消滅世界
仁矢田美弥
第1話 消える人々
最初にKがそれを目撃したのは、西武新宿線中井駅から都営大江戸線中井駅までの途中にある川べりの喫茶店においてだった。
この二つの線の駅は、地下でつながることなく、人々は乗り換えるためにいったん地上の商店街を通る。短い距離なのだが、ごくふつうの街中の商店街を抜けるというのが、都内の駅にしては変わっている。しかも、妙正寺川という、都会に多いコンクリートで護岸して、ふだんは底の方に水の流れているだけの細い川を渡って歩く。
川沿いにも何軒かの飲食店はあるが、そのなかの、テラス席のある喫茶店。ちなみにこの店はなぜだかよくドラマか何かのロケに使われている。一見したところとくだん変わったところもないありふれた古い喫茶店である。何かテレビ関係者にコネでもあるのかもしれない。
ともあれ、Kは朝方この喫茶店でモーニングを頼むのがその頃の習慣だった。住宅地の中ということもあって、さほどには込み合わない。
Kからすると、西武新宿線中井駅を出て、都営大江戸線中井駅までの間に朝食を摂れるのはありがたかった。中野坂上まで出てしまうと、店は多いが朝のうちは周囲のビジネス街への通勤途中の会社員でいっぱいで、なかなか落ち着けない。それに比べれば、ここの喫茶店は、人も比較的少ないし、チェーン店にはないうまいコーヒー、日替わりのメニューがあり、小銭数枚分高くても選びたい理由はあった。
川沿いの遊歩道にせり出したテラス席が気に入っている。コンクリートの橋を大江戸線の駅入り口に向けてもくもくと歩いていく男女を眺めながら、バターたっぷりの香ばしい厚切りトーストを頬張る。
しかしその朝、珊瑚色のフレアスカートを揺らしながらやけに大股で橋を歩いていた長髪の女性が、Kの視線の先で、視界からふっと消えたのだった。
『川に落ちたのか』
Kは独り言ちて、持っていたコーヒーカップをトレイに戻し、遊歩道を小走りで現場の方へ駆けていった。コンクリートの橋の上で、若いスーツを着た男が川面を見下ろしている。それで、Kは、さっき自分が目撃したものが目の錯覚ではなかったことを知る。
スーツの男は珊瑚色のスカートの女が何かのはずみで川に落ちたのかと疑っている。けれど、それでも何か腑に落ちないような表情だ。川面を凝視していた男が目を上げ、Kとちょうど目が合った。
「今、女性が消えませんでしたか。珊瑚色の目立つ色のスカートをはいていた」
次の光景にKは目を疑った。スーツの男は片手でつまみ上げるように衣類を上げて見せた。そこには、珊瑚色と白い色が見える。女性のブラウスは白かった。そればかりか、男はハイヒールの靴さえ上に上げた。
困惑を隠さない男の目。Kは急いで遊歩道を抜け、橋上の男のところまで走った。男性としてはじっと見られるのがはばかられるようなもの。つまり女性が身につけていたと思われる下着類やストッキングもアスファルトの上にある。まるでふわりと落としたかのように。
「警察に通報しましょう」
若いスーツの男が言う。
「私とあなたが証人です。こんなバカげた現象も、二人で訴えれば聞いてもらえるかもしれない」
まもなく自転車に乗った制服警官が二人、駆けつけてきた。
周囲を大江戸線方向に歩いていく人たちは、まったく事態に気づいていないらしく、Kと若い男と警官二人が丸くなって話し込んでいるのを、好奇心を閃かせつつ通り過ぎていく。
警官二人はKとスーツの男の住所・氏名・連絡先を書き留めた。先ほどの女は当然通勤途中らしく革製のブランドものらしいバッグを所持していたが、その中に現金も入っていたようで、拾得物扱いになるらしい。
Kとスーツの男はそんなことには関心がなかったが、警察がそういうことを考えるのはやむを得ないとは思っていた。
警官と別れ、Kとスーツの男は大江戸線の地下に向かう入り口に向かった。反対側に歩いて行った警官の一人──「拾得物」の衣類とバッグを持った方──が直後に消えて、白いブラウスや珊瑚色のスカート、下着とストッキング、革製のバッグが、警官の制服や装備とともに再びアスファルトの地面に落ちたということは、二人には知る由もなかった。
スーツの男は遅れ気味だったらしく、急いで改札にICカードをタッチすると、大江戸線の深く長いエスカレータを半ば駆けるように降りて行った。運よく到着した電車に間に合ったようで、Kがホームまでたどり着いたときには、もう影も形もなかった。
