ねこみつくし

@kuchinashiiori

神猫と盤

 猫と将棋をしている。


 インターネットの奥底で出会った廃墟の写真。神をモチーフとした絵画や彫刻が並べられた部屋を見た時、俺はその俗で雑多な芸術たちに魅せられた。

 売れない画家だった。美大を卒業してもう十年になる。金のために描きたくもない絵ばかりを描き続け、ある日ぷつんと弾けた音がした。

 俺は絵を描くのをやめた

 写真を見つけたとき、衝動が俺の体を突き動かした。食い扶持を稼ぐために始めたコンビニバイトを無断欠勤することも、廃墟に不法侵入することにも罪悪感は一ミリも湧かなかった。

 訪れた先で、数多の作品が俺を迎えてくれた。

 夢中で写真を撮り進んだ先、その部屋には絵画も彫像も、何もなかった。

 コンクリートの壁に剝き出しの柱が四本。床一面のガラスは天窓から降る光で水面のように揺れている。

 倉庫ほどの広さがある部屋を進むと、箱が置かれているのに気が付いた。箱は将棋の盤のようだが中央に升目はなく、空いた場所には「漢界・楚河」と木彫りされている。

「将棋、じゃないよな?」

「将棋で合っているぞ。まぁ、将棋は将棋でも中国将棋だがな」

 突然降ってきた声に、俺は思わず腰を抜かした。

「ふふ、腰抜けめ」

 悪戯が成功した子供のような、無邪気な声を出したのはバケモノだった。

 目が合う。

 天井に張り付いたバケモノはライオンのような体躯に、ラクダのような突起を背につけていた。目はぎょろりと大きく、顔の面積の殆どを占めている。極めつけは、体毛が蛍光ピンクと水色の縞模様だった。

 悪夢だ。

 今まで嬉々として見学していた邸宅が、一つの生を成してしまったような、存在してはならない狂気をバケモノから感じた。

「人間は久々だな、嬉しや嬉しや」

 心底楽しそうに目を細めたバケモノはふっと体の力を抜き、四つ足で華麗に着地してみせた。

 盤を挟んで、向かい合う。

 思わず出た悲鳴にバケモノは「失礼な」と目を見開いた。

「かわいい猫に悲鳴を上げるとは何事じゃ」

「ねこ」

 バケモノは猫らしい。

 俺の知っている猫は、俺の身長を優に超える体はしていないし、鋭い牙を持ってはいるが、毒のような禍々しい液体を口から垂らしはしない。

「ふむ、これならどうじゃ」

 バケモノは俺の様子から自分が猫に程遠いことに気づいたらしい。

 近くの柱に隠れ、出てきたかと思えば、体毛が今度はマーブル模様になっている。 

 俺の様子を探り、別の柱に向かったバケモノは、今度はこぶがなくなっていた。その代わり一角獣のような立派な角が増えている。

 次の柱、次の柱と変身するも一向に猫に近づく気配がない。

 その滑稽さに恐怖心は薄れ、俺は握りしめていたスマホの画面をバケモノへと向けていた。

「猫っていうのはこういうヤツだけど」

「ああ、なるほど。確かにこんなヤツだったかもしれん」

 バケモノはさも知っていましたよと言わんばかりに、その場で一回転し、姿を変えて見せた。しゅるしゅると標準的なイエネコのサイズまで縮んだ背にはトラ柄が浮かんでいる。薄茶色の長い毛に、オリーブ色の瞳。個人的な趣味で長毛のキジトラを選んでみたが、正解だったようだ。

 バケモノは、最初のバケモノ然とした姿とはかけ離れた愛らしい姿で小首を傾げた。

「どうだ。これでどこからどうみても猫だろう」

 ふんすと鼻を鳴らす姿に、思わず言葉を失う。そんな俺の様子など気にも留めず、猫は嬉々として「それじゃあ始めようか」と長い爪で盤を二回叩いた。

 あ、爪はバケモノのままだ……。

 猫はいそいそと自らの毛に手を差し入れ、小さな巾着袋を取り出す。ジャラジャラと鳴った中身は、象牙で出来た駒だった。オセロのような丸い形で、片面に文字が彫られている。

