第98話 デリュガン
アルマークは、床にランプを置くと、じりじりとデリュガンから距離を取る。
愛用の長剣を持っていても、勝てるかどうか分からない魔獣だというのに、今のアルマークは丸腰だ。
デリュガンは、アルマークをその赤い濁った目で見据えた。
アルマークは知っている。
あの赤い両目の下、刃のような毛並みに隠れた場所に、デリュガンはさらに二対の目を持っている。
目と呼ぶにはあまりに醜悪な形状をした器官だが、その働きからすれば、目と呼ぶ以外にないものだ。
デリュガンは、口をゆっくりと開いた。
開く、というより、歪めた、という表現のほうが正確かもしれない。
犬や狼であればまず不可能な顎の動きで、デリュガンは奇妙に口を開けた。
その口から、不快な音が漏れる。
鳴き声のような、異界の言葉のような醜悪な音。
人間の感じる不快を全て集めたような、その音に、アルマークの全身が総毛立つ。
デリュガンが、音を発しながらゆっくりと立ち上がる。
やはり、相当小柄だぞ。
アルマークは思った。
北の森で出くわしたやつは、四つ足で立ち上がった時点でアルマークの背丈を越えていた。
しかし、今目の前にいるやつは、アルマークの背丈にはるかに及ばない。
やや大きな狼程度の大きさしかない。
デリュガンが、自らの右前足をそっと持ち上げる。
その瞬間、アルマークはとっさに右横に身体を投げ出した。左から凄まじい風圧を感じる。
さっきまでアルマークが立っていた空間をデリュガンの爪が抉っていた。
こいつらが人間を襲うのに、理由はない。
ひたすらに、その爪で、牙で、刃のような体毛で、人間を切り刻むのだ。
アルマークはそのまま転がって距離をとって起き上がる。
ゆっくりとアルマークを見たデリュガンが、再び口元を歪めた。
「!!」
再びアルマークは飛び退き、ぎりぎりでデリュガンの爪をかわす。
この凄まじい速さ。緩と急の著しい落差。それがデリュガンの恐ろしさの一つだ。
どうすればいい。
最初の動揺から立ち直って、アルマークは必死に頭の中で計算する。
丸腰でデリュガンを倒せる確率は、万に一つもない。
アルマークが生き延びるには、あの木の扉をくぐって逃げるしかない。
なんでこんなところにデリュガンがいるのか。そんな疑問は二の次だ。
とりあえずこの場を生き延びて、その後で考えよう。
アルマークは階段の上で待っているモーゲンのことを考えた。
大声で叫べば、モーゲンに聞こえるだろうか。
助けを。せめて僕の部屋から長剣を。
その瞬間、アルマークは横っ飛びに飛び退いたのだが、わずかに反応が遅れた。
爪の一撃はかわしたものの、その刃のような毛まではかわしきれずに右肩を切り裂かれ、血が飛び散る。
デリュガンは、素早く起き上がったアルマークにゆっくりと向き直る。
ダメだ。
アルマークは思った。
人の助けを期待すれば、自分の中の生き延びようとする感覚が鈍る。
自分と目の前の相手以外のことに意識を向けるのは、今は命取りだ。
モーゲンのことはひとまず忘れよう。どうせ、この深さでは声も届きはしない。
アルマークは覚悟を決めた。
この空間を脱出する唯一の出口である木の扉は、今アルマークとデリュガンのちょうど中間あたりに位置していた。
扉は、こちらからは押して開けることはできない。引いて開けなければならない。
扉に体当たりして向こうへ転がり出る、という芸当ができない以上、脱出作戦は二手順が必要になる。
第一に、あの扉に近づき、取っ手を引いて開ける。
第二に、そこを通って隣の地下室へと脱出する。
おそらく、第一と第二の間にデリュガンの攻撃を受けるだろう。それをいかに扉から離れずに捌くことができるか。
デリュガンの首がゆらりと動く。
来る。
アルマークは横っ飛びにデリュガンの爪の一撃をかわす。
今だ。
扉に駆け寄る。
左手で扉の取っ手を強く引く。
扉はびくともしない。
「なっ」
なぜ。
その一瞬の驚愕が致命的な隙を生む。
しまった。
後悔とともに、デリュガンを見る暇もなく横に飛ぼうとする。
が、遅かった。
デリュガンの爪がアルマークの服を引き裂く。
胸から血を飛び散らせながら、刃のような体毛をかいくぐり、距離を取る。
デリュガンが口をぐちゃりと歪める。
笑ってやがる。
アルマークはぺっと唾を吐いた。血が混じっている。
さっきあんなに簡単に開いた扉が、なぜ今はびくともしないのか。
きっと何か理由はあるのだろう。
だけどそれは今はどうでもいい。
生き延びるための方法を考える。
