三章 終末王の戴冠

第9話 本の墓場

 ●


 雨が降っている。

 秋の日暮れ、雨空の黒い雲で、ひと足早い夜の間際。風のない冷たい雨は、まっすぐに地面を穿つ。

 摩耗した古い石畳を均す大粒の雨が、素肌を叩いて滑り落ちる。

 人通りは無かった。扉ごしの灯りも遠く、廊下の奥がうっすらと灯るだけ。


 あの日は、陰気な夕暮れだった。


 土臭い湿った空気を吐き出して、ジジは目の前の建物に侵入した。

 ジジら魔人に呼吸は必要ない。それでもジジが本能的に呼吸をするのは、人間の模造品として作られたからだ。なんのために? 『人間の代わり』をさせるためか? いいや、違う。『人間に出来ないこと』をするためだ。


 ジジは空気に融けることができる。

 目に見えないほどに極小の粒。そのひとつひとつが『ジジ』になる。黒霧のようなその身体は、空気に広がって見えなくなる。こんな暗い雨の日なら、なおさらだ。

 地下二階に存在するその施設は、予想よりもずいぶん清潔だった。照明はけちっているのか、電球が丸見えの粗末なものが、廊下にまばらにあるだけだったが、ここにふさわしい人間には妥当だろう。


 入口から三つ目の錆ひとつ無い鉄格子の向こうで、そいつはボンヤリと、高い位置にある小窓から雨を見ていた。ジジが鉄格子越しに姿をあらわすと、彼は億劫そうに振り返り、なにも言わずに顔をしかめた。


「……寒くないのか? 」

 ジジが何も言わないでいると、まだ子供の名残りのあるガラガラ声が言う。

「……キミこそ、一晩で風邪ひいたんじゃあない? 」


 ジジが返した言葉に、ソイツは「そういえば、ここって冬は暖房入るのかな」とトンチンカンな疑問を呟いた。

 ジジの服から滴った水が、床に黒い水たまりを作っている。


「どうしてボクを助けたの? 」

 ソイツは不思議そうな顔をした。

「そんなこと聞きにきたのか? 危機感ねえなぁ。早く外国にでもなんでも逃げると思ってた」

「早く答えて。そうすればボクはすぐにでも逃げる」

「そんなのが気になるのかよ。変なの。そんなの、成り行きだよ。あんたはラッキーだった。それでいいじゃないか」

「……成り行きなわけないだろ。アンタみたいな普通の子供が、ボクみたいのに関わるのが、そもそもオカシい……! アンタ、いったい何なんだ。ガキのくせに……! 」


「おれって、ふつうの子供に見えるのか? 」

 ソイツは今度は驚いた顔をして、時代錯誤に長い後ろ髪を掻きながら少し笑った。


「そりゃ良かった! 」

 そう喜ぶ、眼だけが笑っていない。


 嫌味なほど知っている目だ。身に覚えがありすぎる眼だ。何かを悟っている眼だ。

 ……何かのために、何かを諦めた眼だった。

 ああ、たしかに。コイツは普通の子供ではない。ジジと同じ、何かに擬態して生きている奴なのだ。

 ……ボクとあろうものが、どうして気が付かなかったんだろう。

 疑問が膨らむ。ジジはその時、抱えていた疑問のひとつの答えを見つけた。


「……ボクはキミに興味がある。だからここに来た」

「さっきのおれの質問の答えか? なんでおれ? 」

「キミはボクの正体を知っただろ。このボクのだぞ。『詐欺師ジジの本性は、こういう顔立ちの、これくらいの子供の姿をした、こういう能力の魔人デス。』それだけの情報に幾らの値段がつくと思う? そんなのはフェアじゃあない。ボクはキミの正体を知りたい」

「それは駄目だ」

 黒い瞳がまっすぐに、あの雨みたいにボクを見つめた。「それだけは駄目だ」


「……なにがそんなにキミを頑なにさせるの。たかだか十四歳のガキが」

「十四歳のガキでも大切なもんがある。おれは死んでも自分でそれを言わないって決めている」

「死んでもなんて、口で言うのは安い」鉄格子の前にしゃがみこみ、ジジはその陰気な黒い目を見上げた。「……その覚悟、ボクに教えてよ。うん、そうしよう。面白い」

「な……っ! 勝手に決めんな! 」


 今度はソイツがたじろぐ番だった。

 チッチッとジジは指を振る。


「だめだめ。もうその気になっちゃった。なぁに、簡単な賭けサァ。期限はここからキミが出るまで。それまでにボクがキミの正体を調べて正解を見つけられたら、キミはボクに……そうだなぁ。ボクには二度と嘘をつかない。これでいこう」

