玉響の唄

岡田遥@書籍発売中

平安時代の海賊たち





 玉響たまゆらの地。

 それは、人が足を踏み入れることの許されぬ幽境の地。

 伊予二名州いよふたなのしまに坐す神々が、成就させることの叶わなかった願いを棄てた島。






 波が飛沫をあげて、船腹を打つ。


かた、速度上げよ!」


 ここまで声を荒らげる男の姿を、凪は初めて見た。

 海賊たちが膂力りょりょくの限りを絞ってを漕いでいる。汗と潮で全身を光らせながら。誰かが今この瞬間にこと切れたとしても、おかしくないほどの気迫である。

 背後で乱調に打ち鳴らされる陣太鼓が、男たちを鼓舞するかのごとく海に響く。

 五艘の小早こばやは今、一陣の風となって瀬戸内の海を突き進んでいた。

頭領とうりょう!」

 なぎの顔は、すでに涙にまみれている。

 歓喜の波は光の刃となり、幾度となく娘の身体を貫いていた。


 目の前には島がある。

 生い茂る木々やそびえ立つ絶壁の細部までが、はっきり見える。

 ことほぐ金の光に包まれた、神々の島。


(やっと、ここまできた)


 生き場所を失くし、途方に暮れていたあの頃の自分は、果たしてこんな未来を想像していただろうか。


「頭領」


 涙で滲む視界を瞬きで晴らし、凪は必死で見つめ続けた。

 荒れた海を手繰る男の姿を、男が夢を手にする瞬間を、その瞳に焼き付け続けた。









     一幕








 時は、平安。

 日々和歌を詠み交わし、格調高雅な暮らしを謳歌する貴族たちが描かれがちなこの時代。

 この日本にも海賊がいたことを、一体どれだけの人間が知っているだろうか。





 突き抜けるような青空の下、荒れた安芸灘あきなだに浮かぶ何艘かの船がある。

 うちの一艘、ひときわ派手な黒漆くろうるし関船せきぶねに、娘はいた。

 関船の外貌は豪気なもので、船の脇腹より左右に突き出した小櫓は四十丁。

 水夫かこもしめて四十名。

 船体は値の張る上黒漆で惜しみなく覆われ、風を切り海を割る一本水押みよしの船首の先には、これまた黒い縄で編まれたかもじが揺れている。

 関は、すなわち海賊を指す。

 悪党どもの船である。

 ―――おぉぉぉ。

「ひやあ」

 水夫たちの息の合った掛け声の隙間に、絶叫とも雄たけびとも取れぬ蛮声がひびき、娘、凪はたちまち腰を抜かした。そのくせ、へたりこんですぐ、周囲に向けたのは虎の子のようにぎらついた視線だ。


(なんとおぞましいこと! あれがまこと、人の喉から出る音かしら。まるで獣の咆哮じゃない!)


 そう悪態づいた。

 どことなく幼さを残す面立ちの真ん中で、つんと上を向く生意気な鼻も、きりりと強気に吊り上がる眉も、娘の気の強さを表しているには違いなかったが、いかんせん腰はぬけている。

 萎えた脚に力が戻るのを待ってから、凪は再び床を這い進み始めた。


 ――つ。

 脇差を握りしめる。心は一つに定まっている。

 凪は数日前まで安芸国で豪族の娘として暮らしていた。

 さらにいえば、その前は貴族の娘で、やんごとなき身の上でもあった。

 それが今はどうだ。

 野卑極まりない男たちの船に乗り、自慢の垂髪すいはつは湿気と塩気を帯びて音が鳴りそうなほど軋み、水夫たちに気取られぬようずりずり床を匍匐ほふくする様はまるでじゃがいもの上を這う芋虫だ。

 裏山吹のうちぎもこれではあまりに哀れでならない。

 都では今この流行りのかさねをあがなうために、女房たちが必死になって東西の市を走り回っているというのに。


「誇りを捨ててはいけない」


 凪は、とうとう声に出して呟いた。心臓は緊張で痛いほどに縮み上がっている。

 それでも、上へ上がるための足は止めない。

「悪党におもねって生き永らえるなど、倉持家の恥よ。どうせいつか………されるなら、せめて世にはびこる悪人の一人や二人、打ち倒してから露とならねば」

 鮮明に思い描きたくない部分は濁して、自分を鼓舞する。

 目を閉じて繰り返し唱えるうち、胸中の不安や恐れは少しずつ薄れていく。あるいはただ麻痺しただけかもしれないが、それでも凪には十分だった。

 残り数段だった船ばしごを一息に登りきった。

(一矢報いて、しんでやる!)

