孤独な大鷲王は異世界の社畜を溺愛する

@hanafusa_k

第1話

 東京は東部、築五十年ほどのじめついた雑居ビルの二階で、男の太い怒声が響いた。

「お前の代わりなんて、いくらでもいるんだからな!」

 脂ぎった頭に薄く残った髪を張りつけている小太りの男は、ガン、と安いスチールデスクを蹴り上げた。四十そこそこに見える男は、自分の立てた音にもいらだったようで、続けざまにデスクを蹴った。

 男の目の前では、針金のように痩せた青年が何度も頭を下げている。彼が腰を折る度に、大きなスーツの中で彼の身体が泳ぐ。

 三十に手が届くとは思えない童顔に、怯えを滲ませた大きな黒目がちの瞳。平均よりもやや小柄で華奢な体型も相まって、まるでライオンを前にした子ウサギのようだった。柔らかそうな細い黒髪は、自分の存在感を隠すように目元近くまで長く伸ばされている。不健康なほど白い肌は、蛍光灯の無機質な光のもとで、青ざめて見えた。

 痩せた青年──只野 新は、古いオフィスチェアにふんぞり返って座る男に再度頭を下げる。

「すみません、今すぐ修正します」

「二十時までにやれ。お前のミスだから残業申請はするなよ」

 男は新に顎でしゃくると、これみよがしに大きな舌打ちをして自分のパソコンに向き直った。

 新は小走りで自分の机へ戻ると、男に指摘された、契約書のいくつかの箇所を修正しはじめる。

「只野さん、これ後よろしくお願いしますねー」

「議事録、お願いしまぁす」

 どさ、どさ、と、新の狭い机に書類やUSBが無造作に置かれていく。困惑する新など目に入らないように、同僚たちはつまらなさげにパソコンをいじったり、楽しげに世間話をしている。

 同じ事務所内にいるのに、自分と同僚たちの間には決定的な隔たりがあった。新は「奴隷のように扱っていい人間」で、同僚たちは「そうでない人間」なのだ。

 どうして自分だけがこんな扱いを受けるのだろう。新はぎゅう、と喉を絞めあげられたような息苦しさを覚えた。

 しかし、面倒な仕事を押しつけられるのも、誰も助けてくれないのも、今日に始まったことではない。

 新は苦い気持ちを飲み下し、黙って仕事に取りかかった。

 一つ仕事が片付いたと思えば、二つ増え、二つ片付いたと思えば三つ増え……と、次から次へと降ってくる雑務を片付けていると、知らぬ間に、とっぷりと夜は更けていた。

 集中して片付けていた仕事が一段落つき、一息つこうと小さな事務所を見回すと、もう自分しか残っていない。終電まで仕事をするのも、慣れたものだった。

 今の状況を、嫌だとは思っている。同僚から人並みに扱われたいと思うし、上司の理不尽な要求にノーと言いたい。

(でも、俺の代わりはいくらでもいるんだ)

 上司は何かにつけてそう言った。お前の代わりなんていくらでもいるし、お前は何の取り柄もないクズだ、雇ってやった恩を返せ、と。

 代わりがきいて、何の取り柄もない自分は、他の事務所に行ってもきっと同じように扱われるだけだ。ならば、この事務所のこの待遇で我慢するしかない。

 生きていくには、金がいる。金を稼ぐには、こうするしかないのだ。

 自分の周りだけを煌々と照らす蛍光灯の電源を落とすと、新は重い足取りで事務所を後にした。

(今日で十八、九……二十連勤だ。そろそろ休みたい。でも、まだ今日振られた仕事が終わってない)

 最寄り駅でホームへ向かう階段を降りていると、段を降りるごとに、疲れが身体全体にのしかかるのを感じた。理不尽な人間関係の疲れが、背や足にどんよりと溜まっている。

 ホームは意外と混んでいて、金曜の夜だからか、酒の臭いをさせている男女で溢れていた。

 黄色い線の内側に立ち、ふーっと長くため息を吐くと、梅雨特有のねばつくような湿気が肺に入ってくる。じっとりと重い空気は不快で、息がしづらかった。

 大学を卒業して以来、来る日も来る日も仕事漬けだった。けれどそのおかげで、蒸発した両親が作った莫大な借金は、社会人七年目にしてようやく返済し終えられそうだ。

(今日振り込まれた給料で、全額返済し終わるはずだ)

 借金は給料の振り込まれる口座から毎月引き落とされることになっている。長い間つけられていた重い足かせが、ようやく外れたような気持ちになった。これからやっと、自分の本当の人生が始まる。

 少し前向きな気持ちになって足元から目線を上げると、線路沿いに立てられた大きな看板が見えた。新しく始まる恋愛ドラマらしい。美しい男女が楽しげに絡み合っているカラフルな写真は、まるで異世界の話のようだった。

「恋、か……」

 自分には縁遠い話だと思う。

 学生時代は、勉強とバイトで忙しくて、友達を作ったり仲を深める余裕はなかった。新は、学校でも会社でもいつも遠巻きにされていて、一人ぼっちだった。

 そんな新にとっては、恋愛など夢のまた夢だ。

 けれど、もし奇跡が起こって、自分にもそんな相手ができたなら。誰かを愛おしいと思ったり、思われたりすることができたなら。きっと一生忘れられない経験になるだろうと新は思った。

 電車がホーム内に入ってくるのが見えた。

 腕時計を確認して、五時間ほどは眠れるだろう、と計算する。明日は、今日振られた仕事を片付けて、それから……。

 そう思った瞬間だった。

 新の背後にいた女が、甲高い笑い声をあげた。と同時に、女が男を思いきり突き飛ばし、男は足をもつれさせ、背中で新を線路に押し出した。

 新が気づいた時には、足元にホームがなかった。

 宙に浮いていた。

 どこからか悲鳴が聞こえた。

 運転手の引きつった表情が、目の端に見えた。

 宙を舞った一瞬のうちに、新は自分の両目が、まばゆすぎる前照灯に焼かれたように痛むのを感じた。

(──死ぬのか、俺) 



「うぐっ!」

 腹部に殴られたような鈍い痛みがあり、新は薄く目を開けた。

 死んだと思った。

 間違いなく、電車に轢かれて即死だと。

 けれど、どうやら命は助かったらしい。

 目を開ければ、そこには夜の闇と線路が広がっている。はずだった。

「──お前──にきた?」

「どこ──入って──、誰の──だ?」

 体を覆えるほどの大きな羽根を背負った男と、黒光りするくちばしを口元につけた男二人が、鼻を押さえながら紅潮した顔で新を蹴っていた。

 二人とも日本人ではないようで、よく言葉が聞き取れない。ごわごわとした茶色っぽい粗末な服を着込んでいるが、コスプレか何かだろうか。

 しかし、男たちの異様な出で立ち以前に、新は肌を突き刺すような寒さに震え上がった。

 見回してみると、あたり一面、雪景色だ。

 遠くにはごつごつとした黒い岩肌の山々と大きな木造の家屋が見えたが、それらへと繋がる道以外、周りには何もない。空からはぼたん雪がちらちらと降っており、薄っぺらい夏用スーツ姿の新は、吹きつける風の冷たさに、がちがちと奥歯を鳴らした。

「ここはどこですか? 今は何時です?」

 どういうことだ、と、新は混乱する頭で必死に考えた。

 つい数秒前まで、新は東京の端で夏のうだる暑さにうんざりしていたはずだった。

 しかし、周辺の気候はどう見ても冬だ。

 何か事件が起こって、北海道の僻地にでも連れてこられたのだろうか。働きすぎて、移動している間の記憶をなくしたとか。馬鹿みたいな妄想だと思ったが、そうとしか考えられない。

 とにかく、今どこにいるのか、何時なのかが気になる。明日も仕事をしなくてはいけない。東京にいつ帰れるのかが知りたかった。

 しかし男たちは、目配せし合うと、気味が悪いほど熱っぽい目つきで新にじりじりと近づいてくる。

「お金、お金はこれだけしか持ってません。ほら」

 中学時代にクラスの不良に絡まれた時のことを思い出した。

 あの時は、財布を出せば何発か殴られる程度で解放してもらえた。今日も同じように済むといい。

 慌てて鞄の中を引っ掻き回し、財布から札を全て出して雪の上に置いた。これ以上は持っていない、と財布を開けて懇願するように見上げた途端、男は新の胸ぐらを掴みあげた。新より一回りは大きい男に持ち上げられ、新は宙吊りになる。

「ぐっ」

 乱暴に襟元を締め上げられて、息ができない。

 ぎらぎらと目を光らせる男は、舌を出すと、べろりと新のそげた頬を舐め上げた。

「ひいっ」

 喉から、か細い悲鳴が出た。

 助けを求めるようにもう一人の男を見たが、男は乱暴に新のベルトを抜くと、無理やりスラックスを脱がせた。下着までむしり取ると、男ははあはあと息を荒く乱しながら新の薄い尻を揉みしだいた。尻の孔の周りを何本もの太い指が這って、新の脳内は恐慌状態に陥る。

 なぜ服を脱がされるのか、尻の孔を触られるのか、意味が分からない。

 金目当てではない、ならば、何なのか。

 まさか、と新は感じたことのない恐怖に身体を震わせた。

 自分は、レイプされるのではないか。

「や、めろ、やめ、ろ!」

 男に気道を締められて気が遠くなりかけていたが、新は大声をあげ、無我夢中で足を蹴り上げた。

 もし警察が来れば下半身を露出している自分こそ逮捕されるのではと思わないでもなかったが、それ以上に「犯される」という恐怖が身体を支配した。

(誰か、誰か来てくれ)

 周囲に男たち以外に人は見当たらなかったが、生まれて初めて腹の底から声を出した。

 こんな極寒の中、外で裸に剥かれて打ち捨てられたら、死んでしまう。

 両親の借金を、やっと返し終えた。これから初めて、自分の人生を歩めるのだ。こんなところで死ぬのなんて、嫌だった。

 死にたくない!

 死にたくない!

「助けて! 誰か!」

 大声で叫んだ途端、首を掴んでいた男に左頬を思いきり殴られた。

 口の中に鉄の味が広がる。頬か舌かを噛んだようだった。

 それでも、犯されるのはもっと怖かった。

「た、す、けて……!」

 顔が充血していくのを感じる。

 酸素が脳に回らない。

 下半身が凍るように寒いと感じていたはずなのに、だんだんと感覚が麻痺してきた。暑いのか寒いのか、もう分からない。

 死ぬ、と思った時、新の下半身を撫でていた男が、首を締めている男に何事か話しかけた。

「──たら、金になる」

「脚を──れば、いいな」

 男は新の首から手を離すと、後頭部の髪を掴み直し、雪の上に押しつけた。もう一人の男が、抵抗する新のふくらはぎを縄のようなもので縛り上げる。叫ぼうとすると口にも縄をかけられた。

 男の一人がにやりと笑い、腰にぶらさげていた何かを取り出した。

 新の目が限界まで見開かれる。

 それは、小ぶりな鉈(なた)だった。

「んん──!!」

 新の額を、冷たい汗が伝っていった。

 男の鉈が勢いよく振り上げられ、空を切る。

 ダン!という音とともに、腱がぶつりと切れる音がした。

 新の悲鳴は雪の中に吸い込まれ、その後、あたりは何事もなかったかのように静かになった。

 そこには、ただ真新しい鮮血の染みだけが残った。


 

 新が次に目を覚ました時、そこは家屋の中だった。

 ログハウスのような部屋の中にはツルハシや、針金で編まれたかご、カンテラが無造作に置かれている。小さなドアと窓が一つずつあるだけで、外の様子はよく分からない。

 新は自分の身体を見下ろした。

 スラックスがおざなりに着せられており、両手と両脚、口は縄で縛られていて、毛虫のように横になったまま、動けない。身体の芯まで凍りつきそうなほど寒かったが、身体を温められそうなものは見当たらなかった。

「う……」

 両脚の腱に、垢だらけの汚い布がきつく巻かれていた。布はどす黒い血で染まっており、異臭がする。

 身体を少し動かすだけで、傷口から切り裂かれるような痛みが走った。

 もはや仕事のことは、頭から消え去っていた。こんな極寒の山奥から東京まで、一体どれくらいの日数で戻れるのか分からない。ならば、考えても仕方ない。

 このままだと、きっと遅かれ早かれ、犯されるか、殺される。

 なぜここに放置されているのか不思議に思ったが、出会ってすぐに鉈で斬りつけてくるような男たちの考えることなど、分かるはずもない。ひとまず、死なないために何ができるかを考えようと思った。

 まず、ここは雪国だ。日本かどこかの国の冬の季節なのだろう。大きな家屋があったところからして、男たち以外にも人間がいる可能性は高い。しかし、彼らが自分の味方になってくれるかどうかは、未知数だ。

 新は唇を噛み締めた。

 一日でも長く生き延びること。男たちに襲われた時に、身を守れる道具を探すこと。

 今の自分にできることはそれくらいだろう。

 脚の痛みをこらえながら、縛られた手でほふく前進をして、部屋じゅうをくまなく探索して回る。ドアには鍵がかかっていたが、針金のかごを解いて鍵代わりにすれば、もしかしたら解錠できるかもしれない。

 風でドアや窓ががたがたと揺れるたびに、男たちがまた襲ってくるのではと身体をびくつかせていたが、その日はついぞ誰もやってこなかった。

 監禁されてから、一日、二日、と数えられていた時はまだ余裕があった。しかし四日目を数えた頃、新の身体は限界を迎えた。

 脚の傷口が膿みはじめ、身体じゅうが熱っぽい。指先も足先も黒ずんで、腫れてきていた。

 見たことのない身体の変化に、新は怯えた。死ぬのかもしれない、と思う。

 人生の最期を想像したことはあったが、こんなふうに終わるなんて思ってもみなかった。

 お前の代わりなどいくらでもいると言われ、無能だと馬鹿にされ、金の工面に駆けずり回された人生。

 そして最期は、言葉の通じない男たちにゴミのように扱われて、死ぬ。

 俺は何のために生まれてきたんだろう、と、目を閉じて思う。声の限り泣き喚きたかったが、もう涙の一滴も出はしなかった。

 一旦目を閉じると、開けるのがひどく億劫だった。まぶただけが意思を持ったかのように、動かない。

(もう、終わりだ)

 はあ、はあ、と荒く息をする自分の声が、薄い膜を通したかのように、遠くから聞こえる。手脚の感覚は、もうない。何十分、何時間、そうしていたのか分からない。

 新の意識がいよいよ飛びかけた時、バン!と大きな音とともにドアが開けられた。

 ドアの向こうからは吹雪が吹き込んできて、熱っぽかった新の身体が急速に冷やされる。

 外はもう一寸先も見えないほど、暗かった。

(何だろう)

 ぼんやり目を開けると、家屋の入り口に入り切らないほど大きな男が、カンテラを手に提げて立っていた。彼の後ろには、ずらりと軍服を着た男たちが並んでいる。

 濁った意識の中でも、男の美貌ははっきり分かった。

 まるで内側から発光しているような白い肌に、彫りの深い顔立ち、男らしくまっすぐな黒々とした眉と涼しげな目元は俳優のようだった。毛皮の帽子の下から見える琥珀色の瞳が宝石のようにきらめいていて、ただただ、美しい、と思う。

