妄言。
愛崎アリサ
前編
「うちの床下に『んぽぽん様』が住み着いて、どのくらいになるんだっけ」
帰って来るなり、夫はそう言った。
「は?」
私は、ぽかんと口を開けた。夫はスーツ姿のまま、真面目な顔で繰り返した。
「だから、床下の、んぽぽん様だよ。いつからいるんだっけ、んぽぽん様」
私は、デパ地下の総菜を盛った皿を手にしたまま眉をひそめた。
「……何言ってんの? 訳分かんないんですけど」
言いながら、四角いガラス皿を食卓に置く。夫はネクタイを緩めて席に座り、怪訝な顔で私を見上げた。
「は? お前こそ何言ってんの? ずっといるじゃん、んぽぽん様。最近はよく話しかけてくるし、体も相当でかくなったみたいだよな。床下を這い回る時に、ズルズル音がするようになってきた」
夫は総菜を口に運びながら、平然と話している。さも、それが当然、とでも言うように。キッチンのカウンター越しに聞いていた私は、声に怒りを滲ませて言った。
「ねえ。ほんと、何言ってんの? 床下? ここマンションの6階なんだから、床下なんてあるわけないじゃん。下らない事言ってる暇あったら、さっさと食べてよ。私は明日も朝ヨガだし、こんな夜更けに、あなたのつまんない冗談なんかに付き合ってる暇ないの。自分だって、明日も朝から仕事でしょ?」
メガバンクでシステム担当をしている夫は仕事漬けで、夜は遅く、朝は早い。高校の同級生だったこの人と結婚して3年。同窓会で10年ぶりに会って半月足らずの電撃結婚だったが、子供もいない私達は、もう既に単なる同居人になっていた。私はむしろそれでいいけど。夫には、もともと恋愛感情なんてない。私は、お金さえ稼げれば結婚相手は誰でも良かったし、出産や育児にも興味なんてなかった。
私の不機嫌な返答に、彼は眉を寄せて言った。
「朝ヨガって……また新しい習い事かよ?」
「ヨガくらい、いいでしょ? 私はいつも、こうして夜遅くまで起きてご飯出して、掃除もして家計のやりくりだって……」
「ああ、分かった、分かったって。もういいよ。俺疲れてるから、風呂入って寝るわ」
夫は面倒そうにリビングのガラス扉を出て行った。私はおかしいと思ったものの、たいして気にも留めず、それ以上は追及しなかった。
しかし翌日。飲み会帰りで23時過ぎに帰宅した夫が、笑顔で「んぽぽん様の飯だよ」とビニール袋を差し出した時には、私は我慢できずに叫んでいた。
「いい加減にしてよ! 何言ってんのよ、あなたおかしいよ、やっぱり!」
すると夫はきょとんとして答えた。
「何が? おかしいのは
言いながら、夫は部屋の隅に行って床に座り込み、ガサガサと深夜営業のスーパーのビニール袋を開けた。生肉だ。パックに半額のシールが貼られた、色が変わりかけた小さな塊肉。夫はそれを、ラップを取ってトレーごと床に置いた。
「んぽぽん様。お待たせしました。どうぞ、お召し上がり下さい」
「何してんのよ! ほんとやめてって! 忙しすぎて変になっちゃったんだよ! 病院行こう、病院。明日、絶対!」
私が青ざめて叫ぶと、夫は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「俺は正常だよ、どこからどこまでも。仕事だって順調だし、心身ともにすこぶる健全。それよりお前さ、明日からは、んぽぽん様の飯忘れんなよな」
夫は笑いながら寝室へと消えて行った。私は、生肉のトレーを速攻でゴミ箱に投げ入れる。
翌日の昼、私は夫の職場に電話を入れてみた。今の時間なら、夫は昼食をとるために外出しているはず。私は架空の取引先名と名前を使って、電話口に出た人に告げた。
「お世話になっております、
宮岡康介。夫の名前だ。電話口の女性は『少々お待ち下さいませ』と言って保留にしたが、案の定、暫くして『生憎、宮岡は外出しておりまして。ご伝言承りましょうか?』と言ってきた。私はほっとして、いちかばちかで聞いてみる。
「あの。こちらシステム部ですよね? もし宜しければ教えて頂きたいのですが。宮岡さん、最近少しお具合が悪いのではないでしょうか。先日商談でお会いした時に、随分やつれて、お元気もないようにお見受け致しまして」
夫が会社でも奇行に走っている可能性がある、と思った私の予測は、見事に外れた。電話口の女性は、明るい声できっぱり言い切った。
『宮岡が、ですか? 幸い、最近は以前よりむしろ健康的で、仕事も意欲的にこなしておりますよ! 弊社社員をご心配頂きまして、誠にありがとうございます』
若い女性の声が遠く聞こえる。私は『もしもし? 田中様?』という声を聞きながら、無言で電話を切った。そして、午後の陽ざしが差し込むリビングを飛び出し、エレベーターの5階のボタンを押した。
「下の部屋を見に行ってみよう……もしかしたら、何か、あいつの妄想が始まった原因があるかもしれない」
うちの真下の部屋には表札が出ていなかった。玄関ポーチに、小さい子供用の三輪車が置いてある。私は思い切ってインターホンを押した。ややあって、女性の『はい』と言う訝し気な声がインターホンから聞こえた。
「あっ……すみません、怪しい者じゃありません。あの、私、上の階の住人ですが」
しまった、何も考えてなかった。私は急いで、適当な理由を捻りだす。
「あのっ! 先程、ベランダでタオルを干していたら、風で下に飛ばされちゃって。お宅のベランダに落ちたみたいで」
女性は『ああ』とほっとしたように言い、少しして玄関ドアが開いた。長い黒髪の、陰気な若い女性だ。足元に小さな男の子がまとわりついている。私は急いで頭を下げた。
「いきなりごめんなさい。私、この真上の部屋に住む宮岡です。うちのタオルがお宅のベランダに落ちたみたいで。違ってたら、すみません」
「いえ、いいですよ。……良かったら、ベランダ一緒に見てみます?」
「えっ! いいんですか。じゃあ、お言葉に甘えて」
私は図々しくも家に上がり込む。すみません、と恐縮したふりをしながら、さりげなく天井を見上げたが、特に異常はない。
(何もない……に決まってるじゃん! 私も馬鹿だよ、あんな妄言を気にするなんて)
ほっとしつつも、さりげなく、この部屋の住人である女性に聞いてみる。
「ここ、いいマンションですよね。駅から割と近いし、新築なのに値段も控えめだったし。壁や……天井からの物音なんかも、何もしませんよねえー」
女性は微笑んで頷いた。
「ええ。静かですよね。うち、小さい子がいるから、うるさくありませんか? 音って上に上がるって言うから、気にしていたんですけど」
「いいえ! 全然、何も聞こえませんよ」
それは事実だ。階下の音など、気にもならない。子供が住んでいたことも、今初めて知った。夫が、んぽぽんの物音、とか言ってたのも、この男の子の動き回る音だったとか? 母親に似て大人しそうだが、子供なら、床を寝転んで暴れたりしていそうだ。彼女は私の返答に微笑んだ。
「そう。それは良かった。……ごめんなさい、タオル、無いみたいですね」
彼女はベランダを見回してそう言った。私は、当然だよ、と内心頷きながら、とぼけて言った。
「ああ、本当ですね! すみません、違うお宅に飛んで行っちゃったのかも。お騒がせしましたあ」
と言って、そそくさと家を出る。背後で玄関ドアが静かに閉まった。
結局、夫の妄言の原因については何も分からなかった。夫は、家にいる間中、部屋の隅っこに座って床にブツブツ何か言っている。とはいえ毎日出勤しているし、勤務先からの苦情も来ない。給料さえ入って来るなら、私に文句はない。私は、こちらに話しかけても来ない夫を無視し続けた。
だが1か月が過ぎた頃、夫が「んぽぽん様に」と笑顔で巨大な誕生日ケーキを買って来た時には、私は遂に頭を抱えて叫んでいた。
「いい加減にしてー!! あんたがそこにいると、頭がおかしくなりそう!! ねえ、一体何が不満なの?! 正直に言ったらどう! 結婚してすぐにあたしが浮気したこと?! それとも去年、あんたに内緒でカードの限度額まで買い物したこと?!」
ヒステリーを起こす私を夫は平然と見つめていたが、その瞳はガラス玉のように無感情だった。私は叫び過ぎて息が苦しくなり、言葉を切った。しん、とするリビングに、夫の調子外れの声が響く。
「終わった? じゃあ、んぽぽん様の誕生パーティ始めようか!」
その不気味な笑顔に、私は支離滅裂な言葉を喚きながら、玄関から飛び出していた。
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