「それ、おれにメリットあんのかよ! 」

「ならキミはボクが負けた時のことを考えればいい。この魔人ジジは、こと人間社会では万能を自負してるんだぜ。ヒヒヒ……どうだい? ボクは知っての通りのアウトロー。なんでもするぜ? キミのメリットのほうがずいぶん大きいと思うけどォ? 」

「げえっ! いらねえ! 」

「楽しいねェ楽しいねェ。けっこうボク、好奇心旺盛なんだよねェ。秘密を暴くのって楽しいねェ。ヒヒヒッ腕が鳴る」

「くっ……! ま、まあ、どうせ無理だな! これに関しちゃ証拠は見つけらんねえからな」

「キミ、語るに落ちるって知ってる? キミのそういう態度が、『僕には秘密がありますぅ』って言ってるんだよォ? 」

「な、あぁっ……! く、くそ! お、おまえ! 」

「うふふ。やっぱオマエ、まだガキだねえ。フフフ……」

「ぬぁ~~~~~っ! 」


 愉快愉快! 涙目で悔しがるクソガキの姿に、ジジの笑いは止まらない。そうだ。ジジが本気を出せば、コイツの口を割らせなくても見つけられない秘密なんて無い。

 でもまあ、少し可哀想かもしれない。コイツはクソガキには違いないが、根は真面目で実直なやつなのだ。


 こんな口約束、それで終わりかもしれないのに。

 ……いや、口約束で終わらせるのはもったいないな。

 ジジは、ちょっと追加をすることにした。


「ふうん? そんなに嫌なら、キミが勝った時の賞品を釣り上げてやろうか。そうだな。せっかく魔法使い相手だし……」

 ゆっくりと視線を巡らせて迷っているふりをする。彼は不安げにその視線を追い、目が合うと気まずげに素早くそらす。もったいぶったジジは、極上に仕上げた笑顔で、彼の瞳を覗き込んだ。


「この魔人ジジの呪文を、キミにあげようかな」

「――――ハァ!? 」


 彼はそれだけ叫ぶと、大きくのけぞって驚いた。予想通りの反応に、笑い声が止まらない。


「な、ななななっ! はぁぁぁああ? ば、ばっ――――かじゃねーのお!? ま、魔人の呪文っていや……魂とおんなじじゃねえかよ! アンタレベルの魔人じゃ、ンなもん怖すぎる! 絶ぇッ対いらねえ! 」

「そんなに拒否されると悲しいなぁ。そろそろマトモなゴシュジンサマがいたらいいかなって思っただけなのに……」

「その媚びた顔をこっちに向けるな! 」

「なら何が嬉しいの? こっちは身を捧げているも同然なのにィ」

「重いんだよ! 俺のことを『ソイツ』とか『アンタ』とか『コイツ』とか『そこのキミ』とか言わなくなるほうがまだ嬉しい! 」

「じゃ、それも付けてあげる」

「ぐぬぬ……! くそっ」


 雨の音さえ忘れていた。

 冷たい地下牢で馬鹿みたいだったけれど、ジジはどうしてか、とても嬉しかった。

 コイツは何か大きなことをしてくれる。ひしひしとそんな予感があった。今思えば、それは模造された人間の感覚とは違う、魔人として備わった本能によるものだったのかもしれない。


「そういや、キミ名前なんだっけ? 」

「サリヴァンッ! 覚えてねエのかよ! サリヴァン! ライト! 」

「どっちが苗字だかわかんねえ名前」

「ほっとけ! 」

「ボクはジジ」


 差し出した手を、鉄格子越しにしぶしぶ握られる。

「……おれは、サリヴァン・ライト」

「もう知ってる」

「おれが今言ったからな! 」

「よろしくサリヴァン。キミって損なくらい律儀だね」

「うるせえ! ぜったいお前なんて引き取らないからな! 」


 鉄格子ごしの握手は、少し暑苦しくて、けれど、どこかワクワクしていた。


 ●


(はじめて知ったな。ボクって、夢を見られる機能があったんだ)

