東京編
15.いつかの波の音
ずっと遠く。誰の目にも届かないところへ行きたい。
水平線は、俺の心に応えようともせず、ただ空と海を隔てている。お前の勝手にしろ。そう言われている気分だった。
昔から、地図や路線図の把握は得意だった。ずっと部屋に籠って辿れもしない旅程を練る日々を過ごし、結局俺は、俺の手元にあるお金で、使えるだけの交通機関を使うしかなかった。人生の全てを投げ出そうとするような、無計画な旅だったことを覚えている。
俺は海岸沿いの歩道を歩く。錆びた白色の柵が地形に沿って建てられており、決まった道しか歩けない俺が嫌になる。
そう思っていると、どこかから汽笛が鳴った。
こんなの、記憶にない。
あたりを見回しても、船らしき船はどこにも浮かんでいない。
そうか。俺は……。
気づいたら、俺は目を開いていた。狭い二段ベッドの部屋の中で、ただ箱の中に入っているという感覚がする。夢の中で聞こえていたいつかの波の音は、似ても似つかない別の波の音になって、俺の耳に届く。
そういえば、下の段のベッドで晴が寝ていたはずだ。寝ぼけながらベッドを降り、小さい階段から下のベッドを見下ろすと、布団が異常に綺麗に整えられているのが分かった。まるで、最初から使われていなかったかのように。
もしかしたら、今までの晴との記憶は全部妄想とか夢とか、そういうものだったのかもしれないと思うと、変な汗が湧き上がってくる。元々は、一人旅の予定だったし、晴がいてもいなくても良かった。それでも、あの仙台での巨人の事とか、翔太とのこととか、晴がいないと自分を保てない時が、沢山あった。今、晴がいないと思うだけで、一人で海の上に浮かんでいる俺が、とても脆いものに思えてくる。
いてもたってもいられなくなって、俺はシャツと短パンのまま外に出た。廊下を抜け、展望デッキへと歩いてみる。
「さむっ……」
外の空気は少しだけ霧がかかっていて、太陽は上がったばっかりだった。澄んだ空気の中に潮の匂いがして、心が少しだけ落ち着く。
展望デッキには、柵に肘を預けて海を眺めている晴がいた。
「あ、晴くんいた。いなくなったかと思った」
俺は安心してそう声をかける。晴は振り向いて、ちょっと微妙に明るくなりきれないような顔をした。そりゃ、昨日にあんなに盛大なカミングアウトをしてしまったから、こんな顔されたって仕方ない。それでも晴は、俺が頼りたいと思えるようなカッコいい笑顔をする。
「おっはよりゅーくん」
「おはよ。ベッドめちゃくちゃ片付いてたからビビったよ」
どこかからうみねこの声が聞こえる。太陽の真っ直ぐな光を分散させるぼやけた空気に、それは広がっていく。
「あー。そっか。僕、寝相悪いもんね」
「だよね。整頓するタイプだったかなって」
晴くんが話しづらいと思ってるのか、俺がどう話したらいいか迷っているのか。なんか、会話がぎごちない。
「この前の万引きまがいもそうだけど、僕が現実世界に干渉したものってね、ある程度時間が経つと、なかったことになるんだよね。だからこの前に菓子パンを万引きしたことも、さっきベッドで寝てたことも、なかったことになるんだよ」
晴は、寂しくともなんともなさそうな声で言った。晴にとっては当たり前の事かもしれないけれど、俺にとっては、それはとても寂しいことだと思った。
「え、それってさ、晴くんにかかわった人も、晴くんの記憶がなかったことになるの?」
「そうだね」
普通のテンションで言う晴に、俺は鳥肌が立った。
「じゃ、じゃあ、翔太の中の記憶も……」
晴君は俺の方を振り向いて、ちょっと驚いたように瞼を上げ、また海の方を向いた。
「そうだね、時間が経ってゆっくりゆっくり、僕との記憶だけが消されて、りゅうくんと二人で一緒に過ごした記憶に変わっていくだろうね」
風で晴の髪とフードが靡いて、晴との距離が少しだけ遠くなった気がした。
俺の脚と腕が冷えていく。
「それってさ、寂しくないの?」
俺はそう訊いた。
「僕がそれを寂しく思うような人間なんだったら、こんな傍観者なんて仕事してないよ」
当たり前のことのように放たれた晴の言葉が、怖いくらいにスンと腑に落ちた。晴は一体どんな気持ちで傍観者になって、この仕事を続けているのだろう。俺は晴君のことを、何も知らないなと改めて思う。
霧が開け、太陽の明るい日差しが、カーテンを開けるときみたいに俺らを照らし始め、海の向こうのシルエットを明確にする。フェリーの進む音が一層クリアに聞こえ、夢の中にいるような気分から解放されていく。
「お、陸地が見えてきた」
俺も晴と同じように、柵に肘を預ける。うっすらと白いビル群のような輪郭が見えてくる。次の目的地は、そのずっとずっと奥だ。
今はただ、俺達は東京湾の真ん中で浮かんでいた。
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