よわい六十から逆打ちする

安部史郎

第1話 逝ったのはわたしの方が、先だった。

 わたしの方が先だった。

 ついさっきまでの散歩から帰ったような顔で家に上がると、待ちかねた妻が「お帰りなさい。ずいぶんと待たされたけど」と、お茶を差し出す。ひとくちすすったところで、状況が飲み込みやすいようにと、事前の準備よく妻は説明してくれる。

 わたしは、先ほど死んだのだ。大往生だったという。ちょうどの六十かんれきまで永らえたわたしは、長患いにならず、病院のベッドで管を差し込まれたいたいけな姿にもならず、膨らんでいた空気が萎むように、いつもの四畳半で膝がくじかれ、畳に倒れ込むように息絶えたのだそうだ。


 大往生とは死亡診断書に「老衰」と記される大年寄ばかりかと思っていたので、昭和までなら兎も角、平成、令和の御代みよでは、ちと早いかと思った。

 が、たしかにそんな感じだったような気がする。いったんは閉じられたあと、なにかしらにタッチして、すぐに折り返してきたような感じが残っている。

 前に、同じことを言い含められたような気もする。

 首を縦にフムフムしながら、途中に何かの細工でも挟まれていないなら、妻の言うような、ご臨終したあとすぐに戻ってきたことになる。死んだことを嚙みしめるようなグラデーションの効いたウエイティングルームなどは用意されてはいなかった。


 しかし、わたしが死んでからの妻の往復は、少しばかり、長かった。

 わたしがからの折り返しを曲がっても、妻の片道はまだまだ続く。どこか木陰の奥にでも隠れたように姿を消したわたしを余所よそに、妻は、伴走のない道をひとりで往かなければならない。

 わたしが消えた時点じてんは分かっても、己れの片道がこれから先どれだなのかが、分からなない道を進んでいくしかない。苦しい、楽しい、嬉しい、虚しいなどの本人の起伏などは置いてきぼりにして、ただ真っすぐに進んでいくだけだ。 

 なにごとにもせっかちな妻の奥歯の摺りすりあしが聞こえる。

「どんだけ待ちぼうけしたのか、わたしを思いやってちょうだい」と、五歳いつつ離れた彼女のそうとうな時間を費やしたことに早く触れてくるよう、目配せで催促する。


 前置きを挟まず、「それから、どれくらい先まで経った」と聞く。「5年」は即座にかえってくる。

   60ー5+5=60

 で、妻もわたしと同じ、ちょうどの六十かんれきで亡くなったのが分かった。幼い時から瞬時の暗算は得意だ。でも、すぐにはそれは口にしない。わたしも還暦まで生きたのだ。しなければいけないことをしなかったり、してはいけないことをしてしまったりはおいそれとは口に上らせてはいけない。

 再び帰ってきたいい大人なんだから、それは、すぐに口にするのは、してはいけないことだ。

 

 お互いがそれぞれの連れ合いと別れて一緒になった夫婦だから、各々の子どもたちとは縁遠い生活だった。なのに・・・同じ様に連れ合いに若くして先立だたれ、独り身の先輩になっているひとり娘の瑤子ようこのグレーヘアが、妻とわたしの間に分け入ってくる。

 あのは、もう10年も、ひとり、待たされている。

 

 35で未亡人になった娘の瑤子は、お通夜の晩にはもう髪から色だけが抜けていた。夫の葬儀は、いま風の家族葬でなく、むかし風の大勢に声変えて集まるものだったから、わたしは横からの知らせを伝手つてに、斎場へ向かった。入るとき、入り口にいた瑤子に一礼した。親族で立っているのが独りだけなので、少しばかり間を置いた。

 20年ぶりの邂逅だった。

 そのことは真っすぐに互いに入ってきたが、歩みを留めるような突き動かすものはお互いどこからも生まれなかった。

 終わっている親子なのを再確認した。

 その他大勢の席にうずまり、順番が来て、初めて見る瑤子の連れ合いの写真に焼香する。

 享年から推し量っても、撮ったのがそれほどの以前でなさそうな顔が、額縁いっぱいに引き伸ばされてた。「これ撮ったとき、すぐにこんな使われかたするなんて思わなかかったよなぁ」と、手向たむける挨拶はそんなものしか用意してなかった。

 49日の法要には、呼ばれたので行った。今度は、その疲れた澱を落とすためのように、純白に変わっていた。彼女は、この先どれだけの時間をひとりで過ごすのだろう。

 


 だから、わたしはその間の妻の目方めかたを抱えなければならない。澱が溜まって重くなり、抜けて軽くなるまでの女の一部始終を。

 わたしには一瞬のタッチで戻った感じでしかなくても、妻が抱えてきた5年たす5年の往復の長さや目方を、同じ様に抱えた顔で聞かなければならない。

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