「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」(2024)
前作がもたらしたインパクトはあまりにも強かった。政治腐敗・貧困・格差――そうした社会的病巣の数々が、不遇の道化師アーサー・フレックをジョーカーという悪のヒーローへと仕立て上げる物語に、世界中の人々が驚愕した。
その反響は凄まじく、現実でも模倣犯を生むまでに至った。
その続編ともなれば、大きな注目が当たるのも当然で、いち早く公開された米国では絶賛と酷評という極端な評価に分かれ、ここ日本でも大体おなじような反応となった。
続編となる「フォリ・ア・ドゥ」では、前作の物語の続きを描きながら、大胆にもミュージカルをフィーチャーしている。今作が展開するのは、ハーレイ・クインとジョーカーのきらびやかで悲しい恋物語である。
五つの殺人容疑で逮捕されたアーサー・フレックは、アーカム州立病院に収容されて抑鬱的な日々を過ごしている。弁護士スチュワートはアーサーが「二重人格を患っている病人だ」という方向で擁護。その一方、地方検事のハービー・デント(!)は有罪で死刑に持っていきたい考えだ。
模範囚としてアーサーは、歌の集会に参加させられる。そこで出会うのがリーことハーレイ・クインゼルである。
リーはジョーカーの信奉者で、アーサーのテレビ司会者殺害を絶賛する。そして、アーサーはリーと恋に落ちる。彼の心の高揚が、ミュージカルとして表現されている。
副題の「フォリ・ア・ドゥ」は「同一の妄想を二人で共有する病気」=「感応精神病」のことを意味しており、ミュージカルシーンでは、その病気が体現されるのである。
リー役に配役されたのはあのレディ・ガガで、圧倒的な歌声を見せる。その一方で、ジョーカー役のホアキン・フェニックスも、ガガに劣らない印象的な歌声を披露している。とくに、歌謡ショウのシーンは、そのヴィジュアルの華やかさも相まって映画史に残ると言っても過言ではないだろう。
独房の中での恋はどのような方向に進んでいくのか。混乱続きの裁判ではどのような裁決が下されるのか。そして、映画は衝撃の結末を迎える。
アーサーは悲しい男である。家族にも恵まれず、運にも恵まれず、不遇な日々を過ごして、やっと得たものが「ジョーカー」という狂気のペルソナであった。彼の信奉者からはジョーカーであることを求められ、司法の現場ではそれが否定される。
アーサーと信奉者(リーを含む)の求め合うもののすれ違いこそがこの映画のラストを決定づける。
ここからは私見だが、問題のラストシーンでは、「ジョーカー」という存在がアーサー個人を離れて、他の者に感染しうるものであることを仄めかしているように見える。まるで妄想が共有されるかのようである。最後に登場する人物がまるで「ジョーカー」そっくりなのである。
ジョーカーは現象であり、人格ではないのだ。社会的病巣のなかでは、誰もが模倣犯になりうる。本作はそうした人間を産みやすい社会になっていないかを警告している。そういうことを監督は言いたかったのだと私は思う。
勧善懲悪的な分かりやすいエンターテイメント性には欠けるが(もはやスーパーヒーロー映画であることを忘れてしまう)、心に残る一作である。悪評を耳にして視聴を迷ってる方には、ぜひおすすめする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます