ただ、向かいに住む後輩とベランダで

七転

第1話

 どうにも疲れていた。肩にのしかかるのは仕事のプレッシャーと将来への不安。


 社会の荒波になんの装備もなく放り出されて早数年、平日の楽しみは夜の散歩と晩酌くらい。

 28歳、結婚もしていなければ彼女もいない、学生時代の友人とは年に1回会うぐらいだろうか。


「明日も仕事か……それにしても暑っついな」


 俺が勤めているのはとある大手…のグループ会社だ。

 主にイベントの企画、広報なんかもやったりする。いわゆる外向けの何でも屋だ。


 美術館や作家とコラボして展覧会をやってみたり、広告を打ってみたり、本社の製品をアピールする展示会に駆り出されたり……。


 とはいえ俺は直接企画を担っているわけではない。総務課の一員として現場に出る猛者たちをフォローしている。


 移動手段や宿泊施設、事務機器の手配、備品の調達、挙句の果てには本社とのすり合わせなど業務は多岐にわたる。


 それでも実際に広告をデザインしたり展覧会のコンセプトを考える彼ら企画課に比べれば、そのしんどさもマシなんだろう。

 元々あるものを維持するのと、ゼロから新しいものを作るのは訳が違うのだ。


 繁忙期には会社に泊まり込みなんてのもあたりまえだが、普段は電車が走っている時間には帰ることができる。


 自室の電気をつけてほっと一息。


 季節は夏真っ盛り、ワイシャツもしっとりと汗ばんでいた。


 荷物を下ろして手早くスーツから部屋着のTシャツとスウェットに着替える。

 時刻は22時、まだ平日の仕事終わりを楽しめなくもない時間……なんて言うのは無理があるだろうか。


 カラカラカラ。


 コンビニで買ってきたツマミと缶ビールを持ってベランダに出る。

 俺の住むマンションは単身用の割にベランダが広い。折りたたみ椅子と小さなテーブルを置いても余裕があるくらいに。


 本来ならば広い空を眺めて晩酌を楽しめるんだろうが、この部屋に限ってそれは叶わない。

 なぜなら隣のマンションの一室とほとんどゼロ距離だからだ。


 デザイナーズマンションだかなんだか知らないが、どうやったらこんなギリギリに建てられるんだよ。

 まだお隣さん(?)、お向かいさん(?)と顔を合わせたことがないのが救いか。


 そのおかげと言ってはなんだが、この部屋は立地の割に家賃が低い。

 それもあってここに決めたと言っても過言ではない。


 夏は夜とはよく言ったもので、膨らんだお饅頭みたいな月がこうこうと光り輝いていた。

 月光浴、なんて大したものじゃないが折りたたみ椅子に座りながら缶を開ける。


 カシュっと乾いた音がベランダに響いて、炭酸の泡が缶の上部を満たしていった。

 これがたまらんのよな。


 ちびちびビールを飲みながらツマミを口へ運んでいると、不意に目の前の窓に光が灯る。

 マンションの常夜灯と月の光しかない今、それはやけに明るく思えた。


 窓が開き、細くて白い腕が現れる。続いて肩より上で切りそろえられた黒髪、そして……。


「「あ!」」


 相手もこちらに気がついたのか、同時に声を上げてしまう。

 風呂上がりだろうか、健康的に赤く染まった頬にふわっと垂れ下がった眉、薄い唇。


「は?」


 予想外の人物の登場に戸惑いを隠せない。


 目の前で腕を伸ばしていたのは、企画課の後輩、白帆 羊しらほ ようだった。

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