第29話 アンシュタート召喚事件、再び

 千紘の意識がゆっくり覚醒する。


 草の匂いをたっぷり含んだ爽やかな風が、鼻孔びこうをくすぐりながら、優しく頬を撫でていくのを感じた。


(心地いい風……。どこから流れてくるんだろう……)


 千紘はそんなことを思いながら、まだ少し重たいまぶたを持ち上げる。

 視界に映ったのは、木々の緑とその隙間から覗く青。


(あれ、外……?)


 しばしの間ぼんやりとそれを眺めてから、千紘はようやく記憶の糸をたぐり始めた。


(確か、秋斗と律の三人でカレーを食べに行こうとして……、それで、階段から落ちたような気がするんだけど……って、まさか!)


 ある記憶まで辿ったところではっとして、勢いよく起き上がる。

 千紘の頭の中は、すでに嫌な予感でいっぱいになっていた。


 階段から落ちて、目が覚めたら森の中。


(マジか……)


 さすがに一つの結論しか出てこず、思わず頭を抱えた。


 少し前に秋斗と一緒に体験した、アンシュタート召喚事件。

 きっとこれしかない。


 今の状況を認めたくはないが、おそらく認めるしかないのだろう。


 頭の中で唸りながらふと横を見ると、秋斗もちょうど目を覚ましたところらしく、大きなあくびを漏らしていた。


「うーん、よく寝た……」

「秋斗、ちゃんと起きろ!」


 千紘がまだ寝ぼけた様子で目を擦っている秋斗の肩を掴み、大きく揺さぶる。思わず頬をひっぱたいてしまいそうになった手を慌ててひっこめたのは秘密だ。

 イケメン俳優の顔をひっぱたくのはまずい、ということくらいは当然理解している。


 すると、ようやくしっかり目覚めた秋斗は、きょろきょろと周りを見回し、それから嬉しそうに言った。


「もしかして、ここってアンシュタート!? また来れたのか!?」

「……はぁ……」


 うなだれた千紘の口からは、もはや溜息しか出てこない。あまりにも状況の理解や把握が早すぎて、秋斗を尊敬するレベルだった。


 しかし千紘になど構うことなく、秋斗は改めて辺りをぐるりと眺める。


「あれ、りっちゃんは?」


 そう呟いた次の瞬間だった。


「ここよ」


 覚えのある高い声が後ろの方から聞こえてきて、千紘と秋斗は揃って振り返る。


 そこには金髪碧眼の、見た目だけは美しい少女が仁王立ちしていた。


「リリア!」


 秋斗が目を細め、声の主の名を呼ぶ。


 受け入れたくない現実を目の前に突きつける人物が、とうとう登場してきたのである。


(リリアがいるってことは、やっぱりここはアンシュタートなのか……)


 千紘は、秋斗とは正反対に心底うんざりした表情でまた一つ大きな溜息をつくが、すぐにリリアの足元に目を留めて声を上げた。


「律!」


 そこには律が寝転がっていた。どうやらまだ目は覚ましていないらしい。


 しかしそんな律をあとにして、リリアは迷いのない足取りでまっすぐ千紘たちの方へと向かってくる。


「久しぶりね」

「リリア、久しぶり!」


 片手を上げた秋斗の声は、相変わらず明るいものだ。緊張感などというものはどこにも存在していない。


 対して、千紘は怪訝けげんそうな目をリリアに向けた。


「何でそんな離れたとこにいたんだよ……。それに見てたんならさっさと声掛ければいいだろ」

「だって、もしあんたたちじゃない人間だったらどうするのよ」


 千紘に反論しながら、両手を腰に当てたリリアが小さく頬を膨らませる。仕草だけなら可愛いと言えなくもないが、その口が発した言葉はとてもスルーできるものではない。


 千紘は眉をひそめ、ぼそりと呟いた。


「もしかして、失敗して違う人間召喚することあんのかよ……」

「そ、そんなことあるわけないじゃない! まだ二回しか召喚してないんだから!

あんたたちだけよ!」


 リリアは一瞬ぐっと息を呑んだ後、慌てた様子を見せる。


(これは絶対、可能性あるやつだろ。いつか俺たち以外にまた用もなく召喚される奴が出てくるんじゃないのか……?)


 千紘はリリアを横目で見ながら、「そのうちやらかすな」と心の中で何度も頷きながら、嘆息した。


 そこに秋斗の声が割ってくる。


「えーと、前におれたちがここに来てからどれくらい経ってるんだ?」


 気を取り直したらしいリリアが秋斗の方へと顔を向け、それほど考えることもなく答える。


「そうね、一ヶ月くらいかしら」

「へー、おれたちの時間とだいたい同じか。な、千紘」

「ああ」


 秋斗に同意を求められ、千紘は素直に頷いた。


「ところで、『リッチャン』とか呼ばれてたあれは誰?」

「あれ?」


 リリアの指差した方向に、千紘と秋斗が目を向ける。先ほどまでリリアがいた場所、つまり律が寝ているはずの場所だ。


「……」


 いつの間にか目を覚ましていた律が、その場に座り込んだまま、無言で目を瞬かせていた。


「律、大丈夫か!?」


 そんな律の様子に、千紘は慌てて駆け寄り、声を掛ける。

 すると、


「は、はい……」


 律はほうけたようにそれだけを答えた。


 千紘は、とりあえず律に怪我などがなさそうなことには安心するが、リリアの召喚に巻き込んでしまったことを申し訳なく思う。


 決して自分のせいではないはずだが、何となく罪悪感のようなものが湧いてきてしまったのだ。


(これは混乱してるな……。まあ当然の反応だけど)


 あの時は秋斗や自分も混乱したのだ。律だって混乱するのは当たり前だろう。


 自分が初めてここに来た時のことを瞬時に振り返った千紘は、「たった一回で耐性がついてしまった自分たちの方がきっとおかしい」と、長嘆ちょうたんするしかなかった。


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