 頭上の床板を押し上げた。船倉の薄闇に慣れた目に強い陽光が刺さる。




「見逃してやってもよかった」



 勢いよく吹き込んでくる潮風とともに、男の声が届いた。

 海賊たちは船のとも(後部)に群がっている。誰もはしご穴から頭を覗かせる凪には目もくれていない。

 ただ、男を見ている。

 海賊たちの中でもひと際異彩を放つ男を。

「けどお前らさっき、摂津せっつに向かう廻船かいせんを一艘おそったろう。あれがいけねえ」

 龍の背びれのごとく伸ばされた髪は高い位置で一つにくくられ、身ごしらえはいたく簡素。防具らしい防具は身につけず、脛に鉄を仕込んだ脛布はばきと、額には陽光を弾く額がねのみ巻かれている。

 男の前には捕縛された賊どもが雛鳥のように身を寄せ合い、さらにそれを凶悪面の海賊衆が囲んだ。

「ありゃァ実はうちが護衛してやってた廻船でな。播磨灘はりまなだまで送り届けてやる手筈だったんだが、どうにも途中で潮の流れを読み違えたらしい。

 男の声はどことなく優しげで、情さえこもっているかのようにも聞こえたが、左目の下から顎にかけての古傷を撫でるのは獲物をいたぶる時のいつもの癖だ。

 男の嘆きにあわせて額がねの海賊たちは薄汚くせせら笑っている。

「まったくもって不運だよ。せめてお前ら悪党の首くらいとってやんねえと、あいつら報われねえだろう?」

 捕えられた賊たちが震えているのは、ひとえにその悔しさゆえであろう。

 自分たちが廻船を襲い、荷を強奪する様をどこぞの島かげにでも隠れて見ていたのだ。

 乗っ取りを終えた機を見計らって大勢で馳せつけたのは、標的は二つより一つのほうがぎょしやすかろうと図ったからに違いなかった。

 帆は黒地に白抜きの定紋。

 むらの字入りの額がね。

 目の前にいるその海賊たちが、潮の流れなど読み違えるはずもないことは、この瀬戸内に生きる誰もが知っていた。


「だ、旦那ぁ……」

 捕えられた賊の一人が、たまらずといった様子で声を上げる。

 のどを震わせて咽び泣く、聞くものの哀れを誘う一等の命乞いだ。

「もう許してくだせえ。わしら、あんたらの獲物とはちいとも知らなんで、積み荷は全てあんたらに――」

「まだ俺が話してんだろが」

 にわかに興醒めした声が放たれ、跳ね上げられた男の首が命乞いの続きと共に人垣を越えた。どどっ、と音を立て、それは凪と真逆の船縁へ転がっていく。

 誰もが呆気に取られる中、凪だけが男の刀が鞘から引き抜かれる瞬間を捉えていた。

 それに嘔吐もせず気をも保たせていられたのは、男の動きがあまりに速く、それがうつつに起きたことだとにわかには信じられなかったせいだ。


(――人のわざではない)


 刀が抜かれ血が払われるまで、凪は、ただ一瞬の閃光を見たと思った。

 遅れて、海賊たちが主人の冴えわたった一太刀に沸く。

 男は緩慢な動作で腰を上げた。

 その体躯はあたりの者らに比べてひと際屈強でたくましく、精悍せいかんな輪郭と高い鼻梁には隠しきれない雄々しさが内包されている。

 しかし人々は彼を見てまず、その骨の髄から発されるような凄まじい強欲さと悪党さながらの残忍さを嗅ぎ取るのだ。

 賊たちも例外ではない。

 彼らの顔色はもう失う血の気もないのではと思われるほど真っ白で、そのどれもから感情の弾みは失われていた。


「賊共の船諸共、荷は全て新居にい大島へ運び込め。向こうの船に生き残りがいりゃあ身ぐるみをはいで海へ捨てろ。抵抗する者は斬り伏せて構わん」


 男は名を、村上涼二むらかみりょうじ

 生時に与えられたものは旗上げの時に捨て、響きが良いという理由だけでそれを名乗った。百年先の世に日本最強の水軍として名を馳せる村上海賊の、まさしく祖と呼ばれるべき海の猛者共の筆頭である。


