おやすみバレンタイン

うめおかか

おやすみバレンタイン

 

 夕飯を終えて風呂や明日の準備を終えたリビングで、謎のくじを引かされた僕は、目の前で唸る恋人に訊ねていた。

「このくじは?」

「バレンタインくじ」

「ああ」

 そんな意味があったとはつゆ知らず、夕飯を食べ終えた僕はソファーに体を預けながら、壁に貼ってある年間カレンダーを見つめた。

 二月に入って節分も終えて、あちこちでバレンタインの商品が陳列されている。高級感溢れるチョコレートから、キャラクターものまで様々で、食べる前に目で楽しめるのが良いと思う。

「ひまりちゃん、そんなに悩まなくて良いんだよ?」

「そうだけど、今年こそ気合いを入れたいというか……」

 口を尖らせるひまりちゃんの頭を、僕は優しくなでた。睨み付けられてしまうけれど、全く気にしていない。

 なぜなら、ひまりちゃんは頭を撫でられるのが嫌いじゃないから。こうしているうちに、少しずつ表情が柔らかくなっていく。

「それならお互いにチョコを渡すとかはどうだろう? 最近は男性からも渡すのもあるし、むしろ、うん」

 ふと会社でぼやいていた女性社員の顔を思い浮かべる。選ぶのがなかなか面倒くさいとか、高いチョコレートをなんで渡さないといけないのか、とか。 別に女性だけが渡さなければならないイベントではないはずだ。

「僕も渡したいな」

「本当に?」

「うん、チョコレート交換か、それとも一緒に買いに行ってもいいかも。今度の日曜日とかに」

「それでもいいんだけど……」

 また難しい顔をし始めるひまりちゃんに、僕は頭を撫でるのを止めた。

「ひまりちゃん、素直に言うといいよ」

「うん、そうなんだけど」

「言わないと、ひまりちゃんが楽しみにしている、高級アイスを食べちゃうよ?」

「それ、ずるい」

 まさかアイスが人質に取られると思わなかったんだろうな、じと目で僕を見つめる様子に、僕は微笑んでしまう。

「気持ちだから、って言っても、ひまりちゃんは納得しないだろうから、どうしたいかだけ教えて欲しいな」

 顔を近づけると、ひまりちゃんの頬が赤く染まる。「近い!」

「キスをできる距離ではないけど」

「それはそう、じゃなくてもう!」

 怒りながらソファーに置かれていたクッションを手に取って、ひまりちゃんは僕の顔に投げつけてきた。これ以上追求すると、ご機嫌を損ねてしまう気がする。

 でも、何か悩んでいる様子のひまりちゃんを放置するのも気が引ける。

「作りたいチョコレートのケーキがあったの。ビターな味みたいだから、陸が好きかなぁって。コーヒーにも合いそうだし」

「それは美味しそうだ」

 甘いのが大好きな僕だけれど、カカオ成分が高めなチョコレートも好きだった。それを苦いコーヒーを含めば、脳にがつんと響くほどの深く濃い味が口の中に広がっていく。

「甘さが足りなかったら、生クリームとかつければいいし」

「色々と応用がきいていいね」

「それなら作って良い?」

「断る理由はないよ」

 にっこりと僕は微笑んでから、ひまりちゃんを抱き寄せた。ひまりちゃんのお菓子はとっても美味しい、素朴な味わいで飽きない。凝っているわけではないから、申し訳なさそうにするときがあるけれど、僕には十分美味しかった。

 特にひまりちゃんが作るクッキーが好きで、口の中でさっくりとした歯ごたえと、バターの香りがふんわりと優しく広がる味わいが好きで、これに紅茶を合わせると優雅な時間に浸れる。

 お店で売っているのとはまた違う味、もう三年も一緒に生活していても全く飽きないクッキーだった。

「でも、無理はしないようにね」

「うん」

 最近仕事が忙しいひまりちゃん、そんな彼女がケーキを作る余裕があるかなんてわからないから。


 


 そして迎えた平日のバレンタインの夜、仕事で疲れ果てたひまりちゃんは、ケーキを焼くことができなかった、と携帯電話で連絡を受けた。ぎりぎりまでどうにかして作れないかとあがいてみたらしいけれど、仕事が多すぎて時間を確保できなかったようだった。

 お菓子作りはどうしても時間が必要になる、材料がシンプルで行程が簡単だとしても、五分で簡単に出来上がり、というわけにはいかないものが多い。

 むしろ忙しいひまりちゃんが、無理をしてケーキ作りを決行しないかが心配だった。一度やると決めたら実行したい人だから。

 だからこそ、ケーキを作れなかったことに落ち込んでいる。あまり気負わないといいのだけど、と考えながら、僕はお土産を片手に家路に着いた。実は会社の近くに有名なチョコレート屋さんがあって、事前に予約をしていたものだった。高級感のあるチョコレートは、ひまりちゃんに渡したい気持ちもあったし、できたら二人でのんびりと食べたかった。

 ただこのタイミングで渡すのは、どう考えても気が引けてしまう。

 私は用意できなかったなぁ、って落ち込むひまりちゃんの様子が想像できてしまったから。

 幸い日持ちするらしいから、折を見て渡すのがいいかもしれない。

「ただいま、ひまりちゃん。あ」

 ドアを開けた瞬間、お肉の良い香りが漂ってくる。仕事終わりの空腹にはたまらないご馳走に、僕は急いでスーツから私服へと着替えた。

 なんとか定時で帰れたらしく、夕食を先に作ってくれていた。普段は先に帰れたほうが作る、最近はひまりちゃんの仕事の関係で、僕が夕飯を用意する回数が増えていたので、久々のひまりちゃんの料理に心が弾む。

