第1話 クシュ王国

 紀元前8世紀。

 ナイル川の上流、現在のスーダンにあたる地域にその国はあった。


 長年エジプトの支配下にあったケルマ王国は、新王国としてのエジプトが力を失い滅亡したのちに独立し、新たにクシュ王国を建国する。


 国王カシュタはその統率力と類稀なる武の才能をもって多くの民を魅了し、また一国の主とは思えぬ程気さくで陽気な人柄は人々の心の拠り所となった。


 傍から見れば彼は間違いなく名君であり、国は安泰、彼の治世はこの先何年にも渡って続いていくものだと誰もが信じていた。

 

 だがこの時王朝は複雑な問題をいくつも抱えており、それらを解決することのないままカシュタ王はこの世を去ったのである。


 そこで白羽の矢が立ったのが彼の息子ピアンキだ。




 クシュの人々が崇拝するアメン神の聖地ゲベル・バルカル。首都ナパタに位置し、高さ98m程の小山だがその佇まいは人々を魅了するに十分な威光を放っている。


 その麓に建つ神殿に彼はいた。



「またここにいらっしゃったのですね。」


 呆れたような、また茶化しているようにもとれる声がピアンキを深い瞑想の奥から現実へと引き戻す。


 従者の方を振り返るその顔つきはまだ若く老齢には程遠い。だが父と同じアフリカ系であるヌビア人の血を引くその精悍な顔立ちは見る者に一定の恐怖を感じさせる程の覇気があった。数年ではあるもののこの国を統治してきたという自負がそうさせているのだろう。


「よくここが分かったな。」

 王の言葉に従者は臆する事なく答える。


「何を仰る。貴方が行く所など大体予想出来るのですよ。それにお一人で出歩くなとあれ程……。神官達も王が急に来られては困惑するでしょう。」


 従者の眉間に刻まれた皺はその苛立ちから来るものだけではない。目の前の気ままな王を長年見守ってきた年月を物語るいわば勲章である。


 従者の言葉にピアンキは笑いながら腰を上げる。


「全く、私に毒が吐けるのはお前くらいだ。」

「もう、宜しいのですか?」


 すんなりと忠告を受け入れる主に戸惑いつつ従者は慌ててその後に続いた。いつもならこうはいかない。何かと理由をつけて居座るのが王ピアンキの常套手段なのである。


「水を刺したのは誰だ? それにお前に監視されながらでは気が散って祈りなど捧げられぬ。」


「何を祈っておいでで?」


「もちろんこの国の平和と——。いや、これは心の内にしまっておこう。」

 答えをはぐらかすようにピアンキは従者を置いてそそくさと神殿を後にした。

 

 案の定、その様子を影から見守っていた神官達は困惑の色を浮かべる。仮にも一国の王が1人の従者に付き従っている光景など民からすればそっと目を伏せたい状況ではある。


「時にカシムよ。私にはこれから行かねばならぬ所がある。」

 いかにも仰々しく放たれたその言葉にカシムと呼ばれた従者はため息をついた。


「またですか。そういうものにうつつを抜かしているといつか身を滅ぼしますよ。」


 彼の言うそういうものとは俗にいう色事である。ピアンキには思いを寄せ合う恋人がいるが、王族の生まれではない彼女とは秘密裏に逢瀬を重ねるしかなかった。


 カシムは悪態をつきながらも慣れた様子でピアンキに着替えを用意する。町の中であろうと身なりさえ合わせればまず怪しまれる事はない。


 理解のある従者に感謝しつつピアンキはある場所へと向かった。


 

 その建物はナパタの町から少し外れた場所にあった。いわゆるスラム街であり、治安はあまりいいとは言えない。

 

 辺りからは怒号が飛び交い、数メートルおきに喧嘩する男達を見かける。道端に座り込む者は皆陰鬱としていて生気が感じられず、ここへ来た当初は何度も好奇の目に晒された。だが互いに顔見知りとなった今はこの場所に溶け込み、今では住人と挨拶を交わすまでになっている。


 ピアンキは目的の場所に辿り着くと、臆することなく中に足を踏み入れる。だがやはり恋人と密会するにはあまりにも物騒で、とても愛を語り合う場所には見えなかった。


 そこに集まっていたのは、がたいが良く見るからに血の気の多そうな男ばかり。本来王であるピアンキとは一生関わることのない者達だろう。


 ここまで来て分かる通りピアンキは恋人と密会している訳ではない。実際はこうして町の男達と会う為にここに通っているのである。人の恋路に首を突っ込むような野暮な男ではない事を知っていたからこそピアンキはそれを利用したのだ。