「頭領!」

 高いところから声がかかった。

 黒漆の関船に巨船が船腹をつけ、縁から歳の若い青年が身を乗り出している。

 副頭領の吉岡利一郎だ。

「乗っ取りが済んだならさっさと根城へ戻りましょう」

 上等な狩衣と風折烏帽子かざおりえぼしからは育ちの良さが垣間見えるが、見下ろした先の船上に生首が転がっていようと眉一つ動かさない豪胆はまさしく海賊である。

 くわえて、青年はどこか虫の居どころが悪そうだった。

「おう利一。伊勢の奴らから分捕ぶんどった阿武あたけには慣れたのか」

「ええ、そちらにぶつけぬ程度には!」

 利一郎が怒り心頭になるのにはわけがある。


 阿武船あたけぶねとは、関船よりさらに大きく、船体を楯板に囲まれた守りの船をいう。

 のちの世には〝安宅〟と改され、展望所となる天守が建ったり、火縄銃や大砲用の狭間が設けられたりと、守備火力共に海上最強を誇る軍船となるのだが、この時代の阿武にまだそこまでの威力はない。海賊たちの侵入をたやすくは許さない――というほかは、ただ重くてでかいだけである。


大櫓おおろの扱いに難航してます。普段は一人で漕げばいいものを、二人や三人がかりで漕がねばならぬので、気の合わぬ奴らは毎日取っ組み合いですよ」

 涼二は、利一郎の苦労話を鼻で笑って流した。

「十分に扱いを慣れさせておけ。ここからの船戦ふないくさはそのでかいのが主流になる」


 この船を一目見た時から、涼二はそう言っている。本当だろうかと利一郎は思ったが、ひとまずは頷くにとどめた。

 荒くれ水夫たちを鎮めるも大変だが、今は優先すべきことがある。船倉の穴から騒ぎを覗き見る娘のこともひとまずは捨て置いた。


河野こうの殿がもう幾日も前から城であなたを待ち侘びてます。早々に戻らなければ屋敷の襖を全て和歌で飾り付けると脅されました」

「くたばるまで待たせとけ」

 涼二はにべもなく応じた。


「どうせ戦の誘いだろ。くだらねえ」


 この時、世はひどく荒れていた。

 朝廷より瀬戸内の海賊掃討を命ぜられていた伊予いよの国司、藤原純友ふじわらのすみともが反旗をひるがえし、その地の海賊や農民を束ねて挙兵したのだ。

 時同じくして東国下総の猿島においては平将門たいらのまさかどが兵を挙げており、朝廷は双方の反乱の鎮圧にすっかり頭を抱えている現状である。


 しかし涼二にしてみれば、それら全てはどうでもいい話である。

 日振島周辺の海賊たちが反乱を起こそうとその侵攻が自分の縄張りを掠めない限り実害はない。

 それどころか、これまで朝廷に制限されていた商いの船が混乱に乗じて激しく行き来を始めたため、獲物が増えて有難いくらいだった。

 しかるに、現時点で純友の船団相手にどうこうするつもりはない。

 当然くみするつもりもなかったが。


「俺たちはこの海域さえ守れりゃいい。名を挙げたいわけでも、守る家があるわけでもねえんだからな」

 涼二の言葉に手下たちはおうよとむき出しの腕を叩いて応じる。

 利一郎はいつものように長めの溜息を吐く。

「このあたりで恩の一つも売っておかないと、次は俺たちが干されちまいますよ」

 もはや連れ戻すことは不可能と見たのか、阿武の船べりに肘をつき、自らも見物の一人に回った。上等、と涼二はふてぶてしく笑う。

「そうなりゃ自分ちで戦ができる――。まあ、それより今はこっちだ」

 獰猛な目が獲物に戻った。

 ひと時の間完全に蚊帳の外となっていた海賊たちだったが、もしやこのままなし崩しに、などという淡い期待は芽生えていなかった。

 頭領と副頭領のいつもの掛け合いがなされている最中も、その手下たちは皆抜き身の刀を賊たちの鼻先にちらつかせ、指示さえあれば今にでも突き殺さんとばかりの血に飢えた欲求を剥き出しにしていたためだ。


「俺は武者の家に生まれ、生きることは欲を捨てることと教えられてきた」

 涼二が話し始めると、それが合図だとでも言うように手下たちが切っ先を下げる。

「しかし、それは果たして生きていると言えんのか」

 涼二が「おい、そこの」 と手前の男を顎で指すと、男は跳び上がらんばかりに身を震わせて、それから、ヘヘエ、とかハア、とか曖昧に頷いて言葉を濁した。男は答えを持ち合わせていないというより、刻一刻と鼻先に迫る死を前にどうしようもない恐怖にすくんでいるというふうだった。