 ジジは、サリヴァンの影の中で目を開いた。


 砂ぼこりで埃っぽくなった床だ。例の青い霧はなく、不思議なことに、なんのほころびも無い石組みの天井が頭上を覆っている。闇の中を落ち、サリヴァンを受け止めたところまで覚えていた。このようすからすると、着地は成功したらしい。

 魔人であるジジが気を失っていたのは、この場所にある何らかのものが影響しているのだろうか。


 たった二年前のことを懐かしいと感じていることに、ジジは笑った。この二年が、それだけ充実していたということだからだ。

 サリヴァンと初めて会ったのは、ジジがつまらない詐欺で小金を稼いでいたころのことだ。そのころのジジは道楽として、小さな悪事を重ねながら、国から国を点々としていた。

 その旅の中で、ジジが魔人だと見破った者はそういない。そのひとりが、いまより少し幼いサリヴァンだった。


 最初の印象は、都会育ちの孤児。運よく人のいい職人のもとに引き取られて、善良に傾いた心を持つ子供。そんなやつがジジの正体に、大人より先に気が付いた。

 生意気な、と思った。意趣返しのつもりで牢屋に入るよう仕向けてみて、しかし少年はまったく『響いて』いなかった。


 こいつは意外に図太いぞ、と気づいたときにはもうだめだった。

 結果として、なぜかジジはここにいる。

 サリヴァンを主人としたときから、その短い生のあいだだけは、自分の目的は忘れることにしていた。だというのに、何百年、何千年と求めていた答えの近くに導かれている。


(これが運命ってやつかよ! )

 皇子の安否など、ジジにはどうでもよかった。笑いだしそうなほど、この冒険をただ楽しんでいた。


「サリー。そろそろ目を覚ましなよ」

 うめきながら、サリヴァンが起き上がる。


「……ここは? 」

「地下だ。そうとしか分からない。ざっと探ってみたかんじ、かなり広い地下室だと思うよ」

「そりゃもう『室』ではないな。……さて」

 サリヴァンは気を取り直すように、ほつれた髪を縛りなおした。


「人の気配はあるのか」

「あるとしたらこの先にある大きな空間だ」

「よし、行こう」

 サリヴァンは先ほどまで意識が無かったとは思えない足取りで、さっさと歩き出した。

 窓はもちろんのこと、扉も何もない回廊が続いていた。ひどく長く、まっすぐに通っている。

 あまりにまっすぐな道なものだから、いくら歩いても出発点だった場所までが見通せた。


「これで突き当りが行き止まりだったらどうする? 」

「広い空間があるんだろ? 」

「うん。でもそこも先がなかったら? 」

「戻るしかないな」


 突き当りは袋小路ではなく、直角に曲がった廊下だった。曲がってすぐに、両開きの二枚扉がある。ドアノブをひねり、暗闇を灯りで照らすと、見渡すかぎり本棚が見えた。


「本棚の森だ」

 ジジが興味深げに覗き込む。「すごく古い本ばっかりだよ、これ」


「『本の墓場』ってやつかもな。どうやっているのか知らないが、最下層には世界中の物語が集められた図書館があるって聞いたことがある」

「そのとおりです」


 サリヴァンはぱっと飛びのいた。

 肩が触れるほどかたわらに、七歳ほどの少女が立っていたからだ。

 大きな金の瞳を、鬱蒼とした睫毛が縁どっている。よく整えられた長い巻き毛をふたつに分けて結び、ふわふわと大きく広がった黒いドレスを着ていた。

 少女は優雅なしぐさでスカートをつまみ、おじぎをした。


「わたしはダッチェス。レイバーン・アトラスの語り部のダッチェス。ようこそ、本の墓場へ。ここはあらゆる物語の終着点。そしてわたしたち語り部の秘密の仕事場なの」


 少女は大人びた勝気な笑顔で、歓迎の言葉を口にした。

「あなたたちのことを待っていたわ」



 ●


 ダッチェスの黒い服の中で、手袋だけが白かった。その小さな手を空にさしのべると、彼女に追従する明かりが灯る。満足げに頷いて少女は天井の暗闇に消えるほど高い、本棚の森の中を、すたすたと歩き出した。