 帽子と同じ毛皮で縁取られた真っ赤なマントを翻し、男は脇に立っていた軍服の男に二、三言話しかけると、ドアを後ろ手に閉めてしまった。

 狭い家屋の中には、男と新だけが取り残された。

「みう(みず)」

 男が何者なのかは分からないが、もしかしたら言葉が通じるかもしれないと願い、新は水がほしいと懇願する。

 男は部屋に入るなり、顔を歪め、息苦しそうにしていた。しかしすぐさま新に駆け寄ると、口にかけられた縄を手早く解き、金や宝石で装飾された水筒のようなものを差し出してくれる。

 新は蓋の開けられたそれを無我夢中で奪い取ると、勢いよく中身を飲み込んだ。花のような香りのする温かい液体が、新の胃の中に落ちていく。新が水筒の中身を飲み干すまで、男はじっと待っていた。

 そして、ゆっくりと言い聞かせるように新に話しかけた。

「お前──何者ー、鳥人なのか? 傷──ために──私のーを与えよう」

 言葉は分からなくても、男がとても美しい声をしているということだけは分かった。

 低い声には華やかな色気があって、よく響く。こんな時でもなければ、うっとりと聞き入っていただろう。

 それにしても、鳥人?と、新は目を瞬かせた。

 どういう意味の言葉だろうか。

 「お前は何者なのか」という問いだけはかろうじて聞き取れたので、自分の身の上を説明したかったが、身体が重くて力が出ない。

 声を出そうと胸をあえがせると、男は眉間にぐっと深いしわを寄せ、新のそばににじり寄った。

「痛くはしない」

 男は新の小さな顎を掴むと、目を見てはっきりそう言った。

 ──つまり、犯されるのか。

 新は絶望が押し寄せてくるのを感じた。飲み物を与えた代償ということか。この男も、結局最初の男たちと同じだったのだ。

 自分が男たちの性の対象になるなど、生まれてこの方考えたこともなかった。しかしいざなってみると、どんな乱暴をされるのかと恐ろしくて恐ろしくて仕方がない。

 逃げ出したかったが、家屋の周りには大勢の男たちがいる。逃げても結局捕まるだろう。そうすれば、もっと酷い目に遭うかもしれない。

 新は目を閉じ、抵抗を諦めた。

 男は自分のマントを外すと、新の細い身体を包み込んだ。男なりに気を遣っているのだろうか、と居心地悪く思ったが、その後の行動に驚かされた。

 男は、突然新にキスしたのだ。

 最初は唇の表面を食むような動きをしたが、すぐに薄く開いている新の唇の間に舌が割り入ってきた。唾液を舌で器用に送り込まれ、拒否したかったが、思わず飲んでしまった。

 唾液は蜜のように甘かった。水分に飢えていた新は、思わず男の舌に自分のものをきつく絡め、すすってしまう。

 すると、新の身体に異変が起きた。

 どくん、と心臓がひときわ大きく脈打った。

 きつく巻かれた布の下で、細胞一つ一つがぐねぐねと活発に動いているのが分かる。肉が露出し、焼きごてでも押されたように熱く痛かった傷口が、今や全く痛みを感じなくなっていた。

「な、に……」

 何が起こっているのか分からない。とにかく、身体がおかしかった。

 真っ白に変色し、感覚がなかった手と脚の先にも、じんわりと普段どおりの熱が戻ってくる。喉の渇きも随分ましになっていて、身体の隅々にまで力がみなぎってくるのを感じた。

 どう考えても、男にキスされたことが自分の身体を変化させたとしか思えない。

 男は、乾ききった新の口の中を舐め回した。

「ん、ふ……」

 こんなことに夢中になっている場合ではない、と思うのに、身体は自然と目の前の快感を追ってしまう。

 拙く男の舌を追うと、男はなだめるように優しく舌を絡ませてきた。

 その後、頬の内側の柔らかい肉を舌先で舐め上げられ、口の天井から舌の裏、喉奥の近くまで、あますところなく暴かれた。

 ぐちゃぐちゃと鳴る唾液の音が、ひどく淫らなことをしているようで恥ずかしかった。

 生まれてから一度も、キスなどしたことがない。こんなに隅々まで舐め回すのがキスだなんて、知らなかった。

 細かく刺繍が施された男の純白のブラウスの胸元を、いつの間にか縋りつくように掴んでいた。

「んっ、んっ」

 男が舌を動かすたびに、身体にびりびりと淡い電流が走るようだった。下半身に自然と熱が集まり、ささやかな花芯が薄いスラックスと下着を押し上げる。

 甘ったるい嬌声がつい鼻から漏れたが、恥ずかしいと思う暇もなかった。男の舌に翻弄されて、快感を貪ることしかできない。今はただ、目の前の気持ちよさだけを追っていたかった。

 ようやく二人が唇を放した時、新はすっかり骨抜きで、身体の芯まで脱力しきっていた。

「はあ、はあ……」

「どうだ? 楽になったか?」

 いつの間にか新は、男の逞しい両腕に全体重をぐったりともたれかけさせていた。

 男は、新の手脚を縛っていた縄も解いてくれる。

「は、はい。水も、ありがとうございます」

 言葉が通じるかは分からなかったが、一応礼を言う。

 これからレイプするには随分優しい触れ方だ。

 一体どんなひどいことをされるのかと新は身体を固くしていたが、男は新を抱きしめたまま、のんきに会話を続けた。赤子をあやすように、ゆらゆらと揺らされる。

「お前はどこの──だ? 言葉は、どの程度──るんだ?」

 男の言葉は、ところどころ聞き取れない。新は耳に全神経を集中させて、身振り手振りを加えて話した。

「言葉は、日本語なら分かります。英語は少しだけなら」

 一言一言分かりやすいようにはっきり発音するが、男は「ニホンゴ? エイゴ?」と復唱し、首を傾げた。

 新は自分の脚を見た。なぜか傷は治ったようだが、力を入れても動かせない。

 これから一体どうしたらいいのだろう。両脚が使えないのでは、ここからどこにも逃げ出せない。新は途方に暮れた。

「王宮に、行こう。道化──寝床がある」

 男は新の脚の傷を見ていたましげに眉をひそめると、新を抱きしめたまま立ち上がった。

「王宮? どうして? あなたは誰なんですか?」

「私は、この国の王だ」

 新は、驚きのあまり目を見開いた。



 新は、自称国王の男、ペラジカス・勇仁から、王宮に戻る道中、今置かれている状況について説明された。

 新がいたのは、勇仁が統治する国「バーランド」の最北端に置かれた流刑地、ムツガル。

 受刑者たちは日中炭鉱の採掘を行うらしく、新はその採掘所と刑務所の間の道にぽつんと倒れていたそうだ。

 受刑者たちいわく、倒れていた新からは「異様なほど惹きつけられる香りがした」ためその場で犯そうと思ったが、刑務官に賄賂として渡そうと思いなおし、一時的に監禁していたらしい。しかしちょうど勇仁が視察に来たため、刑務官は新の存在を報告。勇仁が新を助けるに至ったというわけだ。

 香り?と新は自分の腕を持ち上げ、襟元や脇を嗅いだ。

 数日間風呂に入っていないので多少体臭はしたが、そんなに強くは感じない。それに、勇仁も「今はそんな香りはしないが」と不思議そうだった。

 ただ、勇仁も新の監禁されていた家屋に入った時には、受刑者が言ったのと同じく「異様なほど惹きつけられる」甘い香りがした、と言っていた。

「お前の脚では──だろう、道化師──暮らすといい」

 香りの原因が何なのかは分からなかったが、勇仁のはからいで、新は王宮に道化師として連れ帰られることになった。

 勇仁は親しげに微笑みかけてくれたが、新はありえない事件の連続に頭がパンクしそうだった。

 突然こんな異世界で暮らせと言われても、どうしたらいいか分からない。得体の知れない国にたった一人で放り出されて、恐ろしかった。

 勇仁から気遣わしげに顔を覗き込まれていたことに気づき、新は慌てて彼に礼を言った。

「ありがとうございます。俺、頑張って働きますから」

 元の世界に帰りたい、と新は思った。

 「お前の代わりなんていくらでもいる」とボロ雑巾のように使い捨てられる人生だとしても、構わない。異世界でなど、暮らしていける気がしない。

 ただ、命を助けてもらえたこと、そしてひとまず衣食住を与えてもらえたことは、ありがたかった。

 勇仁と新は、馬車で二週間かけて、ムツガルから首都トウケイへと戻った。

 その間、新は勇仁と同じ馬車に乗せてもらい、彼と彼の従者からこの国に関するさまざまなことを教わった。

 従者は六十近そうな白髪の紳士だ。首の周りをぐるりと鳥の羽のようなものが覆っていていたが、それ以外は人間と同じ身体をしている。彼は勇仁と新の身の回りの世話をこなす合間に、新の質問にも丁寧に答えてくれた。

 「バーランド」は、鳥の血が流れる人間たち、いわゆる「鳥人」たちが暮らす島国らしい。

 バーランド国内での身分は大きく分けて三つあり、貴族、商人、農民。ちなみに、貴族の中でも王族など、高貴な身分になればなるほど鳥の血が濃いらしく、そういった「純度の高い」鳥人の体液を摂取すると、怪我の治りが早くなるそうだ。

(だから俺の脚の傷もすぐに治ったのか)

 話を聞きながら、新は深く頷いた。

 しかし瞬時に濃厚なキスシーンを思い出してしまい、カッと顔が熱くなる。

 初めてのキスは、もっと優しく触れ合うようなものだとばかり想像していた。あんなに濃厚なキスを自分が体験することになるなんて。両頬を、手で扇いで冷ます。

 また、勇仁の堂々たる雰囲気からして歳上だろうと彼の年齢を尋ねた新は、現在二十六歳だと聞かされ驚いた。新より三つも若いとは思えぬほど、彼には一国の為政者らしい威厳がある。父である先王が病に倒れたのを機に三年前に即位したらしいが、なぜか頑なに独り身を貫いているらしい。

「王様にはたくさん奥さんがいるものだと思っていたけれど、違うんですね」

「占い師が神託──『彼方から飛び降りる真白き鳥と番い、国を繁栄させるであろう』と──」

 新が着替えの途中で従者に話しかけると、彼はどこか夢見るような口調で答えた。

 服は従者のものを借りているが、丈は長く、着心地は随分悪かった。パンツなどは今まで履いたことがないほどごわごわとしていたが、寒さがしのげるだけありがたい。

 「彼方から飛び降りる真白き鳥と番い、国を繁栄させるであろう」という一節だけは、新にもはっきり聞き取れた。ここに来てからほとんどの場合、単語しか聞き取れなかったのに、珍しいことだ。

 とにかく、勇仁が独り身なのはその「真白き鳥」と番うためらしい。

「真白き鳥──我が国──ない、他国──見ない。勇仁様──伝説の──探して──」

 「真白き鳥」はどうやら国内外で探されているようだ。けれど、見つからない。

 他国にまで探しに行っているらしいところを聞くに、バーランドの鳥人たちにとって、その「真白き鳥」は、相当に特別な存在なのだろう。借りたマントを身体に巻きつけ暖を取りながら、見つかるといいな、と、新は他人事のように思った。

 王宮に着いたのは、ちょうど太陽が空の真上に来る頃だった。

 ムツガルからトウケイまでの道は、すさまじい悪路続きだった。これでもかなり舗装された方だと従者には言われたが、現代の道に慣れきった新にはなかなかハードな体験だった。従者に肩を借りながら馬車を降りたが、まだ地面が揺れているように感じる。青い顔をしてえづいている新の横に、勇仁が颯爽と降り立った。

 よろよろと王宮を見上げた新は、車酔いを忘れるほど衝撃を受けた。

 目に痛いほどの白い壁と輝くエメラルドグリーンの屋根でできた、中世ヨーロッパ風のコの字型の城が、堂々とそびえ建っていた。

 隅から隅まで、鳥や植物、果実などが細かく彫り込まれており、その繊細さに圧倒される。居館の正面中央壁には大鷲が羽を広げた紋章が大きく彫られており、その立派な意匠には、美術的センスのない新もうっとりとため息をついてしまう。

 居館の前には白い石でできた噴水とそれを取り囲む歩道があって、歩道の周りにはパンジーやさざんかなど美しい季節の花々が咲き誇っている。

 まさに、映画やドラマの中で見た壮麗な王宮そのものだった。

「王様、お帰りなさいませ」

「秀、何事もなかったか」

「はい」

 勇仁と新がガラス張りの大きな正面扉まで進むと、周囲の者たちと比べてひときわ背の高い男が一人、前に進み出た。

 男は秀というらしく、灰褐色の髪をきちんと後ろになでつけて、神経質そうな表情をしている。直立不動で勇仁の言葉に答える姿は、いかにも生真面目で頑固そうだった。年齢は四十ほどだろうか。

「ムツガルで拾われた道化というのは、この者でしょうか」

「ああ、迷い込んだ異民族かもしれん。受刑者に両脚の腱を切られたようだ。道化師の部屋に案内してやってくれ」

 橙に近い黄色の瞳が、じろりと新を見下ろす。勇仁とあまり変わらない体格の彼は、かなり威圧感がある。

 歓迎されていない雰囲気を感じて、新は目線を足元に落とした。

 勇仁も彼の従者も、気のいい鳥人だったから、失念していた。自分はどこの馬の骨か分からない、不審者なのだ。

 秀は従者に支えられている新の首元を掴むと、俵のように担ぎ直した。無言の圧が怖いが、何も言えない。新は秀の骨ばった肩の上で、なるべく小さく縮こまっていた。

 いくつもの中庭や塔の間を、秀はすいすいと横切っていく。目まぐるしく変わっていく周囲の景色を見ながら、新は「一人にされたら迷ってしまいそうだ」とぼんやり思った。

 王宮の外れにある石造りの建物の前に着くと、秀は足を止めた。

 真っ昼間だというのに、この一帯は日が当たらないようで肌寒い。東京での自分の部屋を思い出して、どこか懐かしくなる。

 ドン、ドン、と秀が拳で思いきり木のドアを叩いた。突然の大きな音に新がびくりと身体を跳ねさせると、それを上回る大きさの怒鳴り声が中から聞こえた。

「はいはい、ちょっと待ちな!」

 ドアが内側に開くと、秀の腰ほどまでしか身長のない男が、にゅっと顔を出した。

「おっと、大臣さん! ご機嫌麗しゅう。その肩にいるちっこいのは何ですかね?」

「王が目をかけられた新入りだ。芸を仕込んで、飯と寝床を分けてやれ。こいつは両脚が使えない」

「へえ、了解です」

 男は禿げた頭を撫でながら、ドアを大きく開けて秀を中に招き入れた。

 新はきょろきょろとあたりを見回し、男を改めて見てギョッとした。男の両脚、太ももから下が鳥の脚そのものだったのだ。

 そういえば、従者が「純度の高い鳥人ほど、人間に近い擬態ができる。純度が低いほど鳥の部位が常に表れている」と言っていたことを思い出す。男は純度の低い鳥人なのだろう。

 秀は部屋の中に入ると、手近にあった長椅子の上に新を座らせた。部屋の中には、簡素な寝具が一つと、大きな暖炉があった。ひとまず寒さに凍えることはなさそうだとホッとする。

 緑色をしたまだら模様の服と帽子が壁に掛けてあるのと、いくつかの頑丈そうな箱がある以外は、とくに家具らしい家具はない。しかし部屋のあちこちに食べかけ、飲みかけの食器や腐りかけの果物があり、脱いだ服や靴も散らばっているところからして、男がだらしない性格であることは見てとれた。

