私創 三国志異聞奇譚「暁に起つ鴟(ふくろう) 〜戦乱世、細作(しのび)の郷に生きる少年の出立記」

若沙

第1話 闇夜の悪鳥

 俺は、自分の生まれた日も、場所も、知らない。


 幼い自分が気づいたときには、細作しのび一族・韋虞氏の僮僕どうぼく(男奴隷)として『はく』と名付けられ、世間から隔離されたこの〈韋虞いぐさと〉で働かされていた。


 細作の務めもまだできない俺のような少童には、仕事が二つある。


 ひとつは、上役の下働き。

 もうひとつは……傭人ようじん(金で雇われた外部者)等に対しての報酬として、からだで支払われる代価品 ——。


「今回の払いか」

「おう、なかなか上物だ。てぇせつに扱えよ。怒らせたら怖い連中の、でぇじな商品らしいからな」


 不敵が生業なりわいな者どもの粗暴な息遣い。抵抗を奪ういくつもの手。

 肢体中を這い回る慾情のにおい。


 苦しい。

 呼吸も、臓腑ぞうふも、全部がきしむ。


 ……いやだ。ちきしょう。

 今にみてろ。こんな所、必ず抜け出してやる。

 いつか、必ず ……!!


◇◇◇


「狛、ほんとにやるのか? 今日?」


 隣で狛にくっつくようにしゃがんでいるりつが、消え入るような声で訊いた。

 触れている栗の腕は震えている。


「そうだ。今夜を逃しちゃ駄目だ。昼間もそう言ったろう」


 正円に幾らか欠けた月が、夜の闇中にも、樹々の影を地面に形作れているのを、狛の視覚は確認できている。

 少なからずある雲が流れて、ときおり月光を塞ぐものの、真っ暗闇という状態ではない。


 ———— 動くには、充分だ。


 麻布で小さく丸めた荷を背にくくり付け、岩陰に片膝を付いている狛は、己の視力の良さを信じた。


 栗がなおも、不安を吐露とろする。


「うん。……でも、成功するかな」


 僮僕仲間の栗は小柄で、歳は狛と同じか、ひとつくらい下かもしれない。

 頭が弱いというわけでもないのに、いつもおどおどしている。


「いまさら何言ってるんだ。おまえ、ここでずっとこんな生活、続けたいのか」


 狛はひそめた声ながら、語気強く叱咤しったした。


 栗は例の代価仕事はさせられていない。ただしそれ以外については、狛よりずっと過酷で嫌な作業を毎日させられていた。

 同じ僮僕でも、対外的な商品でもある狛とは、上役も使い分けているらしい。


 栗は一見従順そうに見えるが、真意では抗っていると狛は判断している。


「この林を抜けたとこに川がある。以前上役の狩に従わされて、知ってる」


 今からすることは狛だって怖い。だから自身をも励ましている。


「かなり幅の広い川だ。この辺りは網の目みたいに水流れがあるけど、その川はずっと大きい。上役らはあそこを渡って、郷と外とを行き来してるんだ」

「……」

「あのあと何度かこっそり行ってみたとき、川岸に打ち捨てられた小舟を見つけた。ボロだけど、充分使える」

「うん」

「そのとき決めた。あの川を越えて下流の向い岸に行けさえすれば、なんとか逃げられる。漕ぎ竿も探して、そこに用意してあるんだ」


 同じ説明を、栗にはもう何度もしてきた。

 狛は、この計画に栗を無理矢理巻き込んだつもりはない。栗も納得し、希望していたはずなのだ。


「夏の雨期になったら、水嵩みずかさが増して渡れない。今しかないんだ」

「そう……だね」


 相槌あいづちが弱い。

 狛は心中で舌打ちした。

 栗の性格がこうなのは仕方ないにしろ、ここへ来て、栗の尻込みに合わせているわけにはいかない。


「……わかった。嫌ならここで帰れ。独りで行く」


 本音では一人より二人がいいと、狛は思っている。

 栗は気弱だがいい奴だ。賎民せんみん扱いの中で、物心ついてからの狛が唯一、心を交わせる友であった。

 ここで帰しても、栗は狛の計画を、きっと誰にも言わないだろう。


「ご、ごめん、狛!」


 狛の突き放した言に、栗はあわてて反応する。


「行くよ、一緒に行く。俺だってこんなとこ、いたくなんてない」


 栗は狛の手を、ぎゅっと握った。


 サワサワと、草や樹々の葉をなびかせ渡る風はぬるい。春ももう終いで、今は初夏に入る過ごしやすい時期だ。


 だがこの先にはすぐ、長雨と湿気と高温の不快さ、加え水の氾濫に苦しむ悪月がやって来る。

 少年が事を起こすに最適な期間は短い。


 狛は行動前の最後に、もう一度周囲を見回した。


 ホウ……ホウ……ホウ…… 

 風が一時止み、しんと静まりかえった月夜に、夜鳥の籠った鳴き声が響く。


 ———— 鴟梟ふくろうだ。


 狛は胸のあたりが、わずかにもやり、とした。


『鴟梟ってのは、不吉の予兆なんだぜ』


 いつだったか、年上僮僕のしんが、博識ごかしのように言っていたのを思い出してしまった。


『鴟梟は悪鳥だからな』


 ———— いや、違う。


 狛は栗に勘付かれないよう、胸中で鬱念うつねん払拭ふっしょくする。


 ———— ヤツは、暗闇の強者だ。


 あの鳥は夜目が効き、羽音を立てずに目的の獲物を捕食する夜の支配者。

 そうだ。今の自分はまさに、鴟梟になるべきところではないか。これは吉兆だ!


 狛は地に付けていた膝を上げた。


「栗、行くぞ。離れるなよ」

「うん」


 二つの細い影は、己の未来への希望に足を踏み出した。

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