第65話 涙
車窓の外を飛ぶように景色が流れていく。
ガルエントルに着く直前、御者が馬にムチを入れたときの馬車も速かったが、今の速度はその倍以上だ。
「さすが白馬車……」
モーゲンは最初にそう言ったきり、飽きずにずっと外を眺めている。
アルマークたちの乗った白馬車が飛ぶように走る王の道。
レルブダからガルエントルへの道もそれなりに広く、乗り合い馬車二台がすれ違える道幅があったが、この王の道の幅はその倍以上。
普通の乗り合い馬車の二倍の大きさを持つ白馬車の専用車線があり、それ以外にも馬車や騎馬、徒歩の旅人が行き交っている。
「ずっと外を見ていても飽きないよ」
とモーゲン。
「そうだね」
と言いながらアルマークも窓の外から目を離さない。
「今日はボーラっていう街に一泊するらしい。ウェンディに会ったときに汚い格好じゃかっこ悪いから、宿に泊まってちゃんと身体をきれいにしよう」
「そうだね。野宿明けで会うのはちょっと臭いしね」
モーゲンが頷く。
二人の心は早くもミレトスのウェンディのもとに飛んでいた。
ミレトスの街。
ガライ王国の北に広がる広大なバーハーブ領の南の中心地だ。
街の規模は、バーハーブ領の政治の中心地ネビアや、経済の中心地リノベスに劣るが、綺麗に区画された街並みと、小高い丘の上に建つバーハーブ家の通称「冬の屋敷」と呼ばれる館はガライでも屈指の優美さと言われている。
その「冬の屋敷」、バーハーブ家の冬の別荘として使われている館に、今ウェンディはいた。
ウェンディは、広いがらんとした自分の部屋の中で、たった一人きりだった。
読んでいた書物をぱたん、と閉じて、はあ、とため息をつく。
ミレトスの屋敷に着いてからもう9日が経つ。ウェンディはウォードの差配により、中庭にすら滅多に出してもらえない日々が続いていた。
せっかくの休みなのに、夏の陽射しの下で走り回ることもできない。
窓からは強い陽射しが入ってくるが、その輝きはかえってウェンディに、自分が籠の中の鳥であることを強く意識させる効果しかなかった。
休暇をガルエントルで過ごせたなら、色々と行きたい場所もあったし、会いたい人もいた。買いたい物もあったし、毎日どこかで何か催し物もやっていた。
けれど、父の命令でミレトスに戻らされてからは、やることもなく、読書や勉強だけをして過ごす日々だ。
近くの草原を馬で走ったり、湖の見える丘へピクニックに行ったり。せっかくミレトスに来たのでそういうことをやろうかとも思ったのだが、ウォードが顔色を変えて反対した。
「お嬢様はお命を狙われておるのですぞ。屋敷の外へ出るなどもってのほか」
ウォードが、自分のことを真剣に心配してくれていることは痛いほど分かったので、ウェンディもそれ以上強くは言えなかった。
そして、何よりも一番ウェンディを落胆させたのは、アルマークとモーゲンをガルエントルの屋敷に招くことが出来なくなってしまったことだ。
ウェンディにしては珍しく、父の言いつけに反発して何とか少しだけでもガルエントルに残らせてほしい、と頼み込んだのだが、こうと決めたときの父がテコでも動かないことはウェンディにも分かっていた。
連日の嫌がらせによるものだろう、いつもは気丈な母が、一目で分かるほどにやつれていた。
母は帰ってきたウェンディに、あなたが帰ってきてくれて家に光が灯ったみたい、と言ってくれたが、その母にも、ミレトスに行くよう諭された。
いまだ意気軒昂な父に反発はできても、疲れきった母の言葉に逆らうことは出来なかった。
結局父母とは一日しか一緒に過ごせなかった。その日は、二人ともまるでウェンディが赤ちゃんにでも戻ったかのように優しくしてくれた。
その翌日、ウェンディは二つ年上の兄、リチャードに両親のことを頼み、渋々ミレトス行きの白馬車に乗り込んだ。
泣きたかったけれど我慢した。両親をこれ以上心配させたくなかったからだ。
ミレトスに着いてすぐに出した謝罪の手紙は、アルマークとモーゲンに届いただろうか。
