたが、どうなったのかなど、まるでわからなかった。兵士の死体の向こうにルクスの姿があり、さらにその向こう側は主戦場であった。

 先程の炎で恐慌状態に陥ったらしいログナーの軍勢と、ガンディア軍の主力が衝突していた。王の姿は見えないが、どこかにいるはずだ。

 レオンガンドにも、セツナの矛の炎は見えたのだろうか。

「しかし、すげえな、おまえの武器」

 シグルドが黒き矛をまじまじと眺める様子を見て、セツナは、どのような表情をすればいいものかわからなかった。

 セツナが黒き矛を召喚したのは今回で三回目であり、まだまだわからないことが多かった。さらには、つい今しがた、大量の命を奪ったのが矛の力だという確信がある。愛着以上に忌避感や恐ろしさが膨れ上がるのだ。

「先の一撃は、右翼に展開していた部隊に壊滅的な打撃を与えただけでは留まりません。あの力に対する動揺が、ログナー全軍に広がっています。動揺は士気の低下を招き、士気の低下は、戦意を奪い去ること確実ですね」

 ジンの分析と明確な説明に、セツナは、素直に感心した。

 確かに、矛の力には凄まじいものがあった。その事実は、だれもが認めるところだろう。数え切れないくらいの兵士が、一瞬にして殺し尽くされたのだ。

 しかし、だからといって、それだけのことでは戦局が大きく動くようなことはないのだろう、と、セツナは想っていた。

 ただ矛を召喚し、有り余る力を解放しただけに過ぎない。燃え盛るカランの街で吸い尽くした炎の力を、思うがままに解き放っただけなのだ。

 戦局を変えようとしたわけではない。

 勝利を導こうとも想っていない。

 戦いの始まる直前、ルクスが言っていた通りにしようとしただけだ。目の前の敵を蹴散らそうとしただけなのだ。

 その結果が、これである。

 眼前――いや、周囲には無数の死体が転がっており、そのほとんどが、セツナの矛の炎に巻かれて絶命した兵士である。彼らは、突如として襲い掛かってきた紅蓮の猛火もうかにどうすることもできなかっただろう。

 炎を放った張本人の存在さえ認識できなかったのではないか。

 セツナは、次第に落ち込んでいく己の不甲斐ふがいなさに、情けなくなっていた。といって、自分の心を叱咤しったしようにも、そんなことができる状態でもない。

「それでも兵力的に見れば向こうが上なんだが……もう立て直すことは不可能だな」

「あちらの指揮官はあの無能将軍ですから、なおさらです」

「まったくだ。王の運が良いのか、ログナーが馬鹿のか。ま、おれらとしちゃどっちでもいいことだけどよぉ。いや、運が良いことに越したことはないな」

「間違いなくログナー側の失策ですが、それを見逃さなかったのは王であり、戦局を現在の状況へと導いた立役者は、セツナ君ですね」

 不意に話を振られて、セツナは、ジンの顔を仰いだ。彼はやはり微笑を浮かべていて、セツナは戸惑いを禁じえない。

 それは、周囲からの無数の視線に対してもいえることだった。敵意や悪意のない、好奇に満ちた数多のまなざしは、セツナには不思議でならない。

 それらは、いつの間にか集まってきていた傭兵たちのものだった。

「おれが……立役者?」

 セツナは、自問とともにその言葉を反芻はんすうした。実感はない。が、ジンがセツナを持ち上げるようなことを言うとも思えない。そのまま受け取ってもいいのだろうか。

 セツナが答えを求めるようにシグルドにまなざしを向けると、彼は、獰猛どうもうな笑みを返してきた。

「ああ! おまえが立役者だぜ。これを見りゃ、だれだって納得するだろ」

 シグルドが指し示したのは、平原に横たわる無数の焼死体であり、セツナは、それらに目を向けるたびに――少しずつではあるが――自分が彼らを殺したのだという実感を覚えるのだった。

