23.晴くんってさ
へとへとになりながら、俺はなんとかマンションの足場を下りていく。体中のあちこちをぶつけて、皮膚がヒリヒリと痛む。
養生シートを潜り抜けて、俺の目に眩しい日差しが当たる。
見上げると、そこには動きの止まった巨人がいる。晴くんがお父さんを救い出してから、巨人はまるで自らの役目を忘れてしまったみたいに、ずっと動かない。自分のやろうとしたことを、悔いているようにも見える。
そして、川の堤防には、晴くんとそのお父さんが二人並んで座っている。二人の背中を見て、割って入るようなことはできないと思い、俺は茂みの前でことが収まるまで待つことにした。
草むらの上で、俺は座り込む。そしてとっさに、お前もこちら側か、と晴くんのお父さん、いや、巨人に言われたことを思い出す。一体何が、こちら側なのか。晴くんが見えることか。巨人が見えることか。それとも……。
考えたくなくて、俺は体育座りをして膝に顔を埋める。胸がずきずきと痛む。俺のしていること、しようとしていることは、一体……。
+++
「近所にさ、藤棚が綺麗な公園あったじゃん?」
「うん。あったな」
今になっても、お父さんと話す雰囲気が変わらなくて、それが心地よくて、僕は人間の頃に戻ったみたいに気楽に話す。
僕とお父さんは、まるで人生の大半を水の中に投げ捨てちゃったみたいに、一緒に河川敷の堤防に座って、対岸を見つめている。絆創膏を貼った頬に風が当たって、気持ちいい。
「そこでさ、神隠しにあっちゃったんだよね。カミサマに言われたのさ。『人間とうまくやれないなら、俺のところで働かないか?』ってね」
参っちゃうよねって感じで、僕は話す。お父さんは、なんだかやっと合点がいったように笑う。
「なるほどなー。晴はその提案を受け入れたわけだ」
すこしだけ、どう返していいかわからなかった。お父さんの声色に、納得と、諦めと、後悔と、清々しさが同時に混ぜ込められているような、そんな気がしたからだ。
「うん」
「晴にとっては、今の方が楽しいのか?」
「そうだね」
「そうか」
お父さんは、否定も肯定もしない。
「父さんはさ、なんでこんなことになってるの?」
僕は動きが止まった巨人を見上げながら言う。鉛筆をぐりぐりと動かして描いたような真っ黒な巨人の目は、遠くを向いている。だけれど、焦点が合っているようには見えなかった。
僕は、こういった深刻な時に、的はずれな態度ばっかりとる。悲しみとか寂しさとか、そういったものが全くわからないから。僕はどう言う感情になればいいのか、よくわからない。
駅でお父さんを追いかけようと思ったのは、ただ単に巨人の瘴気を発した個体に責務として反応しただけなのか、それとも、もう一度家族と会ってみたかったからなのか。
難しい。自分の気持ちを定めるのって。
そして父さんは、まるで自分を貶めるみたいに笑ってこう言った。
「離婚したのさ。母さんとな」
僕の問いの返答には、この言葉だけで十分だった。胸の中に、握り拳くらいの大きさの石が埋め込まれたみたいに、僕はなぜか、何も言葉を発することができなかった。
「そうなんだ」
少しの間、僕たちの間を、街の生活音が優しく邪魔をした。
どう言えば良いんだろうか。
僕は、初めて、謝りたいと思った。人としての礼儀作法なんてどうでもよかったくせに、今になって、何にも取り返しのつかないこんな時期になって、僕はそう思ってしまった。
これは、僕が勝手に消えたから起こったことだ。
「そっかー。晴はもう、俺の知ってる晴じゃなくなったんだな」
お父さんはそう言う。
「ごめんな。もっと上手くやれたかもしれないのにな」
僕は、お父さんに謝られる。謝りたいと思ってしまったのは、僕の方なのに。
「晴はさ、今は晴には晴の仕事があんだろ?」
「うん」
「それで、よかったと思ってるのか?」
「……うん」
僕は、ずれたことばっかり言う。
「そうか。じゃあ、そろそろお前はもう行くんだろ……?」
「そうだね。一つの場所には、留まれないから」
そう言われて、僕は立ちあがる。風が吹く。もっと、僕には、言うべきことが他にあるはずだ。