「待ってたぜタリク。」


 男達はピアンキを見るなり熱狂的に迎え入れた。荒々しく肩を組み、嬉しそうに挨拶を交わす。ピアンキはここではタリクと呼ばれていた。もちろん偽名ではあるがそれなりに気に入ってはいる。


 ここに潜入した当初は罪悪感に苛まれたものだが今では彼らに会うことがピアンキの中で1つの楽しみになっていた。何よりこのチームに入ることは今の彼にとって重要な職務の一つであり、加えて民衆の声を聞くという面でもここは最適な場所なのである。


「タリクも来たことだし、そろそろ始めるか。」

 男達の中でも取り分け体格のいい1人の男が壇上に立ち声を張り上げた。


「俺達は昨今の王政について疑問を持っている! そんな王朝を打ち倒すべく俺達は——。」


 耳が痛い。延々と続く王朝批判にピアンキは苦笑した。だが現状、国民に負担を強いているのは事実だ。



 これには隣国エジプトとの関係が大きく関わっている。クシュとエジプトは交易や植民地時代を経て互いに影響を及ぼし合ってきた。これはエジプトの情勢がクシュにも影響を及ぼす事を示唆している。


 そして昨今エジプトは各地の諸侯が力を強め、それぞれが独自の王朝を開く事態にまで発展しているのだ。そしてエジプト全土を手中に収めようと各地で戦争が相次いでいる。エジプト国内はまさに混沌と化していた。


 現にクシュに近い上エジプトの古都テーベには先代の王カシュタと親交を深めた者達が大勢いる。その中には我が国の交易に深く関わった者もおり、他人事ではすまされないのだ。


 しかしそんな国の内情をここで話す訳にはいかない。ピアンキは男達の演説をを大人しく聞いている他なかった。

見ての通りここは王朝に不満を持つ者達が集まる反乱軍の基地である。万が一王である事がバレれば謀反を企てる彼らにどんな仕打ちを受けるか分からない。今は彼らの動向を見守るしかないのが現状だ。



 そんな中1人の男が立ち上がって言う。


「知り合いのエジプト人によると最近エジプトでは各地で紛争が多発してるらしいぞ。この国の王が駄目なら他国を侵略するってのはどうだ。力の弱まっている今こそ俺達がエジプトを侵略して新たな国家を築くんだ。」


 とんでもない。そんなことをすれば我が軍だけでは紛争を収める事は出来なくなる。この国を巻き込み、エジプト国内での内戦はますます激化するだろう。

 

 ピアンキはさすがに反論しようと腰を上げる。しかし彼が立ち上がるより先に口を開いた男がいた。


「俺達は国を支配したいんじゃない。ただ皆が苦しまず、幸せな生活が送れればそれでいいんだ。そんなの、この国の王と何も変わらないじゃないか。それにエジプトを征服するだけの力がどこにある? 一国を落とすというのはそんな甘いものじゃない。」


「分かってるさ。だから今こうして仲間を集めてるんだろ? 軍事力を上げるのは王の仕事だ。その王がただ胡坐をかいて座っているだけだから俺達はこうして集まったんだろうが。王に任せていたって俺達は飢え死にするだけだ。俺達が立ち上がるしかねえんだよ。」


 国民の意を無視している訳ではない。常に考えてはいるのだ。ここに来ると王が考える事と民が感じている事の差をまざまざと見せつけられピアンキは毎回胸が締め付けられる。反論したい気持ちに駆られるが今はその時ではない。それに目的の為には彼らが必要なのだ。


 男の言葉を皮切りに白熱するまるで見当違いの議論に痺れを切らし、男は席を立った。

 ピアンキは思わずその男の後を追う。


「お前、名はなんという?」

 聞き慣れない口調に振り返った男はこちらを怪しむように眉を寄せる。


 その様子にピアンキは慌てて訂正した。


「あ……いや俺はタリクだ。よかったら友達にならないか?」


 その言葉に男は一瞬面食らった顔をしたがやがて差し出された手を遠慮がちに握った。


「……ジャミールだ。」

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