「きみが敵でなくて本当に良かった」

 ジンがつぶやくようにいったその一言は、セツナに対する最大の賛辞さんじなのかもしれなかった。

「その通りだ。さて、そろそろpれたちも活躍しねえとな」

「最低でも金額分は働きましょうか」

「おう」

 セツナの前に出たシグルドが、傭兵一同を見回す。次の瞬間、間近にいたセツナの鼓膜こまくが破れるのではないかというほどの大音声が、シグルドの喉からほとばしった。

「野郎ども! セツナぐらい活躍すりゃあ、金も女も望みのままだ!」

「団長! それはさすがに無茶だ!」

「あんたはおれらをなんだと思ってるんすか?」

「ルクス隊長でも無理っすよ!」

 傭兵達の間から次々と発せられる笑い声に、シグルドが、怒鳴り声を被せた。

「はっ! やってもねぇ内にそんなこと言ってんじゃねえ! やるんだよ!」

 それもまた、セツナの聴覚を狂わせるほどの大声だったが。

 シグルドは、セツナが文句を言おうとするより速く、まさに風のように敵陣に向かって走っていってしまっていた。ジンや傭兵たちもそれに続いている。総勢二百名近くの傭兵たちが我先にと疾駆する様は、餓えた獣の群れのようですらあった。

「……騒がしいひとたちね。でも、あれくらいじゃないと、戦場で生き抜くのは無理かもしれないわね」

 ファリア=ベルファリアの声は、やはり涼風のようだと想いながら、セツナは後方を振り返った。異形の弓を携えた彼女は、どこかいつもと違う感じがした。

「どう? 人を殺した感想は」

 セツナは、開口一番のファリアの問いかけに、どきりとした。

 そうだった。

 人を殺したのだ。立役者などといわれて浮かれている場合ではなかった。

 とはいえ、答えるべき言葉が見当たらないのも事実なのだが。

 セツナは、矛を握る手を見下ろした。返り血ひとつ浴びていなかった。矛を振るい、その切っ先で敵の肉体を切り裂いたわけでもなく、頭蓋と貫き、脳漿のうしょうを飛散させたわけでもない。

 炎を噴射しただけだ。

 そこに、セツナの意志は一切介在しておらず、だからこそ、実感が湧くはずもないのだ。もっとも、それを言い訳にしてしまうほどセツナも愚かではなかった。

 殺戮さつりくしたという事実から、目を背けようとも想わなかった。

 手が血に濡れなくとも、命を奪うことはできるのだ。

「きみは、一線を越えたわ。常人と戦士の一線を、ね。いえ、飛躍したというべきかしら。あの一閃で数百人もの命が失われたんだもの」

 ファリアの冷ややかな言葉のひとつひとつに、セツナは、改めて、自分のしたことを理解し、把握していく。

 一線飛躍――それがすべてなのかもしれない。

「それとも、今からでも以前の自分に戻れると思ってる? 無理よ。きみは数え切れないくらいの人間を殺したのよ。この戦いが終われば、ログナーの憎悪は君に集中するでしょうね。戦争とはいえ、同国人を大量に殺戮した人間を憎まないはずがないもの。もう、昨日には戻れないのよ」

「おれは別に!」

 セツナは、我知らず大声を上げていた。急激な感情の昂ぶりを抑える手段など、端から持ち合わせていなかったのだ。

 しかし、ファリアのまなざしに、セツナは、声を静めるしかなかった。レンズ越しに見た彼女の瞳には、セツナに対するなんの悪意などなにひとつもなく、ただ純粋にこちらを心配しているように感じられたからだ。

「昨日に戻りたいなんて言ってないだろ……」

「そうね。わたしの言葉が悪かったわ。ごめんなさい」

 ファリアの謝罪は心からのものだと、セツナには想えた。透かさず自分の非を認めて謝ってくる彼女に、あざやかなまでの好意を抱くのだ。それは些細なことかもしれない。しかし、そういった対応の心地良さは、人間関係において重要なものに違いない。

「いや……おれこそごめん」

「ううん、いいのよ。セツナが無事なら、それでいいの。ただ……」

「ただ?」

 反芻するように尋ねながら、セツナは、彼女の言葉に癒されている自分に気づいた。

(おれが無事ならそれでいい、か)

 それはきっと、セツナの心情を労わる彼女の優しさであり、本心というわけではないのかもしれない。それでも、言葉だけでも、嬉しいことだった。セツナの頬がわずかでも緩んだのは、仕方のないことだったのかもしれない。

術式じゅつしきも無しに召喚するなんて卑怯よ! 卑怯者よ!」

 ファリアのあまりの剣幕とその豹変振りに、セツナは、唖然とするしかなかった。

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