 猫は手際よく黒字の駒を自分の傍へ、赤字の駒を俺の前へ並べた。

「よし、やるぞ。お前からだ」

 小さな体では盤面が見えにくいのか、二足歩行になった猫は俺にそう促した。

「その、これはなんだ?」

 初めて見る盤だ。将棋だと猫は言っていたが、こんな将棋見たことがない。

 猫は訝し気に「シャンチーだ。まさか知らないはずがなかろう?」と口を引きつらせた。

「……いや、悪い。知らなくて」

「なんと! 知らないやつがこの世に存在するのか!」

 日本人のほとんどは知らないぞと内心思うが口には出さない。

 猫は「うーん困った」とわざとらしく撫肩をすくめた。

「この部屋に入ったからには儂とシャンチーをしなくていけないのだ」

「でも、ルールを知らないとできないだろ」

「こまった、こまった」

 諦めて解放してくれれば済む話なのでは?

 抜けた腰は戻ったし、いつでも部屋を出ていける。今は猫の姿だが、バケモノだ。早くこの場から逃げ出したかった。

 だが猫は俺の気持ちを察することはなく「ああ、そうだ。さっきの板があるじゃろ」と尻尾をゆらりと動かした。

「猫を調べたように、シャンチーのルールも調べられるのではないか?」

「いや、調べられな」

「嘘をつくなよ」

 出した言葉を咄嗟に飲み込む。

 猫なのに。姿は猫なのに、爛々と輝く瞳に気圧された。

 やはりコイツは紛れもなくバケモノなのだ。

「さ、三十分くれ」

 震える指で「しゃんちー」と入力すれば、映画の記事に紛れてボードゲームのルールが表示された。

 駒は囲碁のように盤上を走る線と線の交点に置く。駒の移動できる場所に相手の駒がある場合、その駒を取ることができる。ただし取った駒は使えない。

 基本のルールから各駒の動きまで、頭に叩き込んでいく。

「どうだ? 理解できたか?」

 問うた猫に、俺は時間が来たことを悟った。

「動きは覚えた。だけど」

「そうか、なら始めよう」

 猫は口角を耳まで達しそうなほど吊り上げ「始まりはどちらだ?」と問いかけた。

 シャンチーの駒は紅と黒の二種類。先手は紅と決まっているので、俺からだ。

 そっと指を添え打ち込む。猫は満足気に頷いた後、素早く自身の駒も動かした。

 タンッタンッと互いの駒を動かす音だけが部屋に響く。

「ほら、喰うてしまうぞ」

 猫がそう言った瞬間、俺の兵が取られた。

 鋭い爪先が駒を床に投げ捨てる。甲高い音を立てながら象牙がガラスの上を転がった。

 大丈夫だ。ただ勝負をするだけ。負けたところで俺に害はない。

 祈るように駒を動かし続ける。猫は段々と退屈そうに欠伸を溢し始めた。

「ううん、そこに動かしたら。ほら、喰われたぞ」

 猫は紅の駒を弾き飛ばすと「世間話でもしようかのぉ」と盤に片肘をついた。

「……俺にはそんな余裕はないぞ」

「なに、分かっておる。お前は聞いているだけでよい」

 更に俺の駒を奪った猫は「お主、絵はよく描くのか?」と鼻をひくつかせた。

「聞いているだけじゃなかったのか?」

「是か否かくらいは答えられるじゃろう」

「いいや、描かないよ」

 俺の答えに目を細めた猫は「おや、勘違いじゃったか?」と片頬を上げた。

「お主から黒炭と膠の匂いがする。昔、画家と暮らしていたことがあったが、ヤツも同じ匂いがした。それに随分不格好な指だな。ペンダコが何重にも出来たような形をしておる」