「語り部は運命を見る機能があります。アトラス王家の子が腹にいるとき、我々は集まってその運命を探るのです。どういう気質で、どういうさだめの中を生き、どういう性質を持っているのか。長も短も表裏ですから、悪しき心を宿しやすいと分かっていても、その者を皇帝の候補に選出する場合もあります。語り部にはそれぞれ好みの王がおり、たとえばダイアナは英雄嗜好。トゥルーズなどは、悲劇的なほどの天才肌がお好み。今代はじつに豊作の時代でありました」


 息をきらせることもなく、ダッチェスは子供のコンパスで、おどろくほど速く歩いた。暗闇の図書館は、迷路のように入り組んでいる。棚と棚の間にある隙間はその正面に立たないと分からない。滑るように進むダッチェスを見失わないように、サリヴァンとジジの気が逸った。


「候補者が重複する時代というのは、きまって動乱のきざしです。病、天災、王家の窮地。血を絶やそうと運命が大きく動くのです。だから我々は、末のアルヴィン皇子の選出を見送るつもりでした。一番若いミケが、皇子の魂に惚れこまなければ。……こっちですわ」


「まだなの? 」

「まだです」

 ダッチェスはぴしゃりと言った。魔人二人が、よく似た不遜な顔で睨みあう。


「……我々には、アルヴィン皇子にまとわりつく断絶の運命が見えておりました。どこでどうなるか、具体的なことまでは見えません。けれど殿下の物語は悲劇で終わる可能性が高かった。

 ミケは、それでも良いと言い張りました。我々は、語り部一体につき、九人の主人を持ち、見送ります。ミケはまだ誰の語り部にもなったことがない。栄えある最初の主に、すぐに死ぬような運命の主を選ばなくともいいのにと、皆が思ったものです」

「ミケの好みはどういう魂だったの? 」

「さあ。無垢な子でしたから。語り部は主を世界でいちばん愛すものですが、ミケの主人への愛は深く、力強かった。母親を早くに亡くした皇子の最初の友であり、最良の友であり、保護者であろうとした。時に語り部の誓約から逸脱しそうなほど、心を傾け、献身的であり、皇子のすべてを目に焼き付けようとしていました。ここを右です」


 伸びる影が、ゆらめきながら暗闇に同化し、またあらわれる。ダッチェスの冷たい口調が、それは語り部としてあまりいいことではないのだと示していた。


「『語り部は自己を描写してはならない』『語り部は誰の運命にも介入してはならない』『語り部は真実から逸脱した演出をしてはならない』……これが我々に課せられた誓約のうち、最も重要な一文です。ミケは皇子を溺愛するがあまり、皇子にとっての心の支えにまでなっていた。その結果、あの子は大きな間違いを犯した。ご覧になったでしょう? あのありさまを」

「どのことを言ってる? 」

「見たでしょう? 上で。……頭蓋骨を盗まれたアルヴィン皇子のを」


 サリヴァンは顔を歪めた。

 ジーン・アトラスとの相貌の一致。頭蓋骨を盗まれたというアルヴィン皇子。

「生贄にされたのか」

「さすが、あの方のお弟子様ですわね。察しがよくて助かります」

「死者をよみがえらせるために、いま生きている命を使う。どの時代でも真っ黒な禁忌の術だ。そうして蘇ったとしても魂にきずがついて苦痛がともなう。どうしたって、そんなことを」

「さて。この惨状を成したものどもの思惑はわかりません。けれど、アルヴィン皇子がああなったのは皇子の語り部の不手際です」


 ダッチェスは冷徹に断じた。

「ミケは消える直前に、皇子を生かそうと、自身の銅板を死にゆく彼の体にくべたのです。銅板は材料に万物創造の素たる混沌の泥を含み、鍛冶神の炉で生成されたもの。皇子の骸にくべられた銅板は、求めるがままに形を変えていきました。アルヴィン皇子の最後にあったのは、強く激しい怒りの心。温和で優しい少年が、壊れた心のまま蘇り、暴れている。あの存在そのものが、ミケが招いた悲劇です。あの子は語り部として、あってはならない罪を犯したのです」