 涼二のほうは、尋ねておきながら男の答えなど待っていない。

 それはもうとっくに彼の中で確立している問答であったからだ。


「答えはいなだ。後世に期待なぞ寄せている暇がどこにある。俺は俺の生きてるうちに、世の全てを謳歌してやりたいのさ」


 言うや否や、男たちから奪った刀の一つを取り、男の前へと投げた。近場の手下に声をかける。

「こいつらの縄を切れ。一人ずつな」

 手下の一人が目を輝かせながら、頑張れよ、と手前の男の縄を切った。

 刀を手にした男は蒼白になって涼二を見上げている。


「俺に一太刀浴びせられたら逃がしてやるよ」


 涼二の挑発は、しかし男に希望を抱かせるには至らない。圧倒的な剣力の差は戦わずとも分かるのだ。涼二は並の使い手ではない。

 男は身をひるがえすなり船縁に走った。

「……しらけさせやがる」

 目を細めた涼二は、手下から奪った船槍を素早く放った。

 うねりを上げて宙を裂いた槍は背後から男の腹を深々と貫き、跳ね上げられたむくろは辺りに血を撒き散らせながら海へ落ちていった。関船の下では小船に乗る海賊衆がハイエナのように浮かぶ死体をつつき回している。

 静まり返った関船の上で、涼二は振り返り、一言。

「次」

 続いて縄を切られた男は涙まみれの顔でようやく刀を握ったが、もはや立っていることすらおぼつかない有様だ。

 名が通る前はもっと楽しめた遊びだが、これじゃあただのなぶり殺しだな。

 涼二がつまらなく思ったところで、阿武船の利一郎から助言が飛ぶ。

「頭領、そいつらにも何か褒美をやらないと。やる気が出そうな品が、ほら!」

 当然利一郎が言ったのは奪った積み荷のことである。涼二も、なるほどと手を打った。

「なら俺に勝った暁には、この船と村上家頭領の座をくれてやろう!」

 男たちの目の色が、明らかに変わった。


 一年前、突如瀬戸内に現れ、そこから破竹の勢いで悪名を轟かせ続けてきた村上家。

 城と島一つを有し、蓄えもさぞ多かろうことを思えば、それは海に生きる男たちにとって申し分ない戦利品である。

 しかしまだ闘気を発するには至らない。頭領を討ったあとの手下たちの報復を恐れているのだ。

 涼二もまたそれを汲んだらしく、家中の海賊たちにむけて肩越しに怒鳴った。


「お前らも大山積神おおやまづみのかみに誓うよな!俺が死んだら全てはそいつのもんだぞ!」


 手下たちが地鳴りのように呼応した。

 もとより涼二が討たれるとは思っていない。しかし、こんな端くれに討たれるくらいならば討たれるがいいとは思っている。

 捕らえられた賊たちもまた、総鎮守大山祇神社の威光を海の男が軽んずるはずもないと知っている。一斉に、勇奮の雄叫びを上げた。

 涼二はやっと破顔した。

「やっぱり三人ずつにしよう。そのほうが盛り上がる!」

 初めの男に加えて他二人の縄が落とされ、立ち並ぶ船から野太い歓声が沸いた。

 そうじゃないとわめく利一郎の声などもう誰の耳にも届いていない。


「……」


 理性を欠いた狂騒の最中、凪はそっと床板を戻し、船倉へ戻った。

 壁にもたれて大波の揺れに耐え、少しずつ歩を進めていればようやく目的の部屋に辿り着く。

 そこは頭領である涼二のすみかであり、凪が幽閉を余儀なくされている部屋だ。

 六畳ほどの空間には、壁に海図が打ちつけられているほかは何もない。

 奥に、床となるむしろが敷いてある。

 夜は凪もここに眠った。

 途端に腹の底がカーッと熱くなって、隠し持っていた脇差を力任せに投げつける――が、その端から後悔して転がった刀に走り寄り、両手で取り上げて傷がついていないか血眼で探った。

 そのうちに両の目が熱くなって、凪は身体を丸めて泣いた。


 帰りたい。

 願うことはそれだけだ。


 はじめから凪に男が殺せるはずもなかった。

 圧倒的な剣力の差のためではない。

 だめだったのだ。

 あの男が、床の上で喉を晒し、ぐっすり寝こけている時ですら、凪はその首元に刃を突き立てることができなかったのだから。


「う、っうう……」

 ここでは凪の知る命の価値などなんのあてにもならない。海賊たちにとってそれは今日を愉快に生きるための道具であり、相手をそそのかすために安易に差し出せてしまえる程度の価値なのだから。

 震える身体を抱きしめて、思い出すのは、ほこり臭い蔵の匂い。しけって波打つ紙の感触。美しい、あの琴の音。


 安芸国あきのくに豊田郡の豪族ごうぞく・倉持藤之助の邸宅で、凪はその日もまだ書にふけっていた。

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