第一章 枯草は燃える 4

 縹は起き上がってはこなかった。

 気絶していたか、あるいは気絶した振りをしていた。

 おそらく縹が隠した札を切れば、まだ彼に勝機は残っていただろうが、味方しかいない訓練とは違い、ここには鉛丹がいる。


 なんでもかんでも全力を尽くせばいいというものでもない。

 必要とされたのは鉛丹の眼鏡に叶うことであって、狼族同士で順位付けをすることではない。丁字染というひとつの基準をすでに超えた縹が、早めに損切りするのはむしろ縹の性格を考えるとあり得る話だった。


「いいとこに入っちまいましたかねェ」


「油断を誘っているのではないか?」


「実戦ならそれもありですがね、腕自慢する場でやるにゃあ、長すぎる。おい、縹ァ、とお数えるからよ。その間に返事が無きゃお前の負けだァ」


 枯草はたっぷりと時間をかけて十まで数えたが、終ぞ縹は返事をしなかった。


 仕方なく縹の襟首を咥えて運ぶ。


「待たせたなァ、二藍」


「待ったというほどでもないが?」


「そういうとこだぞ、二藍ィ」


 二藍は腕っ節こそいいのだが、どこかズレていて心配になる。

 おそらく鉛丹の目的に頭を巡らせたりはしていないのだろう。

 純粋なまでに監獄の教育に染まっている。

 生かしてもらっているのだから、組織に貢献しなければならないと本気で考えているのだ。


 枯草が宝玉の話を狼族の仲間にも明かせないと思ったのは、二藍の存在もある。

 彼は枯草の考えを組織への裏切りとして報告する可能性すらあった。

 それゆえにこの場での格付けは枯草には必須である。

 疑念の余地を挟ませないために自分に不利な状況すら作った。

 この状況で絡め手を使わずに枯草が勝てば二藍とて枯草に従うことに文句は言うまい。それは狼族の習性のようなもので、教育などで変わるものではない。


 これまでの二戦と同じく、とくに開始の合図などは無かった。

 枯草は縹にそうしたように腕をだらりと下げた姿勢で二藍に近づいていく。

 二藍は待ち受ける姿勢だ。

 両者の体格を比較すると二藍に軍配が上がる。つまり二藍の手の届くほうが早い。


 二藍が腕を振り上げた瞬間、枯草の腕が跳ね上がって、二藍の顎を捉えた。


 後の先とかいう猿族の使う技術とはまた違う。

 先に攻撃してきた側に、ただ上回る速度をもって先んじて攻撃を当てただけだ。

 もちろん速度を最重視しているため、威力は軽い。

 また時間差が無さ過ぎて、二藍の腕も枯草の顔を捉えた。


 傍目にはまったくの同時に見えたかもしれない。

 だが腕の長さで負けているにもかかわらず、初撃で互角を取れれば大金星だ。

 先に枯草の攻撃が当たっていたためか、二藍の打撃も本来の威力が出ていない。

 どちらも蹴りを入れられない。


 狼族の打撃威力は圧倒的に足のほうが強い。

 狼族の腕は指の発達が遅れているからか、腕自体に筋肉はあまりついていない。

 殴ったり、振り回したりしても、あまり威力が無いのだ。

 骨は太く頑丈なので、四肢で大地を走るときや、獲物を押さえつけるには十分なのだが、攻撃手段としては頼りない。爪が使えれば話は別だが、今は使えない。

 縹の気絶が欺瞞かどうかはさておいて、あの一戦を見ればその威力の差は誰にでもわかる。


 それでもなお枯草たちが腕での打撃を優先するのは何故か。


 実のところ狼族同士での戦いであればあまり意味は無い。

 狼族の戦いに掴みという概念がほとんど無いからだ。


 しかし他の種族との戦いであればそうはいかない。

 猿族や猫族は掴むのに有利な手の形をしている。

 彼らには掴み技という概念があり、実戦で掴まれれば終わりだ。ゆえに狼族は蹴りを放つのに、掴みを警戒しなければならなくなった。

 結果的に得られる利益も大きいが、危険度の高い蹴り技は、確実に決められる状況に持ち込んでから使う癖が身についたのだ。


 枯草と二藍の立ち合いは足を止めての乱打戦となった。

 狼族が腕を振り回す速さは回避どころか防御すらすり抜ける。猿族や猫族よりもずっと速いのだ。

 真偽の程は定かで無いが、腕に筋肉がついておらず、軽いためだと言われている。

 その分、威力も低いが手数は多い。

 狼族でも視認は難しく、おそらく意識して避けられるのは鴉族カラスケイスくらいのものだろう。


 殴り、殴られ、殴り、殴られる。

 言葉にできるような速さではない。どこかで怯んだら蹴りが来る。相手が怯んだら蹴りを入れる。考えるのはそれだけだ。

 今は搦め手のような他の手段を考えている暇も無い。

 体格では負けているため、一瞬でも先手を入れられたらそこで終わる。


 先手、先手、先手、先手だ!

 揺らぐな。殴れ。とにかく当てろ。


 集中し、集中し、集中したその先に、二藍の鼻先が見えた。


 顔から最も突き出した鼻先は狼族にとっては弱点のひとつだ。

 部位として弱いというだけでなく、ここに攻撃を食らうと狼族は本能的に怯む。


 当たる、と思った。


 思ったときはそうすべきだ。

 枯草は二藍の鼻先を狙って腕を突き出し、しかしその手は空を切った。

 避けられた?

 そのことに思考を割かれた一瞬が、枯草にとっては不運だった。

 腕を空打ったその空隙に、二藍が蹴りを差し込んできたのだ。


 どっ、と衝撃が枯草の胴の中心に打ち込まれた。

 意識が揺らぐ。が、保った。


 意識と、体勢を。


 それはこの立ち合いを単なる腕試しくらいに思っていた二藍と、狼族の国を再建するという野望を持った枯草との意識の違いだ。

 枯草は命を賭けていた。二藍は違った。

 先の二戦が不完全燃焼だったことも関係していたかもしれない。

 この程度の立ち合いなのだと二藍は思っていたに違いない。

 ある程度の打撃が入ればそこで終わりだ、と。


 枯草は二藍に背を向けた。否、回転した。

 伸ばされた足が二藍の足を払う。

 枯草の意味不明な回転に意識を取られた二藍は避けられなかった。

 一瞬その体が宙を舞う。そこに体を捻って全身を発条バネのように使った枯草の蹴りが叩き込まれた。


 二藍の体がまるで大砲にでも撃たれたかのように吹っ飛んだ。

 地面に当たって転がる。

 さらにそこで意識の違いが出た。

 まだ二藍の体が転がっている最中だというのに、枯草は地面を蹴った。

 追撃の構えだ。

 自然と咆哮が喉から迸った。勝てる!


 そう思った瞬間、甲高い破裂音が響き渡り、反射的に枯草は動きを止めた。


「両者止まれ! 聞こえたか!? 十分だ!」


 鉛丹の声だった。

 縹が何かを手にしている。

 紙切れ、だろうか?


 どうやら丁字染に使った奥の手を縹が再び使ったようだ。


 鉛丹が爪先でとんとんと地面を叩いた。

 それから大きなため息を吐いた。


「まったく、野蛮な連中だ。それ以上は仕事に支障が出る。俺は実力を見せろと言ったんだ。殺し合えと言ったわけじゃない」


「そいつァ、合格って考えていいンですかい?」


「違う意味で不安を感じたが、まあいい。二藍を起こして連れて来い。仕事の説明をする」

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