二百

小狸

短編

 書いていた小説が、長短編合わせて合計二百を超えていました。


 だから何だと言われれば、返す言葉もございません。


 いくら書こうとも、いくら面白かろうとも。


 人の眼に触れなければ、人に読まれなければ――それは、小説にはならない。


 読まれて初めて、小説は小説たり得ることができる。


 それが、私の信条です。


 ゆえに、数や質は、問題ではないのです。


 と、そう大言壮語を申しましても、私は別段、小説家を生業なりわいとしているわけではありません。


 いつしか文壇に立つことができたら――などと思い、原稿を書き連ね、出版社へ送ってはいますが、恐らくその先に私の寿命が来るでしょう。


 厳しい事も沢山言われました。


「読む価値無し」という看板を突きつけられ、襤褸が叩いても出なくなるまで批評されたこともありました。


 なかば私は諦めています。


 それでも、いつか報われるのではないかと、淡い期待を抱く、醜い私がいるのです。


 そんな私の言葉など、誰の心に響きましょう、誰の胸に届きましょう。


 手習いで細々と書いていたら、いつしか数が増えて、それが丁度二百を迎えたという――ただそれだけの話でございます。


 私は、己の評価が低すぎるのではないか――とは、知己から良く指摘されることです。


 たしかに私は、私を――ひいては私の作品を、肯定的に見ることはできません。


 どちらかというと、否定しています。


 駄目な箇所、変な部分、おかしな文言、そういった齟齬そごばかりが目につきます。


 それは小説だけに留まらず、私という人格に対しても同じ事がえます。


 どうして生きているのか、どうして人の役に立たぬのか、どうして周りに迷惑を掛けるのか、どうしてまだ死なないのか。


 そんなどうしようもない事ばかり考えてしまうのです。


 私自身が、この世の齟齬なのです。


 生まれてある程度自我を確立してから、どこかおかしいと思う私がおりました。


 確実に何かがずれている、のです。


 修繕しなければ、置換しなければと思いました。


 しかし、歳を重ね、二十歳を過ぎたあたりで、ようやく私は。


 ずれているのは、世界ではなく私の方なのだと解りました。


 私は、間違いなく、これからも小説を書き続けるでしょう。


 駄文拙文乱文誤文、読んでいてお見苦しくなる事数多と、推量しています。


 それでも、こんな私でも、読んで下さる方がいる。


 そのお蔭で、何とか、この世にしがみ付くことが出来ております。


 その方々への謝意を述べて、二百作目の末文とさせていただきます。




 れい六年四月七日。


 小狸こだぬき、改め飯島いいじま西諺せいげん


 擱筆かくひつ

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二百 小狸 @segen_gen

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