第2章 終わらない冬

第2章 終わらない冬01

 アリトンが森を去ってから、もう10年近い時が過ぎた。人の身ではそれは途轍もなく長い時間に感じるが、ユニコーンであるサフィーにはほんの僅かな間の出来事でしかない。だが、その間に彼女が人間の友達であるアリトンのことを忘れることはなかった。サフィーの首には在りし日に受け取ったペンダントが未だに輝いている。これこそがサフィーとアリトンを繋ぐ絆の証なのだ。彼女がこれを肌身離さず身に着け、手放すことなど一度たりともなかったのだ。


 そんなある時から、サフィーの森に数多の動物達が入り込むようになった。ある日は鼠の大団体が、またある日はカラスの一家が、またまたある日はアリの一国が……続々と森にやって来ては居つくようになった。彼らは皆一様に怯えきっており、何か“恐ろしいもの”から逃げ出してきたようだった。サフィーは最初の内は『人や肉食獣から逃げて来たのだろう』と考え、彼らを迎え入れていた。だが、それからしばらくして、狼の群れや子連れの熊まで森に逃げ込んで来るようになると、流石に彼女も違和感を覚えた。


「変ですね。勇敢で恐れ知らずな彼らが何かから逃げ出すなんて……」


とはいえ、人間に追い立てられてこの森にやって来た可能性も十分考えられたので、結局サフィーはそのことをさして深く考えることはなかった。彼女が明確に異変に気付くのは、もう少し先のことになる。


 ある日、彼女がいつものように森を駆けていると、どうにも違和感を感じ取る。森のある境を通り過ぎた時、彼女の身体に得も言われぬ感覚が迸ったのだ。それは蹄をかじかませ、背筋に不気味な波を描き、体の動きを鈍らせる。


「……?な、何でしょう?この違和感……?」


その違和感の正体が“凍え”であることに気が付かなかった。彼女は冬はおろか、寒さに震えるという経験すらしたことがなかった。だが、アリトンから外の世界には冬という季節があり、動植物達は皆それを凌ぐのに必死であると教えられていた。故にサフィーはしばらくして、これが冬の寒さということに気が付いた。


「なるほど、これが寒さなのですね……。でも一体どうして私の森で?」


周囲を見回すと、いつもは元気だったはずの草木が白い輝く粉に包まれているのが目に入った。こんな光景は彼女の100年近い人生の中で一度も目にしたことのない光景だった。サフィーが葉に座ったそれを鼻先で小突いてみる。ヒヤリとした感覚が全身を駆け巡る。


「これは……“雪”?一体どうして……」


幾年もの間、この森に訪れることのなかった冬が、今唐突にやって来た。これは明らかに異常なことが起きている。得も言われぬ不安がサフィーの胸に込み上がる。


「どうして?どうして冬がこの森に?今まで、一度もやって来ることがなかったのに……?」


サフィーは冷たい風が流れてくる方向へと視線を移す。どうやら凍てつく冷気は“森の外”から流れてきているようだ。


「この寒さは森の外から……」


サフィーは森の外へ出ることを恐れていた。彼女は生まれてから一度も森の外へ出かけたことはない。加えてアリトンからも外の世界は危険だと忠告されていたのだ。なのでサフィーはそれ相応に外の世界への警戒心を持っていた。しかし、結局この寒さが何処からやって来たのかという好奇心が、そんな些細な恐れを搔き消してしまった。彼女はそろりと入り口に赴き、まずは美麗な角を出し、続いてそっと頭を出した。たった今、サフィーは初めて外の景色を目に写したのだ。


 そこは一面の銀世界が広がっていた。草木も、先に見える家屋も、そこにあるありとあらゆるものに真っ白な雪が覆いかぶさってた。空には鳥も羽ばたかず、野には兎も虫も一匹たりとも見当たらなかった。唯一、数多の人々が歩いてきたであろう道は薄っすらと大地の痕跡が微かに見えていた。