「幻でも、晴と会えてよかった」
父さんは、そう言う。僕とは違って、父さんは、人間社会でうまく生きる方法を知っている。
お父さんが、後悔はないみたいな顔をして、僕の方を見上げる。嘘だ。だって、巨人はまだ止まったままだ。もっと、何かあるはずだ。少なくとも僕が言うべきことはあるはずだ。
人の礼儀作法なんて信用できない。ありがとうとかごめんなさいとか、皆、信ぴょう性のない言葉ばかり使う。人としての感情なんて未だに分からない。だけれど、今は、今だけは、こう言うべきなんじゃないかと、思う。
「僕も。今までありがとね。父さん」
少しだけ、僕が削れていくような気持になる。あんなに、人の礼儀なんてわからなかったくせに。
お父さんは、目を見開いて、僕を見る。口が少しだけ開いて、閉じる。そしてまた、お父さんは前を向いて、口角を上げる。
「そうか。お前も、変わってくんだな……」
途端に、巨人が小さいボールみたいに圧縮され、大きな音を立てて爆発した。見上げると、途方もない晴れた青空だけが、僕らを覆っているのが分かる。爆風が、僕らを靡かせる。
――ありがとうとかそういう言葉って、受け取ったら結構嬉しいもんなんだよ。
お父さんの言葉を思い出す。きっと、僕の心は、削れたんじゃない。分け与えられたんだ。なんだか、そんな気がする。
+++
猛烈にデカい爆発音が聞こえる。晴くん、終わったんだね。俺は瞬時にそう思う。
俺は立ち上がって、マンションの敷地内を出て、歩道に入る。川の堤防を見上げると、晴くんがこっちに歩いてくるのが分かる。咄嗟に、俺は手を振る。晴くんは、走って俺の方へ向かう。
「お疲れさん、晴くん」
なんだか清々しい気持ちになって、俺はそう言う。
だけど、晴くんは俺の前で立ち止まって、無反応だ。
「な、なに……? だんまり?」
「あっ、いや……えっと」
晴くんはなんだか、あっちこっちに視線を向けながら、上手く言葉が出てこないようだった。こんな晴くんを見るのは、初めてだった。なんだか俺は面白くなって、腕を組みながら言う。
「なんだよ晴くん。話はつけてきたんでしょ?」
「まあ、そうなんだけど……」
俺と目を合わせたり、逸らしたりして、そして迷いに迷った後に、晴くんは心の準備でもしたのか、こう言った。
「その……あっ、ありがと……。手伝ってくれて」
恥ずかしそうに、晴くんは言う。俺はちょっと、晴くんのことが可愛いなと思う。だって、あんなにあたふたした後に出てきた言葉がこれだなんて、どんだけ不器用なんだって話だよ。
そうか。晴くんは、そう言いたかったんだね。
「ねえ、晴くん」
やっぱり俺、晴くんのことが好きだ。
「な、なに……」
「晴くんってさ、まるで自分の事を人間が分からないロボットみたいに言うけどさ、晴くんの思ってるより、そんなに冷たいやつでも、人のことが分からないやつでも、何でもないと思うよ」
「えっ、な、何急に……」
晴くんは予想だにしない事を言われたからか、頬を赤らめて俺と目を逸らす。
そんな晴くんが可愛くて、面白くて、俺は晴くんの手を取る。晴くんは戸惑いを隠せてない目を俺に向ける。心臓がバクバクと高鳴る。
「ほら、行くよ。晴くん!」
「えっ、あ、うん」
「なにコミュ障みたいになってんだよ。晴くんのせいで旅程大崩壊したんだからな! 次の宿泊で調整しないといけなくなっちゃったわ」
俺は久しぶりに上機嫌になりながら、晴くんの手を引っ張って道を戻る。
「ご、ごめん」
謝る晴くんに、俺は振り返って言う。
「いいんだよ。全然。晴くんの事、めっちゃ知れたし」
この出来事は、思わぬ大収穫だった。こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。こんなに他者を好きになったのは、いつぶりだろう。
そう思いながら、俺達はまた、東京のあきる野市を目指して駅へと歩き始めた。
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