「身に覚えがないな」

 俺はいつの間にか指先に付着していた黒色を誤魔化すように擦り合わせた。

 汚れが広がる。

「……なんじゃ、つまらんのぉ」

 猫は駒に河を渡らせ「それなら違う話でもするか」と髭を上下に揺らした。

「お主、猫をどう思う?」

「さっきからハイかイイエで答えられる質問じゃないな」

 猫の質問は抽象的で、そもそも「猫」という言葉が目の前のバケモノを指しているのか、それとも一般的な猫のことを言っているのか判断がつかなかった。

 迷って指を止めた俺に「ああ、儂じゃなくて普通の猫のことだ」と見透かしたように猫が付け加えた。

「可愛いとしか。それ以上なにを言えばいいんだ」

 猫を飼っているわけでも、飼いたいと思っているわけでもない。

 ただ見れば可愛いと思う。それだけだ。

 猫は「面白いとは思わんか?」と初めて駒を進める爪を下げた。

「全身が毛で覆われた四足歩行の動物が、もて囃され、崇められているのだ。なんの益にもならない獣が」

 見開いた瞳の中で、瞳孔が締まる。

「益がないなんてことはないだろう。一緒に居ることで癒されたり……」

 猫は「そんな曖昧な対価しかなかろう」と鼻で笑った。

「ワシはな、心底面白いのじゃ。猫が人々の生活に入り込み、我が物顔で居座り、挙句の果てに崇拝される……そう、まるで神のような姿が」

 盤を見れば、素人でも分かるほど差がついていた。将棋と同じようにAI判定があったら、明確な差が数値として出ていたに違いない。

 もうすぐゲームが終わる。

「そういえば」

 次の話題はなんだと身構えた俺に、猫は「言い忘れていた」と呑気に声を上げた。

「勝敗について言っていなかったな」

「勝敗?」

 ぐっと詰まった喉奥。落ち着けと手を当てれば、喉仏の震えが手のひらを擽った。

「そうだ。お主が勝った場合の褒美と、負けた場合の罰を伝えるのを忘れとった」

 いやぁ、最近物忘れが激しくていかんのぉ。白々しく目を細めた猫は、爪を一本、宙へと立てた。

「まず褒美だが、儂が可能な範囲でお主の願いを叶えてやろう」

「可能な範囲?」

「そうだ。死んだ者を蘇らせるのは無理だが、不都合な相手を殺すくらいは出来るぞ」

 願いと言われても思いつくことは特にない。まず、今の状況で猫に勝てる見込みがないのだから、願いを考えたところで仕方がないのだが。

 問題は罰だ。

「そして負けた場合の罰だが……シャンチーのルールで相手の駒を取ることを何というかまで覚えられたか?」

 唐突な質問に嫌な予感を押し込めながらも「さっき自分で言っていただろう。喰うって」と答える。猫は満足げに頷き「そうだな、では」と言葉を続けた。

「王が王手を解消できない時は?」

「それは殺……ッ!」

 震えが背筋を走る。俺は咄嗟に盤を薙ぎ倒し走り出していた。

 縺れる足を回転させる。早く、早く、早くッ!

 スニーカーのゴムがガラスの床に擦れて嫌な音を立てた。

 間違いない。負ければ殺される。

 急いで部屋を出ろ。あれは決して開けてはいけない扉だった。

 手汗で滑る布鞄を盾のように抱え、もうすぐだとノブへ片手を伸ばした俺の耳元で、声がした。

「勝負を放棄することは許されないぞ」

 息が詰まった。背後からの衝撃。前のめりで倒れ込んだ俺の手から鞄が離れた。投げ飛んだ鞄は呆気なく転がり、中身を吐き出す。

「猫の姿をしていたから忘れてしまったか? 儂が何者であるかを」

 ぐっと加えられた重みが、バケモノの姿に戻った腕だと背中越しでも分かった。弄ぶように鋭い爪が皮膚に食い込んだかと思えば、離れ、また傷をつける。全身が痛かった。

 正直、猫の姿からなら逃げられる。そんな希望に縋ってしまった。

 ガラスに醜く歪んだ俺の顔が反射する。

 死にたくなかった。

 だけど、もう死ぬしかないのだと、そうとしか思えなかった。

「ふふふ、ははははッ!」

 バケモノが笑う。

 心底可笑しそうに笑い続けるバケモノだが、とどめを刺す気配がない。

 不思議に思い、ガラスに映るバケモノを見る。

 バケモノは顔全体まで広がった目を細めながら、何かを熱心に観察していた。

 何を。

 視線を辿れば、扇のように広がった紙の束。サイズはバラバラだが、どれもくしゃくしゃと皺が寄っていた。

「やはりお主、絵描きであったな」

 バケモノが何を眺めているのか悟った俺は状況を忘れ「違うッ」と声を荒げた。

「何、隠すことはない。最初から分かっていたことだ」

 俺の上から手をどかしたバケモノが広がった絵に近づく。

 バケモノは爪先で一枚一枚丁寧に拾い上げると、鞄の上へ重ねていった。その手つきが存外優しくて呆ける。

「宗教画か、いい絵だ」

 コアトリクエ、アテナ、オーディン、四神まで。節操なく描き散らかしたスケッチはとても画家の描いた絵と呼べない代物だった。

 上半身を起こし、まっすぐバケモノと向き合う。

「なぜ、お主は神を描こうとする?」

 バケモノが問いかけた。

 盤の前へと座りなおした俺と、猫の姿に戻ったバケモノが向きあう。

 盤は既に薙ぎ倒す前の状況に戻っていた。直す暇があるほど、俺の決死の逃走は抵抗と呼べないものだったのか。自嘲の笑みが零れた。

「理由なんてない。ただ物心ついたときから描きたいと、そう思っただけだ」

 神をこの手で生み出したい。そんな妄執に取りつかれたのはいつからだったか。

 親は無宗教で、通っていた学校は普通の公立校。特別なきっかけなんてなかった。

 それでも身を蝕むような焦燥に、筆を持たなければ全身を搔きむしりたくなるような衝動に苛まれる。

 いつの間にかそんな焦燥も衝動も身を離れ、俺は筆を折っていた。

 何かが変わるかもしれないと、屋敷に来て久方ぶりに鉛筆を握ったが駄目だった。 

 俺の内から神は本当にいなくなったのだ。

「なるほどな」

 猫は数秒、思案したように天を仰いだかと思えば「これは丁度いい」と喜びから牙を剝きだした。

「お主、猫を描く気はないか?」

「話を聞いていたか?」

 絵を描く意欲のない、落ちぶれた元画家に何を描けというのだ。

「想像してみろ」

 薄暗い美術館の一室に、その絵は飾られている。

 部屋の中にほかの絵はない。東側の壁に、間接照明によって存在を浮き彫りにした絵だけが、訪れる人々の視線の先となった。

 金のシンプルな油額に収められているのは、変哲のない猫の絵だ。将棋盤と猫が色彩豊かに塗られているだけ。それなのに人々は一心に絵を脳裏に焼き付け、手を合わせる者までいる。その光景は熱狂的で、狂信的だった。

「儂は、そうして儂という存在を神たらしめたいのじゃ」

 鼻の奥を無数の人間の臭いが擽った気がした。

「猫の皮を被って新たな神になる。面白そうとは思わんか?」

 猫が促すままにシャンチーを再開するが、指先が震え上手く駒を置くことが出来ない。

 補助するように猫の爪先が添えられる。悪手を指そうとすれば爪が進路を断ち、正解へと導いた。いつの間にか猫の駒が、俺の駒よりも少なくなっていた。

 呼吸が浅くなり、目の奥がちかちかと点滅する。忘れていた酩酊感が俺の全身に圧し掛かる。足先を心地よい痺れが伝った。

「ほれ、あと一手だ」

 負けることしか出来ないような状況が逆転していた。

「お前の中の神が死んだというなら、そこに儂が座ってやろう。翳らない憧憬が欲しいというなら与え続けてやろう。生きるための財が欲しいというなら奪い取ってこよう」

 耳鳴りがして、景色が歪んだ気がした。静寂が場を包んでいるのに、頭の中は忙しなく、次々と絵の構図が浮かんでは消えていく。藻掻くように指先がガラスの床をなぞった。

「お主の願いを叶えてやる。やることは分かっているな?」

 ニンマリと笑う猫は、獲物の命を弄ぶように言葉を並べた。

 今すぐ、この衝動を解放したい。

 身の内に湧き上がる衝動と、輝かしい妄想に目がくらんだ。この屋敷に踏み入った時点で、俺はもう人間ではなくなってしまったのかもしれない。

 俺はただ指を動かした。


 王が死ぬ。

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