「芸の見習いのためにお前はこいつとしばらく一緒に住んでもらう。身の回りの世話は侍女をつけるから、心配するな」

「げえっ、部屋が狭くなる!」

「王のご命令だ。では後は頼む」

「へえい」

 禿げた男は秀にぺこぺこと頭を下げ、ドアをきっちりと閉めた。

「おい、お前。名前は?」

 男はやや怒ったように新に話しかけたが、新の耳には「名前」という単語しか聞き取れない。

「名前……俺は、新。あなたは?」

「なんだ、言葉も分からないのか。こりゃ面倒だ。俺は草太だ。そ、う、た。分かるか?」

 草太はせっかちにまくしたてた。新はどうにか「ソウタ」という言葉だけ聞き取り、頷く。

「ここは王の道化師のための住処だ。歌、ダンス、ジャグリング、なんでもいいから王を喜ばせる芸を持ってなきゃいけねえ。お前は一体何ができるんだ?」

 新がおろおろと目をさまよわせると、草太はいらだったように頭を掻きむしった。

「まずお前は言葉が分かるようになんなきゃなんねえ。王宮の図書館に出入りできるように口を利いてやるから、そこで覚えろ。いいな?」

 「図書館」「出入り」「覚えろ」という単語を聞き取った新は、こくりと頷いた。

 まず、この世界の言葉を知らなければならない。もしかしたらこの世のどこかに、元の世界に戻る方法を知っている者がいるかもしれないのだ。この国の言葉が分からなければ、そんな者と偶然出会えたとしても、帰るチャンスをみすみす逃すことになる。ならば、新に残された道は、ただ一つしかない。

 それから、新の勉強漬けの日々が始まった。

 手当り次第に本を読み、分からない言葉は貰ったワックス板に鉄筆でメモをして、草太に意味を教えてもらった。

 おしゃべりな草太のおかげで、一ヶ月もすると日常会話程度はできるようになった。草太はひっきりなしに話しかけてくるので、語学の練習相手には最適だったのだ。

 ある日、新は、頭がおかしいと思われるのを承知で、草太に相談した。

「『元の世界に戻りたい』? 何言ってるんだお前」

 草太の反応は想像していたとおりだった。

 新も、もし自分の身の回りで「俺は違う世界から来たんだ」なんて言っている奴がいたら、気でも狂ったのかと思うだろう。

「俺は、違う世界からここに飛ばされてきたんだ。『ニホン』とか『トウキョウ』って言葉に聞き覚えはないか? それが、俺の住んでいたところなんだ」

 草太は、一緒に寝起きしているベッドの上で耳の穴をほじりながら言った。

「さあ、聞いたことねえな」

 耳垢をふうと吹き飛ばす草太に、新は顔をしかめる。やはり本気にはしてもらえないか、と内心ため息をついた。

 ──もう駄目だ。残る方法は、「あれ」しかない。

 新は密かにあることを決意すると、草太に押し出されそうになりながら、ベッドの端で小さく丸まって眠った。

 翌日、新は侍女に「この城で一番高いところに行きたい」と頼んだ。

「高いところになんか行ったって、何もねえぞ」

「用事があるんだ。……草太には関係ないことだから」 

 強い口調で言うと、草太は「なんでえ」と不機嫌そうに唇を尖らせていた。

 もし新がこれからすることを知ったら、あの秀とかいう大臣に告げ口されそうな気がした。新が何をしてもあの怖そうな大臣は機嫌を損ねそうだったから、ついてきてほしくなかった。

 侍女は新が望んだとおり、ひときわ高い尖塔へ連れてきてくれた。

 尖塔のてっぺんは、見張りのための窓と見張り番が休憩するためのイスが一脚置いてあるだけで、他にはなにもない小部屋だった。窓の下を見下ろすと、人がミニチュアの人形のように見えた。

(ここからなら、いける)

「少し後ろを向いていて」

 新が侍女に頼むと、彼女は頭を下げ、従順に新に背を向けた。

 新は侍女が後ろを向いたのを見届けると、窓枠に手をかけた。両腕に渾身の力を込めると、ぐいと身を乗り出す。

 強く冷たい風が、新の胸の下を通り抜けていく。

(もう少し力を入れたら、窓から滑り落ちて、俺は死ぬ)

 新は冷静に思う。

 新の上半身が、窓からずるりと落ちる。

 と、その時だった。

「グアアーッ!」

 右耳のすぐ近くで、鳥の怒ったような大きな鳴き声がびりびりと響いた。

 それと同時に、マントの後襟が恐ろしいほどの力で、ぐい、と引っ張り上げられる。あまりの力に新は窒息しそうになり、闇雲にもがいた。

 そこで侍女が異変に気づき、塔から上半身を出したまま悶えている新を、慌てて引きずり戻した。大鷲は襟をがっしりと掴んだまま、窓枠に身体をねじ込み、塔の中に入ってくる。

「やめろ! 何だお前、邪魔するな!」

 大鷲はまだ、新の襟を両脚で掴んで離さない。新は怒りのあまり、力いっぱい両手を振り回し、大鷲を殴ろうとした。

「王様!」

 侍女が慌てて身につけていたマントを外し、大きく広げた。

 王様?侍女が青い顔をして叫んだ言葉に、違和感を覚える。目の前にいるのはただの大鷲だ。どこに王様がいるというのか。

 大鷲はマントを掴む侍女の腕に、すい、と優雅に止まった。

 突然、大鷲の身体の内側から強い光が漏れはじめる。

 眩しい。

 新は思わず目を腕で覆った。光はどんどん強くなり、とうとう大鷲の姿は影しか見えなくなる。まるで太陽がすぐそばに降りてきたようなまばゆさと熱さだ。

「そんなところから身を乗り出したら、死んでしまうぞ」

 ビロードのようになめらかで艷やかな低音。

 この声は、と新は目を見開いた。

 新が目の前から腕を外すと、そこには侍女のマントを腰に巻きつけた半裸の勇仁が立っていた。

 人間が鳥になるなんて!

 ありえない光景を目の前にして、新は顎が外れそうなほど驚いた。

 勇仁は穏やかな琥珀色の瞳で、じっと新を見つめている。

「お、王様。なぜここに」

「城内を散歩していたのだ。お前が窓から乗り出しているのが見えて、慌てて飛んできた」

 タイミングよく、塔の下から「王様」と呼ぶ声とともに、人が大勢駆け上がってくる音が聞こえた。新は気まずい気持ちになる。

「ご迷惑をおかけして、すみません」

「良い、私が好きでしたことだ。しかし、なぜこんなところにいる?」

「あの、その……」

 新は口ごもった。冷たい汗が背中を伝っていく。

 この世界に来て、死にそうになっていたところを、勇仁に助けられた。さらに今度は、自ら死のうとしているところを、また助けられた。何と言ったらいいのか分からない。何を言っても、勇仁に不快な思いをさせる気がした。

 不機嫌になるといつも机を蹴る上司のことを思い出し、身体が自然と竦んだ。

「言えないか?」

 優しい声だった。

 新を怖がらせまいとしているのが伝わってきて、新は無性に泣きそうになった。

 新を助けても、勇仁には何の得もない。なのに、慌てて鳥の姿になってまで助けにきてくれた。

 なぜ死のうとしたかを話せば勇仁に気味悪がられると思ったが、新は覚悟を決めた。

(王様は、心から俺のことを心配してくださっているんだ。俺も本音を話そう)

 深呼吸をして気持ちを整えると、新は話し始めた。

「俺は、『ニホン』という国に住んでいました。その国で俺は死にかけたんですが、死んだと思った一瞬のうちに、この国に来ていました。もう一度死にかければ、また『ニホン』に戻れるんじゃないかと思ったんです」

 「ニホン」という言葉に聞き覚えがないか、新は勇仁を縋るように見つめた。

「ニホン……聞いたことがないな。お前たちは知っているか?」

 勇仁は従者たちに服を着せられながら、ぐるりと見回し尋ねた。しかし従者たちは首をかしげるか、「いいえ」と首を横に振るばかりだ。

「なぜお前は『ニホン』に戻りたいんだ?」

 きちんと服を着せられた勇仁が、新に問いかける。

 新は、うつむいて唇を噛んだ。

「恩返しをしなきゃいけない人が、いるんです」

 この世界で生きるのも、そう悪くはない。不機嫌な上司はいないし、馬鹿にしてくる同僚もいない。毎日毎日馬車馬のように働かなくても、パンと野菜のスープに端切れ肉がもらえる。正直に言えば、元の世界の暮らしより、今のほうがずっといい生活だった。

 けれど、元の世界にたった一つだけ心残りがあった。

 それは、叔父だ。

 実の両親の代わりに、自分を育ててくれた叔父。両親の借金は返し終えたが、まだ叔父には少しの孝行もできていない。叔父は新を育てることを「兄の尻拭いをしただけ」と言い捨てていたクールな人だから、孝行など求めていないかもしれない。けれど新は、借金を返し終えた後は、彼に孝行することが自分の唯一の生きる意味だと思っていた。だから、元の世界に帰りたかった。

 草太に言葉を教わりながら、新は毎日不安だった。

 この世界の一日が、元の世界の一年だったらどうしよう?元の世界に戻っても、叔父がいなかったら?自分の生きる意味は?そう思い始めると、居ても立っても居られず、「死にかけるしかない」と思いつめてしまった。

 新が滔々と語るのを聞きながら、勇仁は痛ましそうに眉をひそめた。

「お前が別の世界から来たというのは、にわかには信じがたいが……ただ、その話を信じるとして、もしこの世界で本当に死んでしまったらどうするのだ。叔父上に恩返しをするどころではないのではないか」

「その通りです。いちかばちかでした」

 新がうなだれると、勇仁は困ったように眉を下げた。そして顎に手を当て、何かを考えはじめた。

 窓の向こうで、びゅおお、と強風が吹きつける音が聞こえる。

「ひとまず、死ぬ以外で元の世界に戻る方法を探してはどうだろう。明日の宴会には歴史や地理を研究している学者たちも呼んでいる。彼らに話を聞いてみなさい」

 勇仁は微笑むと、優雅にかがみこみ、床に座っている新の頭を何度か撫でた。

 生まれて初めて他人に頭を撫でられ、新は急にどきどきと胸が高鳴るのを感じた。まるで、子どもに返ったような気持ちだ。分厚く大きな手は、温かかった。

「あ、ありがとうございます!」

「草太と芸を磨いておくといい。決して、思いつめないように」

 新が慌てて頭を下げると、勇仁は笑顔を返した。「アラタを部屋まで送りなさい」と侍女に命じると、勇仁はマントを翻し、ゆったりと階段を降りていった。

 新は勇仁の背を見送りながら、塔に上る前と今で、気持ちががらりと変わっているのを感じた。

 死にかけてやる、とどこか投げやりだった気持ちが、今は、未来に道が繋がっているような、目の前に突然一筋の光が差したような気持ちだった。

(王様のご好意に、応えなきゃ)

 新は決意を新たに、胸の前で両手を握りしめた。



「なに!? お前も明日の宴会に出る!?」

「うん、王様にそうしなさいと言っていただいた」

 草太は丁寧に磨いていたボールを放り出し、頭を抱えて身悶えた。 

 この一ヶ月間、新は語学の勉強しかしていない。芸になど少しも触れていないのだ。

「なぜそんな急に、いや、もう決まったことだ。お前、何ができる? ボールはいくつ回せる? 歌はできるか? 楽器は何が弾ける?」

「わ、分からない。芸なんてやったことがない」

 恐慌気味の草太に気圧されながら、新はどもりながら答える。

「クソ! とりあえず、俺の持ちネタを教えてやる。真似してみろ」

 草太は勢いよく立ち上がると、新にいくつかのボールを手渡す。新は、とりあえず言われるがままに、ボールを宙に放り投げた。

「これも駄目、あれも駄目、お前は一体何ができるんだよ!」

 数刻後、草太は頭を掻きむしって怒っていた。新は、草太の前で身体を縮めてうなだれる。

 新は、致命的にどんくさかった。

 草太がお手本にボールやリングを器用にジャグリングして見せたが、新の手に渡った途端、それらはものの見事に四方八方に飛び散った。マジックはどうかと手順を教えられても、感情が顔に全部出てしまうせいで、タネが丸わかり。楽器演奏はどうかとハープやチェンバロを弾いたが、どちらも一曲終わる前に草太が止めさせた。歌は音痴、踊りはいくら脚が使えないとはいえ体操のようだった。

 草太曰く、新は手の施しようがなかった。

「王様の命令に背くわけにはいかない。なんとかこいつを明日の宴会に出さないと……」

 草太はぶつぶつとひとりごとを言いながら、部屋の中を歩き回った。

 新はただ草太を見つめることしかできない。

 自分の小さな手を見つめて、新はため息を飲み込んだ。やっぱり自分は、何の取り柄もないクズだ。

「待てよ、一ついい案がある」

 草太は、絨毯の上に無造作に置かれていた小型のハープを掴んだ。

「これを、トン、トン、トーン、ってリズムで弾いてくれ。できるか?」

「多分……」

 ポロン、ポロン、ポーン、と新が音を鳴らすと、草太はにんまりした。

「これでいける!」

 草太は天に向って拳を突き上げ、大喜びした。

 新には、何がなんだかさっぱり分からない。

「明日、お前はこのリズムで弾いてくれさえすりゃあいい。いいな?」

「わ、かった」

 草太が何も言うなという顔で念を押したので、新はなぜこれでいいのか、質問するきっかけを失った。

 翌日、宴会は夕方から行われるそうだったが、新は朝から緊張しっぱなしだった。

 昨晩は心配のあまり、一睡もできなかった。草太が教えてくれたのは、曲とも呼べないお粗末なものだ。それで一体どう宴会を乗り切るつもりなのだろう?もしや、自分さえ上手く芸がこなせればそれでいい、新はどうなっても構わない、と匙を投げられたのだろうか?