デリュガンがゆっくりと一歩前に踏み出す。アルマークは横に飛んだ。
爪が空を切り、デリュガンはまたあの奇声をあげる。
もう一度。
アルマークは床に身を投げ出してデリュガンの攻撃をかいくぐる。
デリュガンは口を歪めて奇声をあげる。その声がさっきよりも大きい。
いらだってるんだ。
アルマークは思った。
ちょこまかと逃げるな。諦めて絶望しながら死ね。
大方そんなことを言っているんだろう。
アルマークはデリュガンに向き直る。
集中しろ。
集中しろ、アルマーク。
生きるんだ。
デリュガンが、ふしゅ、と息のようなものを吐いた。その口からギザギザの牙が覗く。
来い。
アルマークはデリュガンの動きに全ての神経を集中した。
前足の爪が、石の床で、小さな音を立てる。
来る。
アルマークはデリュガンが飛び掛かってくるのを見た。
しかし、動かなかった。
歯を食い縛って、恐怖に耐えた。
デリュガンが一瞬で目の前に迫り、その顔が醜く歪むのを見た。
刃のような毛並みの下にある醜悪な二対の目が、どろどろとした粘質の涙を流しながらアルマークを見つめているのを見た。
そこまで引き付けてから、アルマークはデリュガンに向かって飛んだ。
体勢を低くしてその腹の下に飛び込む。
身体中の至るところを切り刻まれる感覚とともに、デリュガンの背後にまわる。
それと同時に、大きな衝突音がした。
アルマークのすぐ背後には、木の扉があった。
アルマークはデリュガンの攻撃をぎりぎりまで引き付けることによって、デリュガン自体で扉を破壊することを狙ったのだ。
血まみれの顔をあげたアルマークは、しかしその作戦が思わぬ結果を生んだことを知った。
デリュガンは木の扉を破壊して、そのままそこに嵌まってしまっていた。
刃のような体毛が災いし、それらが壁に複雑に食い込み、簡単には抜け出られなくなっているのだ。
もがくデリュガンの背後から、アルマークは素早く近付く。
デリュガンの膂力を考えれば、どうせすぐに抜け出てしまうだろう。
いずれにしても、このままここにデリュガンにいられたのでは通り抜けることはできない。
デリュガンが身体を抜いた瞬間が脱出のチャンスだ。
その時、アルマークはデリュガンの背中に、刃のような体毛に埋もれるようにして木の棒のようなものが刺さっているのに気付いた。
なんでこんなものが。
そう疑問に思うよりも先に、アルマークの体は動いた。
武器になるかもしれない。
戦場では、使えるものはなんでも使う。それは傭兵として培われた本能だ。
アルマークはとっさにその棒を掴んだ。
力を入れて引き抜く。
その瞬間だった。
デリュガンの背中からまばゆい光が溢れだした。
周りの一切が白く染まるほどの凄まじい光。
なんだ、と狼狽えたその一瞬後。
その光に包まれて、アルマークは意識を失った。
気が付くと、アルマークは地下室にいた。
ぼんやりと立っている自分に気付き、慌てて全身を確認するが、かすり傷一つ負っていない。
デリュガンは。
いない。
奥の壁を見ると、間違いなくあったはずの木の扉が、ない。
「そんなばかな」
アルマークは壁に駆け寄り、手で触って確かめたが、そこはやはり単なる壁で、扉の痕跡は影も形もなかった。
その代わりかのように、壁際に木箱が置かれていた。
中を開けると、道案内の看板や木材が入っている。
マイアさんが言っていた箱は、これに違いない。
アルマークが持ち上げようとすると、木箱は傷んでいたのか、底が斜めに歪み、中の木材が隙間からぼろぼろと床に落ちた。
「ああ、もう」
アルマークは床に散らばった木材を慌てて拾い集める。
もともと色々なものが乱雑に置かれていた床だ。
どれが元々の木材で、どれが違うのか、もうよく分からない。
とりあえずそれっぽい木材は全て木箱に入れ、アルマークは慎重に底を持って持ち上げる。
……ここは魔法学院だ。おかしなことも起きるさ。
アルマークは無理に自分を納得させた。
木箱を階段の一段目に置き、地下室に戻り、燭台の火を吹き消す。
真っ暗になった地下室を出るときに、アルマークはふと思った。
そういえば、僕はランプをどこに置いてきたっけ……。
階段の上から、モーゲンの心配そうな声が微かに聞こえてくる。
まあ、いいか。ここは魔法学院だ。
アルマークは大声でモーゲンに返事すると、木箱を持って慎重に階段を上がり始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます