離さないで。放さないで。

崔 梨遙(再)

1話完結:1500字

 20代の後半。僕は会社の寮に住んでいた。或る日、寮の固定電話が鳴った。その日は土曜日だった。僕を知っている人なら、携帯にかけてくる。寮の電話という時点で、“何かの営業の電話だ”と、スグにわかった。


 電話に出たら、やっぱり営業の電話だった。若い女性の声だった。話の内容は、ジュエリーの展示・販売会に来てくれないか? ということだった。勿論、断ったのだが、僕も営業をやっていたので彼女の営業の仕方について2,3良くないと思う点を指摘した。すると激しくキレられ、めちゃくちゃ反論された。その反論について反論した。それから、“営業とは?”というテーマでの議論になった。


「会って話しましょう」


 と、言われた。


「それは断る!」


僕は言った。


「どうして、会わないの?」

「僕は最近、恋人と別れて寂しい。そんな時に、あなたのような美人に会ったら惚れてしまうやろ」

「どうして私が美人だと?」

「こういう営業は男女ともにビジュアルに恵まれた人が多いんや。会わなくても、あなたが美人だということはわかるねん」

「そうだとしても、会って話さないと私の気が済まない」

「わかった」



 待ち合わせ場所に行った。昨日の女性は真亜子というらしい。1人の女性が座っていた。“ああ、この女性だ”。僕は確信した。想像以上の美人だった。


「会えて良かった。じゃあ、居酒屋にでも行きましょう。今日は徹底的に語り合うわよ。って、昨日の勢いはどうしたの?」

「言うたやんか。やっぱり、会ったら惚れてしまった。初めての一目惚れや」



 いろいろあって、僕と真亜子は半同棲状態になった。真亜子は仕事が終わるのが遅い。その分、出社時間も遅い。真亜子のターゲットは1人暮らしのサラリーマン。サラリーマンが帰宅した頃からが営業のコアとなる時間帯だ。大体、18時から22時。だから、帰宅は早くて23時半、遅くて0時だった。


 僕は、仕事が終わると寮に帰って風呂に入ってから真亜子のマンションへ行き、真亜子が帰って来るのを電灯を点けながら寝て待つようになった。電灯を点けるのは、真亜子が誰もいない暗い部屋に帰るのを嫌がったからだ。


 真亜子の元彼はプロ野球選手(2軍)だった。真亜子以外にも、何人もの女性と付き合っていたので、それが嫌で別れたらしい。そのせいで、真亜子は独占欲が強くなっていた。他の女性を抱けないように、僕の身体にキスマークをつけまくる。一度、首にキスマークをつけられて、真夏なのにハイネックで仕事に行ったことがある。


 楽しい日々だった。


 だが、楽しい日々は突然終わった。真亜子に東京本社への転勤の話が出たのだ。東京本社に行けば出世コースらしい。真亜子は普段から、“女性の私が、どこまで出世できるか、自分を試したい!”と言っていた。真亜子にすればチャンスだ。僕は、ここに残って結婚して一緒に暮らそうと言った。社宅の話もした。真亜子は、僕を選んでここに残るか? 東京に行って出世することを選ぶか? 1ヶ月悩んだ。1ヶ月、真亜子から笑顔が消えた。


 僕は、


「東京に行って、仕事を頑張れ!」


と、真亜子の背中を押した。



 真亜子が東京へ行く日、僕達は新幹線のホームで別れを惜しんだ。手をギュッと繋いで。電車が駅に滑り込んできた。僕達の手は離れる。放れる。


“離さないで。放さないで”


と思ったが、それを言ってはいけない。僕達は、離れ離れになった。遠距離恋愛を提案されたが、“仕事に専念しろ”と、僕は断った。中途半端に付き合って、真亜子の足を引っ張りたくなかったのだ。


 去って行く新幹線をホームで見送って、見えなくなってからもしばらく立っていた。それから、僕は寮に帰った。



 早く帰って、泣こう。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

離さないで。放さないで。 崔 梨遙(再) @sairiyousai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る