 新は何度も不安げに草太を見つめたが、草太は「どこからか甘い香りがするな」などと他のことにうつつを抜かしていて、新の様子など気にも留めていない様子だった。

 日が暮れて、新と草太は道化師の正装に着替えた。新は赤、草太は緑を基調としたまだら模様の揃いの上下に、頭には星を模したような不思議な形の帽子を被る。

 新は侍女に支えられながら、宴会場までの道のりを吐きそうな気持ちで歩いた。

 新のひどい芸を見て、勇仁の顔が歪む様がまざまざと想像できる。胃が締め上げられるように痛んだ。

(あんなに優しい人に、いよいよ見放されるかもしれない……)

 草太のように「頭がおかしい」と言いたげに突き放すのが普通だろうに、勇仁は新の言うことを信じ、元の世界に戻る方法まで一緒に考えて、手助けをしてくれた。そんな優しい人の顔に、自分は泥を塗ってしまうかもしれない。脚が自由に動くのなら、今すぐ勇仁のもとへ行って謝り、許しを乞いたかった。しかし、現実はそれを許さない。

 新の額に滲んだ冷たい汗が頬を伝い落ちた時、ちょうど宴会場にたどり着いた。

「宮廷道化師たちが参りました!」

 使用人が声高に叫び、バン、と目の前の大きな木の扉が開かれた。

 胸を張って宴会場に入っていく草太の後に続いた新は、言葉を失った。

 会場内は、まさに豪華絢爛だった。

 新たちが踏みしめる赤い絨毯には、生花がふんだんに散らしてあり、あたりはかぐわしい香りで満ちている。その先には勇仁が座り、従者から杯にぶどう酒を注がれていた。

 勇仁の両脇には純白のテーブルクロスがかけられた長方形の机が並んでおり、きらびやかな男女が席に着いて談笑している。壁には磨き上げられた色とりどりの盾が並び、その中でも、大鷲が羽を広げた意匠の彫られたものが、ひときわ光り輝いている。

 普段見慣れないまばゆさに満ちた空間に、新は後ずさりしたくなった。しかしふと焼けた肉の香りが漂ってきて、思わず机の上を覗いた。朝は緊張で水もろくに喉を通らなかったので、腹が空いていたのだ。

 机の上には、銀の燭台に照らされたイノシシのシチューに鶏のパテ、焼いたニシン、花梨の実のサラダ、そして大量の肉桂入り甘ぶどう酒などが所狭しと並べられていた。誰も彼もが豪勢な食事とおしゃべりに夢中で、唇を脂で光らせながらぶどう酒をかっくらっている。

 新は、ひとり壇上で杯を傾けている勇仁をそっと見つめた。

 勇仁は純白のブラウスに、袖の膨らんだ焦げ茶色の上着を着ている。複雑な模様がびっしりと刺繍されている上着は気圧されるほど豪華だったが、勇仁の存在感は少しも負けていない。むしろ男らしい顔立ちが映えて見えて、会場内の女性たちは彼をうっとりと見つめている。

(王様)

 勇仁は新の視線に気づくと、まるで新を勇気づけるかのように微笑み、見返した。不安で冷え切っていた新の身体に、熱い力がみなぎっていく。

 今日の宴会は必ず成功させなくてはいけない。そして、元の世界に戻る方法も聞いて帰らなければ。新は改めて奮起した。

 勇仁まであと一メートルほどの距離になったところで、新は侍女から手を外され、長椅子に腰掛けさせられた。

「さあ皆さま、宮廷道化師たちによるショーをご覧ください!」

 新が座ると同時に、使用人が叫んだ。両脇にずらりと並んだ貴族たちが食事の手を止め、口をつぐむ。何が始まるのかと、彼らは少年少女のように目を輝かせている。

「紳士淑女の皆様、今宵は私のとっておきの歌をご披露させていただきます」

 草太がうやうやしく礼をすると、貴族たちからワッと歓声があがった。

 目配せされ、新は言われたとおり単調にハープの音を鳴らす。

 草太はうまいもので、どこぞの貴族が大事な宴会で屁をこいて赤っ恥だっただとか、強欲な農民を貴族がとんちで言いくるめて黙らせたとか、嘘か真実か分からないような話をしては貴族たちに大受けしている。

 無策なわけではなかったのだと分かり、新はホッと胸をなでおろした。どうやら、勇仁の顔に泥を塗ることは避けられたらしい。

 草太の話術の巧みさに感嘆しながら、新は淡々とハープを弾いた。

「さてさて、それではこれが最後のお話」

 貴族たちがまだ足りないというように嘆息するが、草太は一層笑みを深めて言った。

「今宵の宴にも参加されている、宰相殿のお話です」

 ざっ、と貴族たちの目が宰相の方に向いた。

 新も目の端でそちらを見ると、自分とさほど変わらないくらいの小柄な男が、卓の隅で薄く微笑み、座っていた。灰水色の長い髪を後ろで一つに編み込んでおり、毒々しい黄色の瞳は、一切の感情なく草太を見つめている。一見温厚そうな外見だが、目の奥の冷たさに、新は背筋が凍るのを感じた。

 草太は新の紡ぐ音に合わせて、調子よく節をつけて歌い出した。

「あそこに見えるは一体どなたか? 大臣殿か、はたまた王様か、いや宰相殿だ! 王様と間違えても無理はない、宰相殿は王様を凌ぐ大地主。他国の重鎮にも顔が利く。王族の中には親族がわんさか。宰相殿とお話したい? ならば金を持ってこい! そう、宰相殿の周りは、金、金、金でいっぱい! 一体誰が王様で、誰が宰相殿か。ご貴族様たちはどちらの馬に乗るかで今日も大騒ぎ!」

 水をうったような静けさが、会場内に広がっていた。先程まであんなに誰もが手を叩いて笑い、騒いでいたとは思えないほどだ。貴族たちは周囲に目を走らせ、誰がどう動くかを探り合っている。

 新の震えた手が弦に当たり、間抜けに、ポロン、と音が鳴る。草太は満足そうにあたりを見回すと、勇仁の方に向き直り、深くお辞儀をした。

「さすが草太の歌は風刺が利いている。なあ義昭?」

「はい、王様」

 勇仁はおもむろに立ち、パン、パン、と乾いた拍手をすると、義昭と呼んだ宰相に笑顔を向けた。

 義昭は張りつけた笑顔のまま、慇懃無礼なほど丁寧にお辞儀をする。

 勇仁と義昭の間には一触即発といった空気が流れていたが、貴族たちはホッとしたようで、「さすが王様だ」「寛大でお優しい」と口々に褒め称え、酒を口にしはじめる。

「宰相殿が官吏を買収して派閥を広げているというのは、噂ではなかったのか」

「自分に逆らった官吏にぬれぎぬを着せて、刑務所送りにしたそうよ。恐ろしいわ」

「王様と宰相殿、どちらの派閥に入っても苦しみそうだな」

 こそこそと貴族たちが話す声が聞こえ、新は耳をそばだてた。どうやら、義昭は金で権力を買っており、勇仁と対立しているらしい。

新は震える手でハープを抱きしめ、こっそりと勇仁と義昭の顔色を伺った。二人とも澄ました顔をして酒を飲んでおり、表情からは何も読み取れない。

 貴族たちの噂話を鵜呑みにしていいのかは分からない。

(でも、あの宰相さんのことは好きになれそうにない)

 新は直感的にそう思った。

 草太を見るあの目つき。人を人とも思っていないような冷たい目だった。新を奴隷扱いしていた上司や同僚たちと、同じ目だと思った。

 そういえば草太はどこか、と見回すと、早速貴族たちに杯を渡され、酒を飲んでは楽しそうに話し込んでいる。

 長椅子に取り残された新は、そばに立っていた侍女に尋ねた。

 ここからが、本題だ。

「あの……学者の先生方は、どちらにおられますか?」

 侍女は昨日の勇仁とのやり取りを覚えていたようで、「あちらです」と手で指し、すぐさま肩を貸してくれた。新は草太とは反対側の食卓へ向かった。

「アラタ様、右から地理学、歴史学、法学の先生方です。このお三方が、我らが王の治世に貢献しておられる今世随一の知識人の方々でございます。先生方、こちらは宮廷道化師のアラタでございます」

「こ、こんにちは」

 侍女に紹介され、新はぴんと背筋を伸ばして緊張しながら挨拶をした。

 彼らは元の世界に戻る方法を知っているだろうか?とちらりと不安がよぎる。いや、知っていてもいなくても、当たって砕けるしかない。この三人が頼みの綱だ。

「ああ、さっきの道化師か。なんだ、酒がもうないぞ」

「先程の彼にはヒヤヒヤさせられたが、皮肉が効いていて痛快だったね」

 男たちはすっかり酔っ払っていて、新が話しかけても気にも留めない。

 新は焦った。この機会に、元の世界に関する知識を少しでも知っておきたいのだ。

「あの! 俺、先生方にお聞きしたいことがあって」

「何だね」

 新が少し大きめの声で男たちに話しかけると、彼らはまだ好き勝手に話したり酒を飲んだりしていたが、その内の一人が顔をしかめて新に応えた。

「俺、別の世界からここに飛ばされてきたんです。『ニホン』とか『トウキョウ』って名前を聞いたことはありませんか。俺、そこに帰りたいんです。もし先生方がご存知だったら……」

「なんだと貴様!」

 話を聞いていた男の一人が、突然大声を出し立ち上がった。

 新はびくりと大きく震える。

 周囲の貴族たちも、何事かと男と新を交互に見た。

「王様の治世こそが至上のものだというのに、他の世界に行きたいだと? 先ほどの歌といい、今宵の道化師たちは無礼にもほどがある! その首を切って、荒れ狂う海に流してやろうか!」

 酔いと怒りで顔を真っ赤にした男は、腰に差していた短剣をよろめきながら勢いよく引き抜いた。

 よく磨かれた短剣は、燭台の炎を反射して恐ろしげにぎらりと光った。隣に座っていた女性が、絹を裂いたような悲鳴をあげる。

「ち、違います。王様を侮辱したわけじゃ」

「黙れ! 我らが王を貶めていい気になっておるとは、呆れ果てた!」

 男が机を乗り越え、新に刃を突きつけようとしたその時、凛とした声が会場内に響き渡った。

「止めよ」

 決して大声ではないのに、その美しい低音は全員の耳にはっきりと届いた。そして、誰もが自然と動きを止めた。

 新は思わず、助けを求めるように声の主の方を振り向いた。

 そこには、壇上からこちらをじっと見据える勇仁がいた。

「王様、こやつは道化師の分際で」

「良い、お前の忠誠心はよく分かっている。この道化師たちは私のお気に入りだ。あまり目くじらを立てないでやってくれ」

 男はなおも新の罪を追求しようとしたが、勇仁が穏やかに諌めたので、ばつが悪そうに渋々短剣を鞘にしまった。

「草太、アラタ、お前たちはもう部屋に戻りなさい」

 勇仁にそう言われ、新は、貴族たちと飲んだくれていた草太とともに宴会場を後にした。

 部屋を退出する時、二人は勇仁と貴族たちに深々と礼をした。顔を上げた瞬間に勇仁とばちりと目が合い、新はそのまなざしにぎゅうと胸を掴まれたような気持ちになった。

 勇仁は、新を憐れむような、悲しげな目をしていた。

(俺が学者の先生たちから話を聞き出せなかったと分かったから、かな)

 住処に帰りながら、新はお膳立てしてくれた勇仁への申し訳ない気持ちがこみ上げた。元の世界に戻るための手がかりはもちろん欲しかったが、勇仁の好意に応えられなかったという落胆が、新の胸にのしかかった。

「俺様のおかげで、命拾いしたな! これからはもっと俺様を敬えよ」

 草太は酒臭い息を撒き散らしながら話しかけてきたが、新はろくに返事もできなかった。

 勇仁の悲しげな瞳が、頭に焼きついて離れなかった。

 その晩、草太とともに寝床に入ってからも新の目は冴えたままだった。元の世界に戻れない、という確固たる事実が、新の脳内でぐるぐると回っていた。

 この世の知識人たちも元の世界に戻る方法は知らず、それどころか反逆者のような扱いを受ける始末だ。死にかけるという手もあることはあったが、命の恩人である勇仁を、もうこれ以上苦しめたくなかった。

 ならば、もう新に残された方法はない。

 新は元の世界には、一生戻れないのだ。

(叔父さんに申し訳ない。俺は何も返せていない。それに、叔父さんに恩返しをしないなら、俺の生きている意味なんてあるんだろうか? 俺は無能で、クズで、誰でも代わりが利く存在なのに……)

 今自分が一体何をしたらいいのか、分からなかった。

 空の真上にあった月が沈み、日が地平線から顔を出す頃、ようやく新は自分の心の落とし所を決めた。

(この世界で、生きていこう。俺は芸も何もできない。できない分、人一倍働いて、埋め合わせよう)

 芸は草太と相談して、ハープを人並み程度に弾けるようになるまで練習することにした。それ以外の自由な時間は好きにしろと言われたので、他の仕事を入れることにする。

 新は朝から、王宮のあちこちに「仕事をいただけませんか」と頼んで回った。

 両脚が使えないせいで、仕事の内容は限られる。どこでも、「脚さえ使えりゃあねえ」と残念そうに断られるばかりだ。それでも、仕事が欲しかった。新は諦めず、自分ができる仕事はないかと執念深く探して回った。

「野菜の皮剥き、食器磨き、だけか」

 数日間あちこちに頭を下げて回った結果、どうにか二つ、仕事をもらうことができた。どちらも朝早くから夜遅くまでかかるので誰もやりたがらない仕事らしかったが、忙殺されたい新にとっては好都合だった。

 まだ夜も明けきらない頃に起き出すと、新は職場である厨房へと向かった。

 厨房に到着した時、既に数人の男女がそれぞれの仕事を始めていた。肉を切ったり、豆を煮たりとすでに慌ただしさの片鱗が感じられる。

「来たか。まずはこれの皮を剥いてくれ。この次は人参だ」

 厨房を仕切っているらしい大柄な男が、腕いっぱいの大きな籠に山盛りのカブを、新の前にドンと置いた。鳥そのものの目でギョロリと値踏みするように見られて、新はにわかに緊張した。

 新の他にも皮を剥く担当の者がいるらしく、その男女の前にも、同様に大きな籠が置かれる。

 借金返済のため家計を切り詰めようと自炊はしていたが、決して料理が得意なわけではない。しかし、野菜の皮剥きくらいはできるはず、そう思ってこの仕事に志願したのだが。

「皮を剥きすぎだ! もっと薄くしろ」

「カブはまだかい? 早くしとくれ」

「はい! すみません!」

 皮を剥いていると、あちこちから怒声が飛ぶ。

 新以外の皮剥き係は早々と仕事を終えたようで、別の仕事に取り掛かっていた。

「つっ」

 慌てたせいで、ナイフの刃で指先を切ってしまった。

「血がついたものは捨てな! さあ、早く」

「は、い」

 思ったよりも深く切ってしまい痛かったが、目の前に仕事は山積みだった。

 女から投げられた布の切れ端を指先を巻くと、慌てて次のカブの皮剥きに取り掛かる。焦りばかりが募ったが、必死で手元に意識を集中させた。

 仕事が終わったのは、王宮が静まり返る深夜だった。夕食用の食器を拭き終えるのに、思ったよりも時間がかかってしまったのだ。

(他の人たちは、俺よりもずっと仕事が正確で速かった。このままじゃ、追い出される。頑張らなきゃ)

 新は来る日も来る日も、皮剥きと食器磨きの仕事に追われた。早朝から深夜まで、仕事漬けだ。

 けれど、ハープの練習もおろそかにしてはいけない。新はあくまで道化師として王宮に置いてもらっているのだから。厨房の休憩時間は、ハープの練習に当てることにした。

 皮剥きの最中に指先を何度も切ってしまい、ハープの弦が指に当たると飛び上がりそうに痛いこともあった。けれど、新は厨房の仕事もハープの練習も、一日も休まなかった。やるしかない。新はこの世界で生きると決めたのだ。

 仕事に慣れ、厨房でも怒鳴られなくなった頃、新は厨房を仕切る男に「仕事をもっとくれないか」と頼んだ。

「馬鹿言うな、それ以上働いてどうするつもりだ」

 男は面食らったような顔をしていた。たしかに今でも十分仕事を詰め込んでいるとは思う。けれど、元の世界で働いていた時ほどではない。もっとできる、と新は思った。

「仕事がほしいんです。何でもいいんです。何でもやります」

「はいはい、結構な覚悟だ。でも今はお前にやれる仕事はないよ」

「でも」

 新は食い下がったが、男は遠くから女に呼ばれて、どこかへ行ってしまった。

 新は唇を噛み締めた。

 今のままでは、いけないのだ。もっと働かなければ、もっと……。

 その後も、新はあちこちにまた「仕事をくれないか」と頼んで回った。けれど、「厨房ならあるかもしれないが」としか言われず、結局厨房を仕切る男に何度も「仕事をくれ」と頼むことになった。

「だから! お前にやる仕事はもうないって言ってるだろ!」

 とうとう男に大声で怒鳴られ、新はびくりと身体を震わせた。厨房にいた他の者たちも、何事かと新と男を見つめる。

「お前にはもう十分仕事を与えてる。何が不満だ! 他の奴の仕事を奪う気か!」

「違うんです。俺はもっと、皆さんの役に立ちたくて……」

「いい加減にしろ、同じ話を何度したと思ってる!? お前にやる仕事はもうない!」

「すみません。でも、本当に何でもいいんです。面倒な仕事とか、汚い仕事とか、ありませんか?」

「お前……」

 男はいよいよ本格的に怒ったようで、血管の浮き出た太い腕を思いきり振り上げた。新の顔に向かって、腕が勢いよく振り下ろされる。

(殴られる)

 男は新より二回りは身体が大きい。本気で殴られれば、新のか細い身体など簡単に吹っ飛ぶだろう。歯か顎の骨が折れるのは必至だ。

 一瞬後に訪れるであろう激痛を覚悟して、目を固く閉じ、歯を食いしばった。

「待ちなさい」

 あまりにも近くでなめらかな低音が響き、新は驚き、思わず目を開ける。

 目の前には、飄々とした表情で男の腕を握る勇仁と、感情の行き場を失ったようにうろたえる男がいた。

 今日の勇仁はところどころが銀色に光る深い藍色の上下を着ていて、その色もまた彼によく似合っていた。まるで神様が夜明けの空を切り取って、勇仁にプレゼントしたようだ。新は思わず紛糾している場のことも忘れ、その堂々たる美しさに感嘆しそうになる。

「お、王様! 申し訳ありません」

 男は勇仁から手を離されると、慌ててひざまずき、床に頭をつけた。

「良い、どうしたのだ」

「王様、俺が悪いんです。俺が、何度も『仕事がほしい』と言うから、怒らせてしまって」

 新がおろおろと言うと、勇仁はふむ、と片眉を器用に上げた。

「どうして仕事がほしいのだ。お前には道化師の仕事を与えているだろう?」

「でも、もっと、倒れるくらい仕事がしたかったんです」

「なぜ?」

「俺の代わりは、いくらでもいるから。俺は無能な、クズだから。人の何倍も働かなきゃ、俺の生きてる意味なんてない、って思って」

 新は、自分の声がどんどん尻すぼみになっていくのを感じた。

 勇仁の前で、新はいつも問題ばかり起こしている。この前は死のうとして、今回は男を怒らせて……。

 きっと勇仁は呆れているだろうと思った。「そうだ、お前は無能なクズだ」といよいよ肯定される。断崖絶壁に追い詰められたような気持ちだった。両手を胸の前で固く握り、震えていると、勇仁は深くため息をついた。

 新はびくりと大きく身体を震わせる。

 失望された。この世界に来てから、新を心から信じ、助けてくれた唯一の人に、呆れられた。

 目の奥がじんと熱くなる。

「アラタ」

 うつむいていた新の顔が、ぐい、と上向かされる。

 緊張して冷たくなっていた新の頬を包んでいたのは、勇仁の大きな手だった。塔の上で頭を撫でられたことを、不意に思い出す。涙で潤んだ新の目を、勇仁の真っ直ぐなまなざしが射抜く。

「仕事のために生きてはいけない。自分のために生きろ。それに、自分を大事にできない人間に、やる仕事はない」

「自分……を、大事に?」

「そうだ。自分のために生きること、自分を大事にすることがどういうことなのか、それが分かるまで、お前は仕事をしてはいけない。いいな?」

 勇仁の瞳は真剣で、新はすぐさまこくりと頷いた。

 けれど、初めて言われた言葉に、ただただ衝撃を受けていた。

 勇仁は床にうずくまっていた男の肩を叩くと、お前たちは仕事に戻りなさい、と優しく促した。男は何度も頭を下げると、持ち場に戻っていく。

「私の言葉の意味が分かったら、訪ねてくるといい」

 勇仁は新に向き直るとそう言い置き、穏やかな足取りで去っていった。



 二十九年間、両親の借金のため、会社のため、叔父のために生きてきた。

(自分のために生きるって、自分を大事にするって、どうしたらいいんだ)

 新は勇仁の命令を受けてから、しばらく動けなかった。

 自分などが人並みに「自分のために生きる」だとか「自分を大事にする」だとか思うのは分不相応だと思ってきた。なのに、勇仁はそう生きろと言う。

 自分のために生きてみたい、自分を大事にしたいとは思っても、どうすればいいのか、皆目検討もつかない。

(『自分のために生きろ』か)

 ベッドの中で、勇仁から言われた言葉を反芻しながら、新は自分の過去を振り返った。

 元の世界では、自分のために生きる前に、まず両親の借金を返すために生きざるを得なかった。けれど、この世界では違う。新は自分の意思でどんな風にでも生きられるのだ。では、自分はどう生きたいのか?

 横で眠っている草太のように、才能溢れる道化師になりたいのだろうか?いや、無理だ。新は草太のように、芸を心から楽しいとは思えない。

 では、侍女のように誰かに仕えて尽くしたいか?

 そう思った時に、ふと勇仁の顔が脳裏に浮かんだ。その瞬間、新の背筋に電撃が走った。

 がばり、と新はベッドの上で身を起こす。

(そうだ。自分がどんな風に生きたいか、それだけははっきり分かる)

 自分の生き方を見つけられた興奮で、途端に胸がドキドキと高鳴り始める。この世界に来てからぼんやりと感じていたものが形になり、急に視界が開けたような気持ちになった。

 でも、まだもう一つの問いの答えが出ない。幸い、時間はたっぷりある。持てる時間の限りを使ってじっくり考えてみよう、と決意し、新は掛け布団を被り直して、目をつぶった。

 それから二週間が経った。

 使用人たちが休憩時間に談笑する姿を観察したり、ぼうっと空を眺めたりしながら、新は「自分を大事にする」ことは何かを考え続けていた。

(俺なんかがこんなことを考えていて、いいんだろうか)

 中庭で忙しく働く庭師たちを見ていると、そんな思いが湧き上がってくる。

 自分を大事にするには、もっと仕事で成果を挙げているだとか、家族のために家事を頑張っているだとか、なんらかの正当な理由が必要なのではないだろうか。誰のためにも働かず、ただ生きているだけの自分なんかに、考える資格があるのだろうか?

 足元できびきびと列を作っている蟻の行列をしばらく見つめ、新は唐突に決心した。

(王様に、会いに行こう)

 勇仁は忙しくて忘れているかもしれないが、自分なりに出した答えを伝えたい。

 新は早速、勇仁にお目通り願いたい、と侍女に頼んだ。侍女はすぐに勇仁付きの従者に伝えてくれ、翌日、勇仁の休憩の時間に会えることになった。

 新が勇仁に会いに行くと、彼は楽師たちに音楽を奏でさせていた。目をつぶり苦しげな表情で音楽を聞いていた彼は、新が挨拶をすると途端に唇に弧を描かせた。

「アラタ、もう答えが分かったのか?」

 自分にした問いかけを勇仁が覚えていてくれたことに、新は胸が熱くなる。

 勇仁は片手で音楽を止めさせると、楽師たちを下がらせた。新は勇仁と一対一になる。

「『自分のために生きること』、『自分を大事にすること』について考えて参りました。前者の答えは、分かりました。今日はそれを申し上げに参ったのです」

「ふむ。では聞こう」

「俺は、王様のために何かをしたいです。それが、俺にとっての『自分のために生きること』です」

「アラタ」

 勇仁は困ったように、眉を下げた。

「それは、自己犠牲だ。お前はまた誰かのために、自分の人生をないがしろにしようとしている」

「違うんです!」

 新は目と腹に力を込め、言った。

「これまでは、他人に強制されたり、倫理的にそうすべきだから、という理由で、生き方を選んできました。両親の借金のために生きてきたのも、叔父のために生きてきたのも、そうです。だけど、王様のために生きたいというのは、間違いなく、俺の意思です。王様は、俺に、たくさんの『初めて』をくれました。誰でも代わりがきく、無能でクズだって言われてきた俺を、信じて、助けて、庇ってくださいました。王様は、俺にとって唯一無二の人です。俺は、王様に恩返しがしたい。王様のために生きたい。それが、俺の生きる道です」

 言いきって、新は身体がカッカと熱く火照るのを感じた。まるで、一世一代の大告白だ。自分の心を切り裂いて、やわらかな中身を見せているような気持ちだった。

 勇仁は、何と言うだろう。迷惑だ、と言われたら、どうしよう。軽く受け流されたら、どうしよう。悪い予感が、じわじわと心を侵していく。

「自分の意思、か。良いじゃないか」

 勇仁は嬉しそうに頷いた。

「私のために生きたいというが、アラタは私のために何がしたい?」

「俺、法律の知識なら、少し自信があります。法律を使う仕事はありませんか」

「法律!」

 勇仁はひときわ大きな声をあげ、目を輝かせて席から立ち上がった。

「我が国では、今大規模な法律の改正をしようと試みているところなのだ。これまで全く納税義務のなかった貴族にも、所得の割合に応じて税を徴収しようと考えている。アラタ、私の言っている意味は分かるか?」

「分かります。俺の国では、その仕組みは『累進課税制度』と呼ばれています。所得だけでなく、誰かが何かを相続する場合や、贈与する場合にもその制度が適用されていました」

「ほう」

 勇仁は目を細めた。気持ちよさげに喉を鳴らす猫のような、満足げな表情だった。

「どのような法にするか、どのように運用するか、まだ検討段階なのだ。アラタ、お前も話し合いに参加するといい。お前の元の世界での知識を、いかんなく発揮してくれ」

「あ、りがとうございます! お役に立てるよう、頑張ります!」

 新は勇仁に向かって慌てて頭を下げた。嬉しい気持ちが温かさとなって、じんわりと四肢に流れ込んでいく。

「早速今日の午後に会議を入れている。アラタも出席しなさい」

「はい!」

 新は勇仁の勧めで、早速新法案の検討会に参加することになった。

 検討会に参加するのは、勇仁、そして王宮に来た初日に会った秀と他大臣数名だ。

「貴族たちからは新法案への非難の声がかなり出ています。反対の署名も千を超えるとか」

「商工業者、農民たちからは、どちらについても賛成の声が強くなっています。『持てる者から取ってくれ』と」

「ふむ」

 要約すると、新法案には貴族たちは反対、平民たちは賛成しているとのことだった。新はさもあらん、と頷く。

「王様、新法の施行は見直していただけませんか。貴族たちがこれほど反対していますと、王室、ひいては王様の威信が揺らぎかねません」

「何を言う。民のことを考えるなら新法は必ず施行せねばならん」

 弱りきったように懇願する大臣を、秀がきつい目で睨みつけた。神経質そうな黄色い目で見下され、もう一人の大臣は悔しそうに口をつぐむ。

「その通りだ。我がバーランドは世界の中でも富んだ国だが、商工業者や農民の一部には、困窮した生活を送っている者もいる。国は、民が最低限の生活を送れるよう保障してやらねばならない。そのためにはより金が必要だ。商工業者や農民たちからはすでに十二分に税を徴収している。貴族だけが税収を免れてきたこれまでの方がおかしかったのだ。民のためならば、王室や私の権威など、どうということはない」

 勇仁が言い渡すと、一部の大臣たちはうろたえるように目線をさまよわせた。秀ともう一人の大臣だけがしっかりと勇仁を見つめ、頷いている。

(新法案は貴族が反対しているから、施行に二の足を踏んでるって感じだ。王宮内でも、賛成派と反対派がいるんだな)

「アラタ、何か意見はあるか?」

 勇仁に見下ろされ、新はどきりとした。見回すと、なぜ道化師風情がここに、と大臣たちが胡散臭そうにこちらを見ており、怖気づく。

 しかし、勇仁から背に手を添えられ、新は腹の底からぐっと力が湧くのを感じた。そうだ。新は「勇仁のために働きたい」という願いを汲んでもらい、ここにいるのだ。勇仁のために働けると、証明したい。

「貴族の中に反対派が多数いるということは分かりました。それならば、例えば、消費税やたばこ税、酒税などもあわせて取り入れてはどうでしょうか。貴族が反対しているのは『自分たちだけが損をする』と思うからでは。商工業者や農民からも公平に税を徴収すれば、反対の声は収まるかもしれません」

 新が滔々と発言すると、秀の目が大きく見開かれた。他の大臣たちも、あっけにとられている。勇仁は上機嫌に頷く。

「アラタは、法律に詳しいのだ。今後は新法案の検討会にアラタも同席させる」

 背中に添えられた大きな手が、新の胸を張らせた。

「お、王様! 恐れながら、そのような道化師ごときに」

「私は身分で人を判断したくない」

 新法反対派の大臣が慌てて言いかけるが、勇仁はばさりと斬って捨てた。

「優秀な者は重用されるべきだ。アラタには私達にはない視点と知識がある。皆の者、決してアラタを軽んずることのないように」

「はい、王様」

 勇仁を除く大臣たちがうやうやしくお辞儀をして、新は心臓がドクドクと脈打つのを感じた。

 これまでずっと、周囲から「無能だ」「お前の代わりなんかいくらでもいる」と馬鹿にされてきた。

 けれど、勇仁は新に期待してくれている。勇仁の手が添えられている背中が、やけに熱く感じた。

(王様の期待に、応えたい。恩返しのチャンスだ)

 新は両手を胸の前でぎゅっと握ると、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 その日から、新は道化師ではなく、勇仁お抱えの法学者として扱われることになった。

 住処はこれまでと同じだが、生活がまるで違う。朝から夜まで、図書館にこもる生活になった。

 新はこの国のことをまるで知らない。身分はどうなっているのか、税の仕組みはどうなっているのか。

 勇仁の役に立ちたいなら、この国の成り立ちの全てを知る必要があった。新は図書館の本を隅から隅まで読む勢いで、毎日勉強した。

 新の新たな毎日は、充実していた。生まれて初めて、自分の意思で選んだ人生だ。勇仁のために生きるのだと決めてから、毎日が忙しくも、楽しかった。

 けれど、勇仁に重用されるということは、楽しいことばかりではなかった。

「痛っ」

 図書館で勉強していると、突然イスの脚をガン、と何者かに蹴られた。イスが傾いた拍子に新は体勢を崩し、腕や尻を床でしたたかに打ってしまう。身体のあちこちがじんじんと痛んだ。

 何が起こったのかと新があたりを見回すと、先日新法の検討会にいた新法反対派の大臣が近くからじろりと睨みつけていた。

「王様に取り入って、いい気になるなよ。たかがペットのくせに」

 ペっ、と唾を吐かれ、吐かれた唾が新の顔にべっとりとつく。大臣は鼻でせせら笑うと、その場を去っていった。

 新は、唇を噛んでぐっと耐えた。侍女に借りたハンカチで唾を拭うと、イスに座り直し、黙々と勉強を続けた。

 深夜まで勉強し、図書館から住処に帰る。住処のドアを開けると、草太がベッドの上にだらしなく寝そべりながら、酒を飲んだくれていた。部屋じゅうがぶどう酒臭く、新は思わず顔をしかめる。

「ああ? なんだあ? 法学者の先生は酒がお嫌いってかあ? お高くとまってんなあ!」

 草太は最近、新によく絡んでくるようになっていた。新が法学者として勇仁に重用されているのが気に食わないらしい。

「そんなこと言ってない。とりあえず、窓を開けさせてくれ」

「うるせえ! ここは俺の部屋だ! 嫌なら外で寝ろ!」

 ぶどう酒を入れていたらしいピッチャーを投げつけられ、新はとっさに顔を覆ったが、間に合わなかった。ガツン、と鈍い音がして、血がつうと目元に流れてくる。そこで初めて、額が切れたのだと分かった。

 草太は気が済んだようで、フンと大きく鼻息をつくと、ベッドの真ん中を占領して大きないびきをかきはじめた。

 新は侍女に暖炉のそばに座らせてもらうように頼み、そこで寝ることにした。

 日中は随分暖かくなってきたが、まだ夜は冷える。外出用の分厚いマントを身体にきつく巻きつけ、小さい絨毯の上で身体を縮こまらせる。切れた額が、ひりひりと傷んだ。

 目を固くつぶりながら、新は思った。

(予想できていたことだ)

 勇仁がアラタを特別扱いしてくれていることは、傍目にでも分かる。それを面白く思わない人間がいるであろうことは、容易に想像できた。

 けれど、新の心を占めていたのはやっかみへの嫌悪感ではなく、勇仁にもっと信頼されたいという感情だった。

(俺は誰にも信頼されたことなんて、ない。王様が初めてだ。王様は俺の能力を認めて、新法案を起草する仕事に抜擢してくれた。王様のために、結果を出したい。嫌がらせなんかに、絶対に負けたくない)

 元の世界にいた頃の自分ならば、心が折れていたかもしれないと思う。けれど、今の新は一人ではない。だから、頑張れる。

(絶対に、新法をいいものにする。王様が望む、民を大切にする国にするんだ)

 赤々と燃える炎を前に、新は再度決意した。



「アラタ、納税させる者は貴族に限るべきだと思うか?」

「いえ、商工業者の中にも貴族に匹敵するほどの財力を持つ者も大勢います。彼らには貴族と同様に納税義務を負わせるべきだと思います。毎年の収入がいくら以上の者は、いくらの税を治めるべき、と細かく決めてはいかがでしょうか」

「秀はどう思う?」

「よろしいと思います。ただ、どの程度細かく分けるかが問題かと」

 新は頻繁に勇仁から政務室に呼び出されるようになった。その場には秀が同席することも多く、彼から質問されることも多い。最初は彼の厳しそうな雰囲気に怯えていた新だったが、最近はすっかり慣れていた。

「過去の税収をもとに速算表を作ってみました。例えばこれを一部の州で実施してみて、問題なければ全国で実施するというのも良いかと思います」

「素晴らしい」

 勇仁は感心したように新の手渡したワックス板を見ている。

「アラタの行動力は目を瞠るものがある。私が期待した以上の働きをしてくれているようだ」

「お、恐れ多いことです!」

 嬉しさのあまりぼうっと赤面してしまった新は、秀からじろりと睨まれて、慌ててお辞儀をした。

「秀にはアラタの作った速算表で問題ないか確認してもらおう」

「かしこまりました」

 秀は丁寧に礼をすると、そのまま下がっていった。

 勇仁と新だけがその場に残される。

「最近はずっと図書館にこもっていたのだろう? 侍女から聞いている。しばし休むと良い。私と一緒に少し酒でも飲もう」

「はい! ぜひ!」

 勇仁が新の働きに満足してくれているのが分かって、新は心から嬉しかった。気持ちそのままに、元気いっぱいに返事をする。

 勇仁と新の前にぶどう酒と大皿に盛られた果物が運ばれてきた。みずみずしい輝きを放つ柿や金柑、ぶどうが美しく皿の上に鎮座していた。

「新法案の順調な進捗に」

 大鷲が羽ばたくさまが彫り込まれたグラスに、従者がぶどう酒を注ぐ。酒の入ったグラスを持ち上げて、乾杯、と言われ、新も控えめにグラスを持ち上げた。勇仁は唇を湿らせる程度に酒を舐めると、新に質問してきた。

「アラタは別の世界から来たと言っていたな。その世界には何がある?」

「私のいた世界は……物と情報が溢れていました。この世界では本がとても貴重ですが、私のいた世界では平民でも本が買えて……」

 勇仁は無邪気な子どものように、新がいた元の世界がどんな世界だったのかを聞きたがった。どんな美しいものがあるのか、新はどんな生活をしていたのかと次々に質問され、新は夢中で話した。

 元の世界のことを何の気負いもなく話せる相手は、勇仁しかいない。他の人に話しても、頭がおかしいと思われるだけだ。

(王様ってもっと、偉そうで、怖くて……そんなイメージだったけど、勇仁さんは全然違う。すごく柔軟で、優しい)

 そんな制度があるのか、そんなものがあるのか、と驚く勇仁を見るのは、楽しかった。もっと勇仁に楽しんでほしい、と、新は持てる知識と経験をめいっぱい使って、身振り手振りを加えて懸命に話した。

「そういえば、アラタの両親は借金を残して消えたと言っていたな。アラタは、両親を憎んでいるか?」

 唐突に、勇仁は新に尋ねた。

 新は驚き、口に含もうとしていたぶどう酒を噎せそうになる。

 勇仁から「憎む」などというマイナスな言葉が出るとは思わなかったのだ。けれど、改めて尋ねられて、新は悩んだ。

「そうですね……憎んでいました。金を返させる道具として俺を産んだのか、と何度も思いました。でも、親をどれだけ憎んでも、金は生まれてきません。だから、借金を返すという、目の前のことを淡々とやるしかなかったです。今は、憎しみはありません。ただ、諦めのような気持ちがあるだけです」

「そうか」

 勇仁は頷き、遠くを見つめた。

 勇仁の目線の先を見たが、そこには開け放たれた窓越しに、整えられた中庭の景色が広がっているだけだ。いつもと何も変わらない。

 ざあ、と木々を揺らす強い風が吹いた。

「この国の者なら誰でも知っていることだが、私は母を殺して生まれてきた」

 勇仁の静かな告白に、新は息を呑む。

 母を殺したとは、どういうことなのか。

「私の母は、もともと身体の弱い方だったそうだ。父はそんな病弱な母を溺愛していた。けれどいざ私が生まれるとなった時、母が死ぬか、私が死ぬか、どちらかを選ばなければならなくなった。母は私を生かすことを選び、帰らぬ人となった」

 勇仁の瞳は、風のない大海のように凪いでいた。

「父は私を呪った。生まれてきた私に、『母殺し』という名をつけようとしたほどだ。その後も父は私を憎み続けている。今もなおだ」

 勇仁は新に向き直った。

「アラタ、私はお前にだけは話してみようと思う。私は、母を殺してまで生まれてきたくなどなかった。父が私を憎んでいるように、私は両親を憎んでいる」

 勇仁の瞳が、真っ直ぐ新を捉えた。

 琥珀色の澄んだ瞳に、新だけが映っていた。

「初めて塔の上でアラタの身の上話を聞いた時、私は、『同じだ』と思った。私もお前も、両親からの無償の愛を知らずに育ってきた仲間だと。だから、ずっとお前に打ち明けたかった。お前だけは、私の憎しみを分かってくれるはずだと思ったのだ」

 絞り出すように紡がれる言葉に、新の胸が苦しくなる。

 勇仁は、たった一人で戦ってきたのだ。愛されないならば生まれたくなかった、という苦しみを、口に出すこともできず、たった一人、抱え込んで生きてきたのだ。

 それは新も同じだ。叔父に養われていた以上、生まれてきたくなかったなどとは、とてもではないが言えなかった。命を絶つ勇気もなく、生きることが毎日苦しかった。

 勇仁の苦しみを痛いほど肌に感じながらも、新は勇仁が両親に憎しみだけではない感情を抱えているように感じた。憎んでいる、と言うたびに苦しげに歪む勇仁の表情が、全てを語っていた。

「王様、俺はもう元の世界に帰ることができない以上、両親を憎もうとどうしようと何をすることもできません。けれど、もし王様のお父様がご存命ならば、どうかお言葉を交わしてみてほしいです」

「アラタ、それは……」

 勇仁が疲れたように顔を横に振った。

 もう飽きるほど考えたことだ、というような表情だった。

 けれど、新は言葉を続けた。

「誰かを憎み続けるのも、憎まれ続けるのも、つらいことです。王様は、お父様をもう愛したいと思われているのではないでしょうか」

「私が、父を、愛したいと思っている……?」

 勇仁は涼しげな目を、切れそうなほど見開いていた。

「貴族たちをあれほど敵に回してもなお、民のことを第一に考え新法を施行しようと努める王様の愛情深さを、俺は知っています。それほど愛に溢れた方が、誰かを憎しみ続けるのは相当におつらいはずです」

 新には、目の前の人が、とても小さく、心もとなく見えた。

「王様は、自分を憎む人でさえも、愛で包み込めるお方だと思います。きっと、お父様のお心に寄り添えます」

 新は思いきって、机の上で固く握られている勇仁の手を、両手で包み込んだ。発作のように、そうしたくてたまらない衝動に襲われたのだ。

 振り払われるのも承知での行動だったが、勇仁は身体を少し震わせただけで、新の手をじっと見つめていた。

 勇仁の手は、新を奮い立たせてくれる魔法の手だ。この大きな手で触れられるたび、新の臆病な心は、鋼の鎧をまとったように強くなれる。勇仁の手は新の小さな手で包むと両手でも余るほどだったが、触れられるだけで気持ちは伝わるものだ。

 新は目に思いを乗せた。自分は勇仁の愛情深さを、人の心に寄り添おうとする勇気を、信じている。必ず全てがうまくいくはずだ、という思いが伝わるように、しっかりと見つめた。

 勇仁は新の手を見つめていたが、しばらくして、指先をぎゅっと握り返してくれた。温かな感触に、新の胸にぼっと嬉しさが灯る。

「不思議だ。これまでそんな風に思ったことなど一度もなかった。ただ、父から憎まれて辛い、自分も憎み返してやると思うばかりで」

「王様の心の底にきっと、ずっとあったのです。言葉にならなかっただけで」

 勇仁は新の目を正面から捉えた。

「アラタが言うように、勇気を出して父に会ってみよう。もう長らく会っていないのだ。……また、話を聞いてくれるか?」

「もちろんです! 俺なんかで良いなら」

 新が胸を張って言うと、勇仁はどこか安心したように微笑んだ。

 そして、ふと思い出したように新に尋ねた。

「そういえば、以前新に出していた問いの答えをまだ聞いていないな。『自分を大事にすること』はどんなことか、考えられたか?」

「あっ、いえ……」

 新は勇仁の手をずっと握り続けていたことに気づき、慌てて手を引っ込めた。

 そういえば、まだ勇仁からの問いの答えが出せていない。自分で考えてはみたが、答えは堂々巡りで出せないままだった。新法案に関する勉強で忙しくしているうちに、その後すっかり忘れてしまっていたのだった。

 勇仁が、助け舟を出すように質問してくれる。

「新は休みたい時、どうする? 息抜きをしたい時はあるだろう?」

「休みたいなんて、思っちゃダメだと思っています。働かせてもらえるだけありがたいと思わなきゃと。息抜きしたい時というのも、よく分かりません。すごく疲れたらよく眠れるので、それが息抜きになっているかも」

 勇仁はぽかんとした顔をした。

「まさか、働き続けて、倒れるように眠ることが息抜きだと思っているのか?」

「そ、そうだと思っていました」

 違うのだろうか、と新は思う。

 自分などが息抜きをするなど、おこがましいことだ。

「アラタ、お前は生きる意味を仕事に求め過ぎだ」

 勇仁は眉間にしわを寄せて、片手で両のこめかみを揉んだ。

「よし、お前に『自分を大事にすること』の例を教えてやろう。例えばこの時間だ」

 勇仁が机に置いたワイングラスを指差す。

 新は首を傾げた。

「気の置けない者と、酒を飲み交わし、談笑する。緊張して張り詰めた心が、緩まないか?」

「とても幸せな気持ちになります。こんな幸せなことが自分にあっていいのだろうか、というような、飛び跳ねたくなるような気持ちです」

「そうだ、その気持ちを感じる時が、自分を大事にできている証拠だ」

 勇仁は頷いた。

「他に、同じような気持ちになる時はないか?」

「こんなに幸せな気持ちになる時は、他にありません。王様にお見せする資料ができあがった時や、王様に新法案の進捗をご報告する時は似た気持ちになりますが、今とは少し違う気がします」

「全く、アラタは本当に私が好きだな」

 勇仁に楽しげに笑われ、新は思わず真っ赤になった。

 だって、本当にそうなのだ。勇仁のために働いている時は、一秒一秒、生きている喜びを感じられる。

 けれど、勇仁のそばにいられたり、直接話ができると、それとはまた違う、心がふわふわと浮くような幸せな気持ちになるのだ。

「アラタ、たしか言葉が難しくて読めない本があると言っていたな」

 少し考えた後、勇仁は思いついたように言った。

「は、はい。すみません。侍女にも尋ねたのですが、彼女も読めなくて」

「私が読んでやろう。今晩私の寝室に持ってくるといい。眠る前に小難しい本でも読めば、より眠りやすくなろう」

「よ、良いのですか。ありがとうございます!」

 勇仁がなぜ突然本を読んでくれると言い出したのか、新にはよく分からなかった。

 けれど、勇仁と一緒にいられる時間が増えるのは、ただただ嬉しい。侍女とともに一旦住処に戻りながら、新は自分が浮足立っているのを感じた。

 侍女に勇仁の部屋へ行きたいと理由を話すと、その場にへたりこむほど驚かれた。

 勇仁は、「真白き鳥と番う」と占い師に神託を受けてから、これまで公妾さえ自分の寝室には入れたことがないらしい。

 以前聞いた話では、「真白き鳥」は相当神聖化されているようだった。「真白き鳥」候補である公妾たちさえ入ったことのない部屋に、自分などが入ってもいいのだろうか。新は急に不安に襲われる。

 しかし、勇仁がいいと言ってくれたのだ。行かなくては逆に失礼だろう。

 新は覚悟を決めて、勇仁の部屋の前まで行き、従者に取り次ぎを頼んだ。

「王様、アラタがお会いしたいと申しております」

「ああ、入れ」

 白地に金で装飾された分厚い扉の向こうから、勇仁の声が届く。

 昼に会ったばかりなのに、夜にも会えるのが楽しみで仕方なかった。どうしてこんなに会いたいと思うのだろう、と新は不思議に思う。

 焦るように鼓動が速くなるのを抑えながら、従者に開かれたドアの間を恐る恐る通り抜ける。

 部屋に入った瞬間、その豪華さに足元がすくんだ。

 天井には、勇仁が勇ましく戦いの先陣を切る絵がぎっしりと描かれている。壁面は真紅一色だが、複雑な模様が銀色で細やかに描かれ輝いていた。上から垂れ下がるシャンデリアも同じく銀で、鏡のように磨き上げられている。ここで今から舞踏会を開けと言われてもすぐにできてしまいそうなほど広かった。部屋の中央には大きなベッドが一つあり、天蓋からベッドシーツまで、全てが壁面と同じ真紅だった。

 勇仁は純白のネグリジェを着て、暖炉の前で本を読んでいた。

 ネグリジェというと可憐な女性が着るものというイメージだったが、勇仁が着ていると、逞しい身体に沿って柔らかな布が流れ落ちていくさまが、目の毒だった。凝視しては失礼だとは思うものの、珍しい姿を目に焼きつけておきたくてついチラチラと見てしまう。勇仁は新の挙動不審な様子は気にも留めていないようで、どっしりと構えている。

「お、王様、こんばんは。お招きいただきありがとうございます!」

「ああ、固くなるな。お前が『自分を大事にすること』を知るための訓練の一つだと思ってくれ」

「は、はいっ」

 そういうことか、と新は内心頷いた。

 勇仁と過ごす時間が楽しいと言ったから、勇仁は「自分を大事にすること」がよく分かっていない新のために、わざわざ時間を作ってくれたのだ。

(どうして王様は、俺にこんなに優しくしてくれるんだろう)

 じんわりと胸が熱くなった。勇仁は新に雨のように絶え間なく優しさを注いでくれる。新の恩返しは到底追いつかない。

 勇仁は暖炉の前の長椅子に新を座らせると、侍女には部屋の前で待つようにと命じる。侍女に早々と出ていかれて頼りない気持ちになりながらも、新は勇仁におずおずと本を差し出した。本はこの国の身分制度の成り立ちを記したもののようだったが、細かい部分はよく意味が分からなかった。

「こちらが、読みたかった本です。分からない部分には、リボンを挟んであります」

「ふむ」

 勇仁と新は暖炉の前で向かい合うようにして座った。読めなかった部分にさしかかると勇仁に言葉の意味を教えてもらい、ワックス板にメモを取った。

「我が国は封建制度を取っており、臣下は武勲……」

「す、すみません王様、『ブクン』とは?」

「戦争で立てた功績のことだ。最近では、北方の領土を異民族から奪還した時に、戦場で良い功績を収めた貴族たちに土地を分け与えた」

「なるほど!」

 そうしていくうちに、夜はだんだんと更けていく。

「王様、ご就寝のお時間です」

「ああ、もうそんな時間か」

 従者に告げられ、勇仁が本から顔を上げる。

 新がリボンで付箋をしていた部分は、まだ三分の二以上残っていた。しかし、勇仁の大切な時間を共有し、さらには分からない言葉の意味まで教えてもらえて、新はとても満たされていた。

「ありがとうございます、これでもっと王様のために頑張れます」

「お前に『自分を大事にせよ』と言うつもりだったのに、これではより仕事中毒を強めただけのような気がするな」

「い、いえ、そんなことは」

 勇仁は苦笑し、本を閉じて新に手渡す。

「リボンがまだあるな、また明日来るといい」

「よろしいのですか」

「遠慮するな。私もお前に話して聞かせるのは楽しかった。私のためと思って来なさい」

「ありがとうございます……!」

 新は本を胸に抱き、膝に頭がつきそうなほど深く礼をした。

 侍女に連れられ部屋を後にするも、新の心はなかなか勇仁の部屋から戻ってこなかった。

(明日も王様にお会いできる)

 新は弾む心を抑えられなかった。今ならスキップでどこまでも跳ねていけそうな気さえする。

 今晩の貴重な時間を忘れないように、新は記憶を何度も反芻して心に刻み込んだ。住処に戻り、寝床に入ってからもずっと、新は夢の中にいるようなふわふわとした心地だった。

 翌日の晩も、新は勇仁の部屋に向かっていた。

 片腕には、本ががっちりと抱かれている。早く着きすぎても失礼だとは思ったが、どうしても勇仁に会えるのが楽しみで、気が急いてしまう。

 侍女とともに廊下の角を曲がろうとした瞬間、待ち構えていた男から、顔をめがけてばしゃりととてつもなく臭い液体がかけられた。

 一瞬何が起こったのか分からなかったが、自分の服にこびりついているものを見て、かけられたものの正体が分かった。

 それは汚物だった。口にするのもおぞましい、誰かの糞尿が、新の頭から脚の先までびっちょりと濡らしていた。鼻に汚物の一部が入ってしまったようで、下水を煮詰めたようなひどい臭いがする。げほげほと新が激しく咳き込むと、遠くから女性たちのさざめくような笑い声がした。扉が開け放たれている部屋から顔を覗かせた女性と、目が合う。

「義昭様の姪の、薫子様です。公妾たちを取りまとめておられます」

 新ほどではないが巻き添えを食らった侍女が、咳込みながら小声で教えてくれる。

 笑いをこらえるように口元に手を添えている薫子の顔は、よく見えなかった。他の公妾たちも代わる代わる部屋から顔を見せ、そのたびに甲高い笑い声が廊下に響き渡った。

 新は自分の身体を見下ろした。腕の中に大事に抱いていた本はどうにか被害を免れたが、このままではとてもではないが勇仁には会えない。

「王様に、今日はお会いできないとお伝えしてくれる? 本は綺麗だから、あなたが持っていてくれると助かる」

 はい、と侍女が頷き、新をその場に置いたまま王様付きの従者のもとへ走る。新はほっとして、汚物の池の中にべちゃりと座り込んだ。「なんて汚い」「道化にお似合い」と遠くから楽しそうな声が聞こえたが、新は何も感じなかった。

 公妾たちから敵意を向けられることは予想できていた。けれど、こんなにあからさまに悪意をぶつけられるとは。新法反対派の大臣や草太にされたことが、どれだけ生易しい嫌がらせだったのかがよく分かる。

 とはいえ、自分が嫌な思いをするのは我慢できたが、勇仁との約束を守れなかったことだけが悔やまれた。

(せっかく、今日もお会いできると楽しみにしていたのに)

 気分はすっかり落ち込んでいたが、どうせ侍女が帰って来るまで新は何もできない。少しでも臭いをマシにしようと髪や服の水気を絞っていると、遠くから軽やかに走る音が聞こえた。

 楽しげに話していた女性たちの声が慌てたように去っていき、代わりに足音がどんどん近づいてくる。

「アラタ、大丈夫か」

「お、王様!? どうしてこちらに」

 ネグリジェ姿で軽く息を切らしている勇仁を見て、新は焦った。

 まさかこんなところを見られるなんて。勇仁に余計な心配をかけさせたくないのに。

 勇仁は勢いを落とさずどんどん近づいてきて、新は悲鳴をあげた。

「それ以上近づくとお身体が汚れます! 汚物をかけられたんです!」

 手を突っ張って、それ以上近づくなと言ったつもりだったのに、勇仁は顔を歪めると、勢いよく汚物の池の中に脚を突っ込み、新を横向きに抱き上げた。

「戦場ではもっとひどいものに塗れて過ごした。汚物程度どうということはない」

 勇仁は成人男性一人を抱えているとは思えないほど軽やかな足取りで、どこかへ向かう。

「ひどいことをする者がいる。ここからなら私の部屋の浴室が一番近い。使いなさい」

 新はこんなひどい状態で王様の浴室になど入れない、と言いたかったが、勇仁の足取りは風のように速い。あまりの速さに、新は舌を噛まないように口をつぐむしかなかった。

 途中で秀と出くわし、「王様、神託が……」と何やら渋い顔で耳打ちされていたが、勇仁は「アラタは良いのだ」とだけ返して歩を進めた。

 浴室は寝室の隣に据えられているらしく、まず勇仁が入った後、次に新が使わせてもらうことになった。勇仁は「汚れている者が先に使うべきだ」と言ってくれたが、新が頑として譲らなかったのだ。勇仁を汚物で汚れたままでいさせるなど、バチが当たりそうだ。

 勇仁の湯浴みが終わったと言われ、新が入浴する番になる。

 服を脱がされ、浴室に通される。新が五人は入っても手脚を伸ばせそうなほど大きな白いバスタブの周りに、温かな湯を桶に入れて持っている使用人たちがぐるりと立っていた。一人ひとりから次々と湯をかけられ、頭から手脚から、身体の隅々まで洗われる。

 猛烈に臭かった頭はすぐにハーブの良い香りに変わり、普段から丁寧に洗っているつもりだった身体も一皮剥けたようにつるりとした肌触りになった。

(さすが王様の浴室……)

 普段も部屋の浴室で身体は洗っているが、侍女が持ってきてくれる湯の量は少なく、身体を拭く程度しかできない。その点、勇仁の風呂は有り余るほど湯があって、とても贅沢だった。

 風呂から上がると、一滴の雫さえ拭き逃さない勢いで身体を拭かれた。普段着ているリネンのパジャマを着せられ、勇仁の部屋へ通される。

「おお、見違えたな」

 肩から暖かそうなローブを羽織っていた勇仁が、暖炉の前で読んでいた本から顔を上げる。新が持ってきた本だ。顔をほころばせられて、新はくすぐったい気持ちになった。

「ありがとうございます。とても気持ちよくて、天国にいるみたいでした」

「ははっ、私は風呂が好きでな。新も気に入ったのなら良かった」

 勇仁の豊かな黒髪は、前髪の一筋だけ白髪になっている。まるで闇に差す一筋の光だ。暖炉の炎の光を浴びて、そこがキラキラと輝くのが美しかった。

 暖炉の揺らめく炎を楽しげに見つめる勇仁に、新は不思議に思っていたことを尋ねた。

「王様、なぜ私の居場所がお分かりに? 王様からのお部屋からはかなり距離があったと思うのですが」

「ああ。アラタは私との約束の時間に遅れたことなどないだろう。おかしいと思って侍女に尋ねたのだ」

 侍女は言い渋っていたようだが、勇仁が強引に新の居場所を聞き出したらしい。

「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」

 新が深々と頭を下げると、勇仁は新の肩に手を置き、「やめなさい」と厳しい声を出した。

「お前が謝る理由はない。私がお前を重宝するのを、気に食わない者がいるのだろう? 私の人徳の無さが引き起こしたことだ。お前には恥ずかしいところを見せたな」

「そんな! 王様は悪くありません。俺が悪……っくしゅ!」

 勇仁に反論しようとして息を吸った瞬間、新は盛大にくしゃみをした。鼻水が垂れ、勇仁が思わずといったように吹き出す。

「湯冷めしたか」

「すみません!」

 真剣な話をしていたのに、話の腰を折ってしまった。恥ずかしくて、慌てて侍女に布を借りて鼻をかむ。

「そうだ。良いことを思いついた」

 勇仁はふと、悪戯を思いついた子どものような顔をした。

 新の両脇に手を入れると、ひょいと持ち上げ、長椅子の端に寄せて座らせる。そして勇仁も同じく長椅子に座った。勇仁は大きいので、二人で座るとやや狭い。

 なぜ勇仁専用のイスがあるのに、二人で座るのだろうと新が不思議に思っていると、勇仁は新を後ろから抱きしめるようにして、肩から羽織っているローブを新にも着せかけた。一枚の大きなローブを、二人で分け合っているような形になる。

「私はよく体温が高いと言われるのだ。私と一緒に包まれていれば、湯冷めしないで済むだろう」

「えっ、あのっ」

「ワックス板と鉄筆を持ってきなさい」

 勇仁はそばに仕えていた従者に命じる。勇仁は早速器用に片腕で本を広げており、新は従者から文具を受け取るしかなくなった。

「アラタはいつも我慢しすぎる。我慢は美徳でもあるが、お前は他人の分まで背負おうとする。私は心配だ」

「す、すみません」

 勇仁が真横でため息をつき、新は緊張で飛び上がりそうになる。

 新の頭の斜め上には、勇仁の美しい顔がある。耳のすぐそばからは、美しい声もする。風呂からあがったばかりのせいで、彼からはかぐわしいラベンダーの香りが濃密に漂っていた。

 それだけではない。新の骨っぽい二の腕には、勇仁の逞しい胸がぴったりとくっついている。

 盛り上がった筋肉の弾力を腕に感じるたび、羨ましさと憧れがないまぜになって、新の胸はドキドキと高鳴る。新はどれだけ肉を食べても運動をしても、筋肉がつかないのだ。しかもこんな時に限って、かつてキスした際に勇仁の胸に縋ったことを思い出してしまう始末だ。羞恥で頭が爆発しそうだ。

 こんなに勇仁に近づいたまま、冷静に勉強などできる気がしない、と新は耳の先まで真っ赤にしながら思った。

「商人は商業特権の代わりに王に賃金を納め……」

「王様、商業特権とはどういうものでしょうか?」

「そうだな。例えば、特定の地域で商業を営む権利や、外国人や農民と直接取引できる権利などがある」

「直接、取引できる、権利」

 最初は、勇仁の香りに身体を丸ごと包まれる感覚にあたふたしていたが、しばらく経つとどうにか心を落ち着けて会話に集中することができた。でも、頬の赤みはなかなか引かない。会話の合間に、熱い頬を両手で扇いで冷やす。

 しばらくともに本を読んでいると、従者が「王様、就寝のお時間です」と知らせに来た。

 そろそろ帰らなくてはいけないか、と新が荷物をまとめようとすると、勇仁が新の二の腕をぐいと引き止めた。

「アラタ。──今朝、父に会いに行った」

 これまでとは打って変わって、どこかおぼつかない、頼りない声だった。

 勇仁はそう言ったきり、次の言葉を探しかねているようで、唇を噛み、黙っている。

 新は自分の腕を掴んでいる勇仁の手に、そっと自分の手を重ねた。いつも温かいそれは、やけに冷えている。

「よろしければ、その先をお聞かせください」

「すごい剣幕だった。昔と少しも変わっていなくてな。『二度とお前の顔など見たくない』と、その場にあるありったけのものを投げつけられた」

 ほら、とネグリジェの袖をまくって見せられ、新は悲鳴をあげそうになった。

 陶器のように白くなめらかな勇仁の肌に、大きな切り傷の痕といくつもの青黒い内出血ができていたのだ。

「朝は深く切れていたが、もう治ってきた。割れた花瓶を投げられたのだ」

 幼い頃は剣を突きつけられたこともあるから、今日はましな方だった、と勇仁はこともなげに言う。

 新は泣きたくなった。親に会いに行っただけで、剣を突きつけられる子の気持ちはどんなものだろうか。勇仁が傷ついていることも、勇仁を傷つけているのが彼の愛する人だということも、悲しかった。

 新はそっと勇仁の傷の上に手を置き、早く治るように、勇仁が痛くないようにと祈った。勇仁を見上げると、ばちりと至近距離で目が合う。

 琥珀色の瞳は傷ついた色を帯びていて、新は心の中で彼を抱きしめながら言った。

「王様、よくぞ一歩を踏み出されましたね」

「ああ。これまでは父を見ても、怒りや憎しみが強かったが、今日は……ただ悲しかった。いつか、父と穏やかに話せる日が来るだろうか」

「来ます。必ず」

 新は言葉に力を込めていった。必ずそんな未来が来る、と新は信じた。

 勇仁ならそんな未来を引き寄せられる。そう信じているのが自分だけだったとしても、少なくとも自分は強く信じている。

 新がぎゅっと勇仁の手を強く握ると、勇仁がやんわりと握り返してくれる。

「そうなるといい」

 勇仁が、新に握られた手を額に当て、目をつぶる。

 どんなきっかけでもいい、勇仁の父がどうか少しでも息子への愛を思い出してくれますように、と新は願った。

 彫刻のように端正な勇仁の横顔を見つめながら、新はこの二日間、心の奥底に渦巻いていた不安を恐る恐るぶつける。

「王様、俺は怖いです。王様は『自分を大事にする』練習だと俺を呼んでくださいますが、『自分を大事にする』のは、自分勝手でわがままなことなのではないでしょうか? 俺なんかが、そんな大それたことを望んでも良いのでしょうか? 今この瞬間も、自分が悪いことをしているような気がしてしまいます」

 勇仁は顔をあげると、新の目を覗き込んだ。

 揺れる新の視線と、勇仁の視線が、深く絡まる。

「アラタは『自分を大事にする』練習で、私と一緒にいてどう思った?」

 新は勇仁との時間を思い返し、溢れる思いのあまり、言葉が詰まるのを感じた。

「とても幸せで、言葉にできないほどでした。他でもない自分が必要とされていることに、胸がいっぱいになって……」

「私は、私を大事にするために、お前にそばにいてほしいと頼んだ。私が楽しい時間を過ごすために、お前が必要だったのだ。それを、お前は嬉しいと言う。自分を大事にしようと生きることで、誰かが救われたり、幸福になったりする。だから、自分を大事にして良いのだ。自分を大事にするのに、何の義務も必要ない。分かったか?」