「これが……冬なのですね。うぅ……とても……寒い……」


凍てつく冷風がサフィーの体に当たり、切り裂くような寒気を与えた。冬を経験したことのない彼女にとって、外の世界はとても冷酷に門戸を開いていた。サフィーは今すぐにでも回れ右をして、森の中に逃げ込みたい衝動に駆られるが、すんでのところで蹄を地面に突き立て踏みとどまる。


「……いや、まだ帰っちゃダメ。この寒さ……何かがおかしい。この冬は……本当の冬じゃない……?誰かが魔法で世界を凍えさせてる……?」


サフィーは今目の前に広がる光景が、季節の流れによって訪れる冬ではなく、何か“人為的な事象”によって引き起こされたのだと疑っていた。何せ外の木々の中には、熟した果実が実ったままのものもあったのだ。普通ならば、その果実は秋ごろに食べ頃となり、赤い火照りを見えせる筈だ。それなのに、周りは秋とは程遠い雪化粧された大地が広がっているのだ。これは、この寒さと雪が果実が実った後からやって来た何よりの証拠となった。


「本当に冬が巡って来る時期よりも先に、この冷気がやって来た?」


そうなるとまるで“生きている冬”としか形容出来ない事象だが、そんな不可解な現象も魔法ならば実現しうる。ただ、その為には人の身に余るほどの魔力が必要な筈なのだが……。


「何か……“恐ろしい”存在の仕業かもしれません。……もしかして、私と同じ“幻獣”⁉」


ユニコーンと同じ幻獣ならば、このような規格外の魔法現象も実現しうる。何せ彼らは“自然そのもの”なのだ。上位の幻獣ともなれば、内包する魔力も、巻き起こす現象も尋常なものではない。秋だった場所を、突然冬にすることだって容易いだろう。ただ、彼らは自身のエゴの為に自身の力を振るうことは早々ない。もしこの不可思議な冬が、幻獣によって引き起こされているとすれば、それは世界に“とてつもない悪意”を抱いていることになる。そんなものを止められるのは、同格たる幻獣ぐらいであった……。


――その時、サフィーの脳裏に一つの考えが過った。


「……このおかしな冬を、私が終わらせにいこう……!」


無論この冬がただの寒冷期によって引き起こされた可能性も十二分にあった。だが、ユニコーンであるサフィーは、その肌身でこの冬に対する絶大な“違和感”を感じ取ったのだ。これは人間であり、論理的な思考をする我々には理解し得ないだろう。だが幻獣にとっては『論理』よりも『直感』が優先されるのだ。


「こうしちゃいられないわ!今すぐ、この冬を引き起こしている者を止めなくては!でないと、世界は……ゆっくりと凍り付いていく……!」


そんな使命感がサフィーを急かせ、彼女の蹄を一歩、また一歩と前へ踏み出させた。この時には、彼女から外の世界への恐怖心は霞のように薄れていた。しかし、完全に消え去った訳はない。何より、アリトンがあの日言った言葉は、未だにサフィーの脳裏に染みついていた。


『いいかいサフィー?この森からは決して出てはいけないよ?君には自覚はないかもしれないけど、ユニコーンはとっても特別な存在なんだ。傲慢で強欲な怪物達が、喉から手が出る程欲しがるぐらいにね』


「……アリトン、ごめんなさい……私、少しだけ冒険に出てみます……!」


内にいたアリトンに謝りつつも、彼女が足を止めることは無かった。何処に行けば良いのか?何をすれば良いのか?その点はサフィーもよく分かっていなかった。だが、この白く凍り付いた大地をその目にしたとき、彼女はいてもたっても居られなくなったのだ。とは言え、彼女もまだ自身の直感を疑いつつあった。


「……やっぱり、考え過ぎだったのかしら?……だったら少しだけ外を見て、直ぐに戻ってこよう……!それで、それでいいじゃない……」


サフィーは自身にそう言い聞かせ、未だ内に燻っていた恐怖心を隅に追いやる。しかし、これは彼女の長い冒険の序章に過ぎなかった。

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