ウェンディは考える。
きっとモーゲンはがっかりしているだろうな。
試験前、休暇に家に帰ることができないと分かって、すごく寂しそうだった。思い付きで私の家に来ることを提案したら、すごく喜んでくれた。
何の打算もない、純真で無邪気な喜び方。
貴族の令嬢として育ってきたウェンディにはその反応が新鮮で、嬉しかった。
それだけに、モーゲンにはガルエントルに来てほしかった。彼にまた無邪気に喜んでほしかった。それを見るのが楽しみだった。
許してもらえるかどうか分からないけど、落ち着いたらもう一度謝罪の手紙を書こう。
そう思いながらも、ウェンディは二通目の手紙をまだ一行も書けないでいた。
アルマークは……。
ウェンディはその名前を思い出すと、胸が締め付けられるように苦しくなる。
アルマークは、私の家に来られなくなったことをどう思っているのだろう。
最初から彼はそんなに乗り気ではなかった。彼がもともと休暇中は瞑想の訓練三昧で過ごすつもりなのだということはウェンディにも分かっていた。
分かっていながら、ウェンディはモーゲンに乗っかる形で、アルマークの気持ちに気付かない振りをして彼も家に誘った。
自分の家を彼に見てもらいたかったから。
自分の家族に、アルマークに会ってほしかったから。
何よりも、ウェンディ自身が二ヶ月もアルマークに会えないのが嫌だったから。
誘われたアルマークは困った顔をしていた。
でもきっと彼なら来てくれるだろう、といういやらしい計算があって、ウェンディは寂しそうな顔も作って見せた。
アルマークは優しい笑顔で、行くと言ってくれた。それがすごく嬉しかった。
彼をあんな風に困らせたから、罰が当たったのかもしれない。
それでせっかくの休暇を一人で過ごすことになってしまったのかもしれない。
そう考えるとウェンディの胸は押し潰されそうになる。
アルマークは、手紙を読んで少しは残念そうな顔をしてくれただろうか。
いつもの彼のように、少し笑って、仕方ないよ、とモーゲンの肩を叩いて、それで終わりだったかもしれない。
もうウェンディのことなんてちっとも頭になくて、毎日瞑想の訓練をしているのかもしれない。
こんなことになるなら、最初から二人を誘ったりするんじゃなかった。
それは、ウェンディがミレトスに来てからずっと抱え続けている後悔だ。
自分だけがつまらない休暇を過ごすのは、まだいい。自分が我慢すればいいだけだから。
けれど、期待させてしまったモーゲンに本当に悪いことをしてしまった。
そして、アルマークがもしも手紙を読んでも平然としていたなら、それは彼にとっての自分が、所詮その程度の存在であると告げられたのと同じことだ。
事実、今の彼の気持ちがそうだったとしても、まだそこまで白黒をはっきりとつけてほしくなかった。
もう何度目になるか分からないため息をついたウェンディは、窓の外に見える中庭をゆっくりと歩いてくる二つの小さな人影に気付いても、それが何を意味しているのか最初は分からなかった。
見覚えのある二つの人影。
どこで見たんだろう。なんだか、アルマークとモーゲンみたいに見える。
二人はゆっくりと自分のいる館に近付いてくる。
二人で歩きながら何か話して、笑っている。
それが現実だと認識できなかった。
だって、そんな訳はないのだから。
彼らは今、ミレトスから遥か遠く、白馬車と乗り合い馬車を乗り継いで四日もかかるノルク島にいるのだから。
こんなところまで来てくれる訳がないのだから。
「お嬢様! ウェンディお嬢様!」
階下からウォードの声が聞こえてくる。あんな明るいウォードの声を聞くのは、何日ぶりだろう。
「ご学友が、アルマーク殿とモーゲン殿が見えましたぞ!」
嘘だ。
嘘に決まっている。
そう思おうとしたが、その言葉を聞いた途端、ウェンディの目から、もっとずっと前に流れるはずだった涙がこぼれ落ちた。
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