 サリヴァンは顔を歪めた。

「うそだろ。それじゃあ、あの姿になっても、皇子はまだ生きてるってことになるじゃあないか」

「そもそも、命とは……」

 ダッチェスは、肩で大きく息をした。


「……いったい何が定義するのでしょうか。あれを生きていると申しますが、もしアルヴィン殿下のご意思が残っていたのなら、自身の手でこの城の壁紙を傷つけることにすら罪悪感を持たれるような、そんな方が、ああも狂乱する自分のことを許せますでしょうか。殿下はそういう方でしたわ」

「……ちょっと。黙って聞いてりゃあ、それをサリーに言ってどうしようっていうの」


 ジジが低く言って、サリヴァンの前に出た。

「哀れな怪物に成り果てた皇子サマを、サリーに始末してほしいって、そう言いたいの」

 ジジは、冷たくさげすむような眼でダッチェスを見下ろした。


「キミは、十七の少年に殺しを依頼するのか? 」

「わたしは語り部ダッチェス。誰の運命にも干渉できない」

「良心に訴えかけたろう。それがフェルヴィンの国宝様のやることかい? 人の善意をあてにするなよ。ここまで来るのだって、サリーがどれだけ」

「ジジ。もういい」

 サリヴァンは片手でジジの腹を抱え、自分の後ろへ押しやった。

「サリー」


「ここに来ると決めたのはおれだ。おれは、そうして自分が見たものをどうするか考えて行動する。……語り部ダッチェス。しかし行動には責任がともなうことも、おれには分かってる。おれは、命の定義は、口にしたい意思が残っているかどうかだと思う」

 サリヴァンの眼鏡の奥の眼が、言葉を探して泳ぐ。


「……おれは、きみたちほどうまくは言えないんだが、世間では魔人を道具と見るし、道具として扱う。でもおれは、ジジやあんたを、ひとつの命だと感じている。これはどんな理屈をこねたとしても、おれの中では揺るぎない事実だ。アルヴィン皇子もそうだ。怒りのままに暴れるのなら、そこには意思がある。おれは、よく知らない人間相手でも、命を奪う責任は負いたくない。なぜなら、おれはその責任を忘れることは一生できないだろうからだ。誰もが正しい行いだったとおれを慰めたとしても、どんなに言葉を尽くされたとしても、おれには善良な誰かの命を奪ったという事実が傷跡として残る。そんな傷を負うためにここに来たんじゃない」


 ダッチェスは目を瞬き、「ふふ」と笑った。

「……いいえ、よくわかりました。そして、ずいぶん無責任なことを言ってしまいましたね。わざと勘違いさせる言葉を使ったことを謝罪いたします。ほんとうは、わたしが耐えがたかっただけなのです」

 おや、とジジは眉を上げた。



「こんなこと、殿下たちには言えませんもの。けれど、上に出れば、きっとお気づきになるでしょう。そのとき真実を知るものが、自分以外にもいてほしかっただけだったのかもしれません。部外者であるあなたなら、真実を前に受ける衝撃は肉親よりずっと軽いだろうという、甘えでした」


 サリヴァンの『うまくない言葉』が、言葉の玄人である語り部から本音を引き出した。善良で誠実であることは、この魔法使いの持つ優れた資質のひとつだった。


「……末っ子のアルヴィン殿下は、お兄様がたとは親子ほども年が離れておいでで……城の皆で育てたようなものですから。あのような……あんまりな結末です」


 語り部は、吐き捨てるように嘆いて、少しの間押し黙った。サリヴァンは静かに目を伏せて祈る。ジジも、その沈黙に何も言わなかった。


「……この先に」

 手袋の手が、奥の闇を指した。

「皇子殿下たちがいらっしゃいます。重ねて念を押しますが、殿下たちはアルヴィン皇子の悲劇をお知りになりません。皇子の語り部たちは存じていますが、主が質問しないかぎりは自分から話すことはないのです」

「つらいなら、おれから話すが……」

「もうお忘れ? 語り部であるわたしがそれを願うことは、誓約に触れますのよ。わたしは真実を口にし、あなたたちは、それを受けてご自分で判断なさるのでしょう? 」


 老獪な語り部は、ぱん、と手を叩いて、一転、華々しい笑顔を浮かべた。

「さあ、これでお話はおしまい。わたしもぐるぐる歩くのに飽きてきたころです。参りましょうか」


「コイツ、わざと遠回りしてたのかよ」

「おいジジ。それはやめろ」

 背を向けて歩き出したダッチェスに向かって、ジジが下品なしぐさで遺憾の意をあらわした。

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