ドウケツ
現無しくり
第1話
家が揺れて、僕は目を覚ました。外はまだ薄暗い。僕は寝ぼけまなこを擦りながら、枕元にある眼鏡をかけた。時計は、午前4時30分。今日も通勤電車は平常運転らしい。高架下。古い木造アパート。家賃2万円の、少し大きな地震があったら、ぺしゃんこになってしまいそうな六畳間。それが僕の家、彼女がたむろする部屋だった。
黒峰みゆうは、揺れと走行音をものともせず、死んだように眠っていた。胎児のように縮こまって眠る彼女。僕より10㎝は大きい──170cmくらいある身長が小さい子供のように見える。静かに寝息を立てるその顔は、相変わらず綺麗だった。相変わらずというのは、毎日顔を見ているから、そういう慣れた感想になるだけで、本当のところは整っていて、少し崩れていた。なんと言えばいいのだろう。顔の好みなんてのは各々だけれども、少なくとも僕の視点から見て、黒峰みゆうの顔は、美しいけれど、完璧では無かった。ただ、その不完全さが、劣情を催すのには、あまりにも適していた。
女の子に対してのものの言い方ではないことはわかっている。
少し垂れた目に、大きくとも小さくともない顔、柔和そうで、何も考えていないような顔つき。さらに言ってしまえば、だらしの無い体つきも加えて、その全てに、どこか隙があるような雰囲気。それが、端的に言えば既に男に媚びているような──そんな印象だった。
僕は寝返りを打って、彼女の方を向いた。静かな呼吸音だけが部屋に響いている。僕は彼女の頭に手を伸ばした。豆電球で暖かく浸された部屋の中で、彼女の髪はゆらりと艶めいている。
「……」
目が合った。伸ばした手の先に、黒峰みゆうは体を動かして、自分の頬に合わせた。
「おはよ。藤波──藤波まこと君」
「……なんでフルネーム」
「なんとー、なく。ふふっ」
虚ろな眼。寝起きの細いまぶたの向こうで、真っ黒な瞳が、鈍く─鈍く輝いている。はにかんだ彼女の顔と肌は蕩けているようで、僕の手のひらに吸い付いていた。
黒峰が二度寝をしている間に、僕は朝食の準備をして、一通り家事を済ませておく。その音で、黒川がモゾモゾ布団に潜っているけれど、気にしない。
「黒峰、今日朝いる?」
「……食べる。まこと君起こして」
「はいはい」
彼女が両腕を天井に向かって伸ばす。僕はそれを掴んで、よいしょっと起こし上げた。
「布団片すから、起きて支度して」
「ふぁい」
彼女を洗面所においやって、僕は布団をベランダにかけた。結構汚れちゃってるな。カバー。
「ごめん、布団」
「別にいいよ。ローテしてるし。しばらくやらなきゃいいでしょ」
「そっか……。てかさー。1人用に2人は無いって。狭い。」
「だってすぐ汚すし。布団これ以上家に入ると思う?無理」
「あー。面目ない」
「そんなことよりさ、ご飯、チンしといて」
「あーい」
僕は立てかけていたちゃぶ台を広げて。布巾で上を拭いた。珍しく黒峰が、僕の分も米をよそっていて、少しだけ驚いた。多少なりともそういう気遣いが出来たのか。こいつ。
「早くしよ。お腹すいた。」
「ん」
無職も三年になると、だんだんと板についてきてなんとも思わなくなった。国からのお金で何となく生活できてしまったりして、そんなに働いていないのにご飯が食べられてしまっている。もちろん、アルバイトはしているけれど、どうしても作る時間がとれないので、最小限にしていた。自分が思っていたより、案外人は生きていけるものなのであった。
「黒峰、今日はどうするの」
「大学行って、授業受けて、帰ろうかな」
「飲みは」
「ある」
「わかった」
授業を受ける気なんてない癖に──僕はご飯をかきこんで、シンクの前に立つ。前日放置された生ごみと洗い物が、すえた匂いを発していた。
「あのさ。まこと君ってさ。就活失敗したんだよね」
「うん、そう」
「私したことないからわかんないんだけどさ、そんなに大変なの」
「んー、大変。書類とか全部手書きだし」
「マジ?昭和何年?」
「ワードでいいっていう説もあるけどね」
「なんで手書きで書くのさ」
「心配だから。いまどき手書きじゃないからなんてないと思うけど」
それでも、それで落ちたかもという考えがでるなら、普通に書いたほうが良い。気持ちが通じるともいうし。
「気持ちってやつかあ。めんどくさそうだね」
「そう。黒峰はエンコーが順調そうでなによりだよ」
「パパ活ですー。かわいくない言い方は×」
「言い方変えたってかわんないだろ。やることは」
「モチベが変わります」
卵焼きをほうばりながら黒峰は胸を張った。
「胸張って言うな。ちゃんと働け」
「お互い様でしょ。作家志望のフリーター君」
「ぐぐぐ」
大体私のほうが稼いでんだからねと小言を言われ、黒峰はシンクに食べ終わった皿を置いた。
「さてさて」
そそくさと、黒峰が服を着替えている。押し入れの中はほとんど、黒峰の服で埋まっていた。
「早いね。別用?」
「別用」
「ふーん」
「朝早くなんて、珍しい」
「でしょ。そういうときもあります」
ちゃぶ台の上に化粧セットを並べて、黒峰が顔をつくる作業を始めた。顔を作る時の黒峰の顔は真剣そのもので、普段の気の抜けた顔とは想像のつかない表情をしている。
僕が洗い物と、軽い掃除を済ませると、黒峰の準備も終わっていた。どうかなといって、くるりと、僕の目の前で回って見せる。かわいいと思ったので、かわいいと言って見せる。彼女はでしょうと笑って、じゃあ行ってきますとそそくさと出て行った。
大学とは言っていたけれど、今日も多分パパ活デートだろう。そもそも、まだ大学に通っているのだろうか。それすらもあやしい。実は気が付いたら勝手に退学になっているなんてことになっていそうだ。そもそも、両親がお金を払っていなさそうだし。
僕は静かになった部屋で、ちゃぶ台の上にパソコンを置いた。小さい、中古で買ったノートパソコンはファンの音が煩かった。電車が上を通る。家全体がガタガタと揺れて、少し埃がまった。原稿はまだ半分も書けていなかった。
次に彼女に出会ったとき、彼女は生きていなかった。彼女が数日戻ってこないのは当たり前だったから、僕は何の疑問も持たなかった。僕は彼女の居場所を、警察からの連絡で知った。山の中で、ぼろ雑巾のように捨てられていたという。行く前に来ていた服ははぎとられ、全裸で、生まれたままの姿で、たくさんの何かに、体を食まれた状態で。
犯人はすぐ捕まったらしかった。連続婦女暴行犯逮捕として、ネットニュースの一面に、数時間ほど乗せられていた。
僕は通夜にはいかなかった。僕にとって関係のない女のことだったからだった。
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