Kは次に滑り込んできた電車に乗り込み、込み合うなかでつり革を提げた鉄棒を握りしめてバランスを取った。背の高いKはつり革では低さを感じてうまくバランスがとれない。それに、つり革は背の低い人たち、とりわけ女子や高校生・中学生などに出来るだけ空けておいてやることにしていた。
通常より横幅が狭い大江戸線の車両はぎゅうと体と体が押しつけ合い反発し合い、それが電車の揺れで何とかバランスを保ちつつ耐えられる状態になっている、という態のものだ。皆慣れている。
ところが、隣の東中野駅に着く直前、背後がぽっかりと空いたように感じた。振り返るがよく分からない。そもそも背後の人間の顔など真面目に見たりはしないから、急に背中の圧迫が消えてはじめてそこにいたはずの人間の存在を意識したのだ。
ふだんならそれ以上何も気にすることもなくまた前を向くところだが、頭一つくらい置いた中年の会社員の胸元に抱えたカバンの突起に女子生徒の制服のブラウスらしいものがかかっているのをみて、目を剥いてしまった。中年男はまるでそのことに気づいていないように見えた。
Kが驚いて下を見ると、靴下、紐靴、そして下着がいかにも痛々しいさまで落ちている。と、見ているうちにプリーツの入ったダークグリーンのスカートが学生バッグの上にずり落ちた。小型ボストンのような形をした藍色の色の褪せた学生バッグには、レースのスカートをはいた、黒く小さなぬいぐるみのうさぎがぶら下がっていた。
うさぎのプラスチックの青い目がわずかに光っている。
上背のあるKがしゃがみ込むと、前の座席の太った中年の女や、目の前の中年の会社員も微かに顔をしかめた。
お互いの身体の微妙な組み合わせで平衡を保っていたのだから、その一か所でも崩れると途端に居心地が悪くなるのだ。彼らの不満はKにはよく分かったが、それでも制服を調べないではいられなかった。
校章を見ると、次の中野坂上駅から程近い場所にある私立高校であることが分かった。
Kは制服や、そして抵抗はあったものの、下着まですべて自分のカバンに詰め込み、電車が駅に着くと急いで駆けだしていった。
出社時間にはまだ間があるが。念のためメールで事情を伝えた。まさか背後の女子高生が消えたとも言えないから、体調を悪くした人を駅務室に運んだので遅くなると入れた。
例の高校なら走って十分ほどだ。人混みをかき分けながら、Kは道を急いだ。
この辺りではわりと有名な女子高校だった。Kが通学かばんを持ったまま守衛のところまで歩いていくと、案の定守衛の老人は怪訝そうな目付きで彼を見た。Kはなるべく手短に、電車の中での一件を伝えたが、およそ変質者にでも思われたらしい。その場で警察に通報されてしまった。
守衛の老人は、薄気味わるそうにKを眺めながら、通報した以上はそれまでに逃げられてはたまらないというふうに、応援としてスポーツ部の顧問をしていると思われる、首にタオルを巻いたガタイのいい男も連れてきた。雰囲気から教師らしいと分かったが、一限目の授業はないのだろう。運動服でパイプ椅子に腰かけて、ミネラルウォーターをがぶがぶと飲みはじめた。Kもそれを飲みたかったが、そこまで頼むこともできなかった、実のところ喉はからからだったのだが。
やがてサイレンの音がして、パトカーが停まった。サイレンを流すほどのものかと訝しがっていると、降りてきた制服警官二名と刑事らしいジャケットを着た男二名が、荒くドアを開けてKに詰め寄った。
「署まで一緒に来い」
「どういうことですか。私はこの学校の生徒さんの制服やカバンを届けてあげただけですが」
「その生徒はどうした」
ガタイのいい教師が素早く応じた。
「二年三組の生徒で柊亜紀という名前です。確かに今朝登校していません」
「それはそうだ。消えたんだから。それをわざわざ伝えに来てあげたのではないか。遺留品を持って」
Kの抗議など、誰も聞く耳を持たなかった。
「とにかく同行しろ。変質者め。言い訳は署で聞く」
Kは心底驚いてしまった。ちょっとした世話焼き心を起こしたために、今日大事な取引を控えている仕事に行くことが出来なくなるとは。
取り調べ室に連れていかれた。狭くて殺風景な部屋で、粗末なテーブルとパイプ椅子がある。片側に一個、向側に二個。案の定二人の刑事がKに向かい合って腰かけた。
Kは訳が分からない思いと、大事な取引を自分なしで乗り切れるのかという不安で気が気ではなかった。
「あの、会社に連絡を入れたいのですが」
「もうこちらからしてある」
取りつく島もない様子だ。Kは諦めの嘆息をした。
「まず、名前と住所を」
こんなことを聞かれるのは今日で二回目だ。つい苛立ちが顔に出てしまった。
「ふてくされているのも今のうちだ。お前は重大事件の重要参考人だ。ことと次第によっては、すぐに容疑者に変わるがな」
そう言われてKは驚いた。女子高生の身につけていたもの一式を持っていたことからして、変質者だと疑われたのだとは思っていた。しかし重大事件とは何だろう。もしかしたら、今朝忽然と消えた珊瑚色のスカートの女性のことと関係するのだろうか。あれなら、他に目撃者もいるし、衣類は制服警官が持ち去ったのだし、何も心配することはない。
こうなったら、誤解がきれいに解けるまでつき合ってもいい。そうKは思い直した。
しかし、その後に一人の尋問者から並べ立てられた「消えた人間」について聞くに及んで、Kは寒気を覚えた。
中井の西武新宿線と都営大江戸線の駅の間を結ぶ路上で若い女性が一人、その現場に駆け付けた制服警官二名のうち一人、都営大江戸線の構内で若いスーツの男性が一人、大江戸線の中井駅から東中野駅に向かう電車の中で女子高校生が一人。
あの珊瑚色のスカートの女性、女性が姿を消したことをKとともに目撃し、駆けつけてきた制服警官二名に対して一緒に証言した若いスーツの男、その制服警官のうちの一人、電車の中でKの真後ろにいた女子高生。
目の前の刑事は険しい目つきでKを睨んでいるが、実のところご本人にもよく事件の概要がつかめていないらしいのは明白だった。ただ、この消えたすべての人間にKが何らかの関りを持っているということだけを手掛かりに、何とか事件のとっかかりをつかもうとあがいているように見えた。
「大体」
Kは、目の前の刑事たちにむしろ冷静になってもらいたい気持ちで、穏やかな声音で言った。
「どうして私が……『容疑者』なんですか。私がいったいどういう手を使って、こんなに多くの人間を消すことができるというのですか」
刑事たちはおそらく困り果てているに違いない。
状況自体が訳の分からないものなのだから。
「私は何でも正直にお話するつもりですが、それでも刑事さんたちの疑問を解決することが出来る自信がありません」
本心である。今日の仕事上の大切な取引のことを思うと悔しさが湧いてくるが、もう今さらどうにか出来るものでもないし、すでに警察からも会社に連絡がいっているのであれば、なおさらだ。
それに、もしかしたら、ここで刑事たちのようすを観察することで、この奇妙な現象に関する情報の一端を知ることができるかもしれない。今となってはKは、そちらへの関心も強くなっており、どうせ出勤もままならないのなら、徹底的に警察につき合って身の潔白も証明し、そしてこの謎の解明のための一助にもしたいという気持ちになっていた。
それからKは、うんざりするほど自分の見聞きしたことを繰り返し何度も語らされる羽目に陥った。
状況が一変したのは、約二時間後だ。急ぎらしい連絡が刑事たちに入り、二人は慌てて取調室を出て行った。
十分ほど後に戻ってきた二人の顔は一様にこわばっており、青白かった。Kが不思議に思って見ると、年かさの方の刑事がKに対して言った。
「今日はここまでで十分です。お時間を取らせてすみません。もうお帰り下さい」
Kはほっとするよりもむしろ不審に思った。二人のようすは尋常ではない。まるで亡霊でも見てきたようだ。
つい好奇心に駆られて「何かあったのですか」と尋ねてみたが、返事はなかった。
その夜のニュースでKは初めて知ったのだが、今日一日で消えた人間は東京だけでも十万人にも上るという。何が起こったのか、彼らがどこへ行ったのか、まったく分からないのだという。
テレビは全局がこの一大事を報ずる特別編成に変わった。合間のコマーシャルは全てACジャパンだ。大阪でサッカーの試合をしていた子どもたちのうち、約三分の一が一瞬で観客の目の前で消えたことは全国民に衝撃を与えたが、さらにそれを中継していたテレビ局のレポーターがテレビ画面からふっつりと消えたことは輪をかけた衝撃を視聴者に与えた。