「あれ、おかえりなさい」

「ただいま、声が小さかったね。ひまりちゃんのハンバーグ楽しみだな」

「うん、久々に料理したらすっきりした。あと、ごめん、ケーキを作る時間なくて……」

「謝ってはだめだよ、バレンタインは義務じゃないんだからね」

「うん、わかってるけどね」

 悲しそうな顔をするひまりちゃん。頭では理解していても、気持ちの上では納得していない。

「僕も料理の準備手伝うよ、お皿とか並べるね」

「ありがとう」



 ひまりちゃんの絶品ハンバーグを食べ終えると、僕はソファーへと強制的に座らされた。大人しく待っていると、コーヒーの香りが漂ってきて、その合間に電子レンジが音を奏でる。何か作っているみたいで、ケーキの代わりに用意してくれたのかもしれない。

 バレンタインもそうだけど、季節のイベントをとても大切にする女性だった。

 自分自身も楽しみにするし、相手も楽しませようとする姿勢がとても大好きだった。けれど人に頼るのが苦手な面もあるから、同棲してから僕はできるだけ甘やかしている。

 けれど世間一般で言われている、我が儘にはならない。自分に対して厳しい、だからこそ家では甘やかす。

「はい、どうぞ」

 少し申し訳なさそうにしながら、ひまりちゃんは丸いピンク色の皿を運んできた。その上に盛り付けられていたのは、チョコレートと真っ赤で瑞々しい苺がたくさん並んでいた。

 チョコレートはココット型に入っていて、塊ではなくとろりと溶かしてある。これは――。

「チョコレートフォンデュ?」

「そう、あといちご。ちょっといいいちごで、チョコといちごの味って合うから、どうかなって」

「うん、最高の組み合わせだ」

 思わず声がうわずってしまって、僕は慌てて口を手で覆った。

 ビターな味も好きだけど、いちごとチョコレートの組み合わせも好きだ。いちごとチョコレートの菓子も多いし、アイスクリームでもチョコレートといちごの組み合わせで食べることも多い。

「簡単に作れるけど」

「むしろ贅沢すぎるな」

 僕の隣に腰掛けたひまりちゃんは、甘えるように体を預けてくる。珍しく積極的で、目の前のお菓子よりもひまりちゃんに意識が向いてしまう。

 どうしても作りたかった、その気持ちがひしひしと伝わってくる。

「チョコを溶かして、いちごを……んっ!?」

 作り方の説明をしようとしたひまりちゃんの口に、僕はまだチョコレートを絡めていないいちごを入れた。大きすぎないいちごは、一口で食べることができる。

「甘いよ、これ!」

 あまりのいちごの甘さに、ひまりちゃんの目が見開かれる。とても甘かったのか、美味しい物を食べた後のリアクションに似ている。

「甘いいちごなんだ、良かった」

「高いだけある……ってなんで、私が最初なの」

「笑顔のひまりちゃんの前で食べたかったからね」

 落ち込んでいる恋人の前で、平然と食べる気にはなれなかった。

 お互いに笑顔で、美味しい料理を囲む。疲れていても、落ち込んでいても美味しい物を食べれば、暗い顔も明るい顔へと変わる。

 それが僕らの生活。

「はい、あーん」

「だから私じゃなくて、陸……もう!」

 怒りながらひまりちゃんは、僕の手からフォークを奪っていちごを刺した。それから溶けたチョコレートをいちごにまとわせて、僕の口へと運ぶ。

「早く食べないと、チョコレートが垂れるから!」

「わかった」

 大人しく僕は口を開けると、すぐにいちごチョコレートが入り込んできた。

 これは甘い、とても甘いけれど酸味もほどよくあるいちごだった。それにミルクチョコレートが合わさって、果物とチョコレートの甘さに目を細めた。

 疲れた体が癒やされるような、そんな甘さが詰め込まれている。チョコレートの苦みはあるけれど、どちらかというと甘い。

 そこにブラックコーヒーを飲むと、ちょうど良い甘さへと変化する。良い組み合わせで、とっても美味しい。

「どう?」

「美味しくて贅沢だったよ。それにひまりちゃんに食べさせてもらえるなんてね」

「それはその、バレンタインぐらいは」

「照れない照れない、ほら僕からも」

「私が今日はするの」

「でも、僕もしたいなぁ」

「……絶対に楽しんでるでしょ?」

 ひまりちゃんの指摘に、僕は笑顔で目を瞬かせた。「ほら、その反応!」

「だって照れるひまりちゃん、可愛いからなぁ」

「だから!」

 顔を真っ赤にしたひまりちゃんが、僕の胸を叩き始める。

「恥ずかしいんだって」

「僕は嬉しいけれど」

「だから、今日は」

「うん、だから」

 口を開けてね、とひまりちゃんの手からフォークを取り上げた。素早くいちごを刺して、チョコレートをまとわせる。

「ひまりちゃんと美味しいのを共有できるのが嬉しいから、一緒に食べよう」

「……ずるい」

 そう言われたら断れないよ、と呟くひまりちゃんに、僕は笑顔を浮かべ続けることしかできなかった。 そんなに凝ったバレンタインである必要はなくて、こうして楽しく過ごせればいい。

「わかった、今年はバレンタインはおやすみにする」

「それだと、このいちごチョコレートはどうなるんだろう」

「食べたいから買ったことにする」

「そっか」

 そう宣言されたなら、僕は素直に受け入れることにする。まだチョコケーキを作る気なのだから、深く追求する必要もない。

「ひまりちゃんが納得するバレンタインにすればいいよ」

 そんな僕の言葉に、ひまりちゃんはいちごチョコレートを味わいながら、強く強く頷いたのだった。



おしまい












 

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