すでに、いったい何万人の人間がすでに消滅しているのか、警察も自衛隊も、したがって政府も把握できなくなっていた。目撃談の統計のほか、誰にも気づかれずにひっそりと消えてしまった人間も多くいるだろうことを考えると、その数はさらに膨れ上がるはずだった。
事は日本だけではなかった。全世界的に同じ現象が起きていることが並行して報じられ続けた。その原因が分からない以上、人々は何の対策も考えられないまま、とりあえずは日常生活を続ける以外になかったが、職場で隣の席の同僚が忽然と消えたのを目撃した若い会社員が錯乱状態に陥り、窓から飛び降りるという事件が起こった。似たような事例は数え上げることの不可能なほどに増えてきている。
運転手を失った車が追突事故を起こし、あちこちに乗用車やトラックやバイクなどの残骸が積み上げられていった。電車がありえないような追突・脱線事故を起こし、そのすべてが運転手の消滅によるものだった。
こうなるともう、人々は外出すらままならない。
テレビやネットにかじりついている人々が大半だが、もうその世界でも、まともな報道は成り立たなくなり、陰謀論、新型ウィルス論、その他新型兵器が使われているのではないか、といった憶測やデマ情報があふれかえっている。
政府がようやくにして全戸調査を開始したが、すでにそれに応じることのできない世帯が激増していた。
とち狂った人々が火事場泥棒よろしく開きっぱなし、あるいは閉めっぱなしの店舗に押し入るのは日常茶飯事。日用品や食料品の店はすでに空っぽだし、高級ブランド店もさんざんに盗難に遭っているが放置されていた。
それでも、まだ残っている心ある人たちの奮闘により、何とか命綱のインフラはかろうじて機能していた。電気やガスや水道の供給、ネットの使用はまだ可能だった。もちろん、供給量は激減してはいたが。
電車も、ATS(自動列車停止装置)が普及している日本ではまだ利用可能な乗り物だった。初期に起こった追突・脱線事故を教訓にして、運転手が消えてもよいようにほぼ自動走行していた。自動車類については、主な幹線道路・高速自動車道は完全に封鎖されてしまった。航空機も同様だ。人々の移動する流れが起こりはじめた。
いつ何時、自分や家族が消滅するかも分からない中、何とか動いている電車に乗って、故郷に帰る人波が出来始めた。中には、帰りつけずに消えてしまう人々、帰りついたもののすでに実家はもぬけの殻になっているという事例も多かったが、それでも人々は帰郷をやめなかった。
そうなると、人の移動には歯止めがかからず、ますますどのくらいの人間が消滅しているのかの把握は難しくなっていく。
政府も崩壊状況になった。警察も自衛隊も壊滅状況。
マスコミュニケーションは細々と報道を続けてはいたが、もはやその本来の機能を失っていた。
相変わらずネット上のやりとりは可能で、もはや人々の嘆きや憎悪の声だけがそこにこだましている。
Kは、ほんの十日前に警察に事情聴取を受け、大事な取引に参加できないことを悔しがっていたという自分がもはやはっきりとは思い出せない。遠い遠い世界の出来事でしかなかった。
人々はこのまま消滅しつづけるのだろうか。世界は完全に消滅していくのだろうか。
何か大きすぎる事態に直面すると、人間の感覚は麻痺してしまうらしい。こんなことなら──というような後悔がもっと生まれてきても当然のはずなのに、そういう気持ちも起こらない。いつ自分が消滅するのか、一瞬の後かもしれない、それは底知れぬ恐怖のように思えるのに、案外平気だ。
もはや、いずれ近いうちに、全人類が同じ運命をたどるのだと観念しているところから、一種の冷めた感覚しか出てこないのだろうとKは自分で納得していた。
Kにはもう実家はない。都内に住んでいた両親はこの事態の早いうちに消えてしまったようだ。集合団地の両親の部屋に行ってみたが誰もいなかった。合鍵で中に入ると、キッチンに母のワンピース(その猫の模様のワンピースは以前見た覚えがある)、トイレの前に父のTシャツとチノパンが落ちていた。もちろん、それぞれの下着も一緒に。
Kはそれを丁寧に畳んで、まだ畳んでもいなかった敷布団のシーツを直し、その上に乗せて帰ってきた。
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