 勇気づけるように手を握られ、新は目の奥が熱くなるのを感じた。

 自分など、人並みに何かを欲するに値しない、とずっと思ってきた。「お前の代わりなんていくらでもいる」と言われてきたし、無能だ、クズだ、と言われるたびに、その思いを強くしてきた。

 けれど、新も、自分を大事にしていいのだ。自分のために生きていいのだ。

 それを勇仁は許してくれる。勇仁がいいと言ってくれるなら、新は他の誰に何と言われようと怖くない、と思った。

「私のために、お前を大事にしてほしい。いいな?」

「王様のために?」

 勇仁に熱っぽく言われ、新は首を傾げた。

「ああ、私のためだ。新法案の相談役としてだけではなく、私にはお前が必要だ。お前にずっとそばにいてほしいのだ」

 まるで告白のような甘い言葉に、新は心の限界を越えて倒れそうになった。

 勘違いしてはいけないと思う。けれど、それ以上に、勇仁に求められることが嬉しくてたまらなかった。こんなに幸せで、いいのだろうか。

「ありがとうございます、俺なんかでよろしければ」

「『なんか』は今日から禁止だ。私はお前がいいのだ。胸を張れ」

 人差し指で額を突かれ、新はもじもじと身体を揺らした。

「あの、王様、本の続きですが」

「ああ、また明日も同じ時間に来るといい」

 ぱっと新が顔を明るくすると、勇仁は大輪の花が咲きほころぶように笑った。

「ありがとうございます! 今晩は、これでお暇させていただきます」

「今日は騒ぎがあって疲れたろう。ゆっくり休め」

 侍女に肩を貸してもらいながら、新は何度も礼をして退室した。

(俺が、必要だって……ずっとそばにいてほしいだって……)

 新は嬉しさのあまり、目が潤んでくるのを感じた。

 誰かにこんなに優しくされたことも、求められたこともない。勇仁はこれからの人生で一体いくつ、自分に「生まれて初めて」をくれるのだろうと思った。

 住処に戻ると、また草太がベッドを占領している。熾火が燃える暖炉の前にごろりと横になると、新は飽きるほど勇仁の言葉を反芻しながら、目を閉じた。

 ──タ、アラタ。

「王様?」

 新は勇仁の部屋にいた。

 二人は暖炉の前で同じ長椅子に腰掛けている。すぐ隣から名前を呼ばれ、新は勇仁の顔を見上げた。

 何度見ても新鮮に、「美しい」と思う。琥珀色の瞳が磨き上げたばかりの宝石のように、暖炉の炎を反射して輝いている。軽くかきあげた長めの前髪は、熱風を受けてそよいでいる。

 ネグリジェをまとった彼の身体から濃いラベンダーの香りが漂い、入浴後だと分かった。

 ──お前にずっとそばにいてほしい、私のそばに。

「王様、ずっとおそばにいます。王様がもう俺を必要ないとおっしゃるまで」

 勇仁の手が新の頬に添えられる。

 新はうっとりと勇仁の手に頬を擦り寄せた。

 鋭い剣を握る、雄々しき戦士の手。そして、この国を平和に治めようとする優しき治世者の手だ。分厚い剣とペンのたこが、柔らかな新の頬にごつごつと当たる。

 ──アラタ、お前を愛している。

「お、王様」

 愛していると言われて、新の心臓は痛いほど跳ねた。

 勇仁に自分など、身分違いもいいところだ。自分なんかと言いかけた唇は、勇仁のもので塞がれた。新の思考は霧散していく。

 勇仁の熱い舌が、新の舌に巻きつけられる。舌の裏や口の天井を探られて、新はびくびくと身体を跳ねさせた。どちらも特に敏感なところで、舌先で少し触れられただけでぴんと勃ち上がった花芯が痺れたようになる。

「王様……」

 ──アラタ、アラタ……。

 いつの間にか、新は勇仁のベッドの上にいた。勇仁は新を押し倒し、切羽詰まったように何度も囁きながら、新の身体をまさぐる。服の下に勇仁の大きな手が差し込まれ、腰から胸へ、脚へと這っていく。

 熱い手が自分の身体を征服していく感覚は、たまらなく心地よかった。勇仁に全てを触られたい、暴かれたい、と思う。

 勇仁の下半身が尻に擦りつけられ、新は身体が一気に火照るのを感じた。勇仁の雄芯は焼いた鉄のように熱くなっていて、新の中に挿入はいらなければ収まりそうもなかった。

「勇仁様」

 自然と、勇仁を名前で呼んだ。その響きがあまりにもしっくりきて、自分がどれだけ勇仁を名前で呼びたかったのかを知った。

 乞うように何度も名前を呼び、太い首に縋りつく。挿入れてほしいと尻の谷間に彼の雄芯を擦りつけ、いよいよその先端がぬぷりと新の後孔に潜り込もうとした時──。

 はっ、と目が覚めた。

 窓から差し込む朝日が、新の寝顔を照らしていた。草太はまだ高いいびきをかいて熟睡している。

 嫌な予感がして恐る恐るズボンの前をくつろげると、思っていた通りの惨状がそこにはあった。

(夢精なんて、久々にした)

 洗い物は侍女に任せなければならず、新は恥ずかしい思いをした。

 会社員時代も、激務のあまり自己処理できず夢精することはあったが、この世界に来てからは初めての経験だ。

(それにしたって、王様となんて……!)

 あまりにもバチ当たりな相手に、新は穴があったら入りたい気持ちだった。

 夢の中で新は、何度も勇仁の名前を呼び、射精していた。その快感をぼうっと反芻してしまい、慌ててかき消す。

 勇仁の夢を見るのは、初めてのことではない。勇仁に褒められて嬉しかった日に彼が夢に出てきてくれたり、そういうことはこれまでにもあった。けれど、こんなにもはっきりとした、しかも淫夢を見るのは初めてだ。

(きっと、王様が昨日あんな嬉しいことを言ってくださったからだ)

 新は昨日ぶりに、また勇仁の言葉を反芻した。

 ──私にはお前が必要だ。お前にずっとそばにいてほしいのだ。

 何度思い出しても、心が湧き立つ。臣下として、これ以上ない言葉をもらったと思う。

 けれど、頭のどこかで「違う」と叫ぶ声がした。お前は王様を尊敬する為政者としてではなく別の目でも見ているだろう、そうでなければあんな夢を見るはずがない、と。

 図書館で本を開きながらも、目は文字の上を滑っていく。ああもう、と新は頭を掻きむしり、本を前に突っ伏した。

 そうだ、そのとおりだ。新は、勇仁と身も心も一つになりたいと思っている。勇仁を、愛している。

 勇仁は、生まれて初めて、新を信じて、頼って、守ってくれた唯一の人だ。彼を好きな気持ちはただの憧れや尊敬で出来ていると思っていたけれど、違った。新はもっと強く、深く、一心に、勇仁に求められたいのだ。

 これまでの新ならば、勇仁への恋心など失礼すぎると心の奥底にしまい込んだだろう。けれど、今の新は違った。

 勇仁は、自分なんかと卑下するな、自分のために生きろ、と言ってくれた。だから、新は勇仁への恋心を否定しない。心の中はいろいろな思いが駆け巡って嵐のようだったが、新は生まれたばかりの恋心をそっと両手で覆い守った。この初恋は、自分の宝物だ。これまで誰にも愛されず、愛したこともない自分の、初めて抱いた尊い気持ちだ。

(俺は、勇仁様を、愛してる)

 そっとつぶやくと、心の奥から湯が湧き出てくるようにじんわりと温かい気持ちになる。誰かを愛するということはこんなに幸せなものなのかと、新は初めての感覚にどぎまぎした。

 けれど同時に、この恋にあまり期待はしないように、と自分を戒める。

 相手は王様だ。自分と常識がまるで違う。それに、今は異世界から来た新を珍しがって重用してくれているだけかもしれない。いつか愛想をつかされて、城から追い出されるかもしれない。

 でも、と新は思う。遠い未来のことは一旦脇に置いておこう。勇仁が「アラタ」と呼んでくれる時の優しい声、自分だけに向けられるまなざし、それを思い出し噛みしめるくらいはいいよね、と、早い鼓動を刻む心臓の上に手を置き、密かに思った。

 その晩も、勇仁と新は本を読んだ。

 昨日とは違って別々のイスに座っていたが、イスの距離はいつもより近かった。

 勇仁に「今日は冷えていないか」と頬を撫でられ、新は羞恥のあまり悲鳴をあげそうになった。勇仁の触れ方は彼自身と同じようにとても優しくて、まるで愛撫されているような気持ちになる。うっかり下半身が反応してしまいそうになるのをこらえるのに必死だった。

 その次の晩は、楽師たちの演奏を一緒に聴いた。

 音楽の良し悪しは新にはよく分からなかったが、きっと素晴らしい音色なのだろう。新は、目をつぶり音楽を堪能する勇仁の横顔を、飽きるほど見つめた。良い時間だった。

 初めて寝室に呼ばれた日から、新は毎晩彼の寝室に呼ばれるようになっていた。

 汚物をかけられて以来、公妾たちの嫌がらせは鳴りを潜めている。侍女曰く、勇仁が薫子に「アラタに害をなすものがいれば、私が直々に罰を下す」と釘を差したとか、そんな噂が流れているらしい。

(特別大切にされている、と勘違いしてしまう)

 新は侍女からそう聞きながら、舞い上がる気持ちを抑えられなかった。

 新を守るために、勇仁はわざわざ動いてくれた、のかもしれない。噂だから本気にしないように、と自分に言い聞かせた。けれど、緩む口元は隠せなかった。

 勇仁の寝室に呼ばれるようになってしばらく経ったある日、新は勇仁から、薫子が主催する、歌を披露する宴会、通称「歌会」が近く開かれると知らされた。

「薫子の侍女が結婚するのを祝すためらしい。お前も呼ばれるだろう。歌は好きか?」

「私は下手ですが、聴くのは好きです」

「そうか。鳥人は皆、歌が好きなのだ。見目よりも歌声の美しい者ほど、異性から好かれる」

 そういうものなのか、と新は頷いた。

 ふと、勇仁は歌うのだろうか、と思った。新が今まで会った中でずば抜けて美しい声を持つ勇仁が歌えば、女性たちは骨抜きになること必至だろう。聴いてみたいような、誰にも聴かせたくないような複雑な気持ちになって、新は、恋心はままならない、と気恥ずかしく思った。

 歌会当日、新は勇仁に命じられて作っていた一張羅を着て、会場へ向かった。

 新の持っている服は、道化師の服と普段の服の二、三着に加えて、この一着しかない。勇仁から給金はたっぷりもらっているのだから使えばいいものを、染み付いた貧乏性が邪魔をしてなかなか使えなかった。しかし、彼お抱えの法学者として、人前に出ても恥ずかしくないものを作ったつもりだ。

 袖はふっくらと大きく手首は絞られている黒の上着に、同色の膝丈のパンツ、白のソックスに黒の革靴を合わせた。上下ともに身体の脇には白のラインが入っているのがお気に入りだ。

 黒々とした髪に一筋の白髪は、勇仁のトレードマークだ。それをイメージして作ってもらった。袖を通すだけで胸がときめく、素晴らしい一着だ。

 侍女に連れられて会場へ行くと、王宮で最も大きいホールが人で埋め尽くされていた。すでに若い男女たちがホール内で合唱している。人々は好き勝手に話しこんでいて、まるで音の洪水だった。

 勇仁はどこかと首を伸ばして見回すと、ホールの一番奥の壇上に座って、列をなす貴族たちから挨拶を受けていた。

 自分より一回りも二回りも大きい周囲の人々をかき分けつつ、新は壁際の空いていた席に座り、ほっと息をついた。

 侍女に頼んで食事を持ってきてもらう間、新は周囲の人混みを見回してただただ圧倒されていた。皆、ここぞとばかりに着飾って、自分の歌う番を待っているようだった。

 合唱が終わると、貴族のご子息・ご息女らしい者たちが、次々に歌う。

 誰もが「どこの息子さんは低音がイマイチ」だとか「どこの娘さんは高音が耳障り」だとか、小声で噂話をしている。歌の教養のない新には、誰の歌声もそれなりに美しく聴こえる。新の周囲の人々は、新を見てまたひそひそと何かを話している風だったが、新は豪勢な食事を味わうことに集中した。

 次々と歌い手が代わり、そろそろ宴も終盤か、という頃だった。

 赤茶色のうねった髪にたくさんの宝石飾りをつけた女性が、銀色に輝くチュニックを翻し、ホールの中央に進み出た。

 侍女が「あの方が薫子様です」と耳打ちして教えてくれる。

 あれが、と新は薫子をしっかりと見た。つり上がった意地悪そうな冷たい黄色の瞳は、叔父そっくりだ。薫子は優雅に勇仁に礼をすると、高い声で言い渡した。

「皆の者、このたびは私の侍女の結婚祝いに集まってくれて嬉しく思う。多くの者たちの美声に、誰もが酔いしれたであろう。さて、ここで一つ出し物を見せたい。ここ数ヶ月、王様のご寵愛を一身に受けておる者がおる。皆、存じておるな?」

 場がざわざわと不穏な雰囲気に満ちる。

 新は嫌な予感がした。

「そう! アラタ! お前の歌がどれほどのものか、皆が気になっておった。ここで今、腕前を見せるが良い」

 周囲の視線が、ざっと新に集中した。

 最悪だ。

 手脚の指先から血の気が引いていく。色とりどりの瞳が、新を値踏みするように見ている。まさか、自分が歌を歌えと指名されるとは、思ってもみなかった。

 新は勇仁お抱えの法学者というだけで、貴族でも何でもない。ならば、地位の高い薫子の命令に、従うしかない。

 新は侍女に肩を貸してもらい、薫子が仁王立ちしているホールの中央までよろよろと進み出た。

「さあ、好きなだけ歌え」

 薫子は親しげに新の肩に触れて、自分の席に戻っていった。上品に席に腰掛け、にんまりと笑いながら新を見ている。

 新が横目で勇仁を見ると、勇仁は心配そうに新を見つめていた。

 勇仁がここで新を庇えば、また彼に負担をかけさせることになる。それは嫌だった。ここはどうにか切り抜けてみせる、と新は腹を決め、すうと息を吸った。

 ──孤独の中 怯えていた 僕はずっと一人だと 誰にも愛されないと

 でも 闇の底 手を差し伸べてくれたのは あなた

 誰よりも強い光で 誰よりも強い力で 僕を抱き上げてくれた

 僕には眩しすぎるけれど 誰よりもあなたを想っている 

 この命尽きるまで

 元の世界で、新が好きだった流行りの歌だった。いつも街中で流れていて、記憶に残っていたのだ。

 それに、歌詞がまるで自分の勇仁への想いそのままだったから、歌うならこの歌がいいと思った。下手でも、勇仁に聴いてもらうならこの歌がいい。誰にも分からなくても、新だけが歌に乗せた想いを分かっていればいいのだ。

 ぶっ、と薫子の侍女が吹き出した。それをきっかけに、集まっていた貴族が腹を抱えて大声で笑い始めた。

「なんてひどい歌声!」

「勇仁様のご寵愛を受けているなんて、嘘じゃないかしら。だってあんな……ねえ?」

「無様だな、まったく聴けたものじゃない」

 誰もが口々にそう言って、笑い転げた。

 草太に「お前は音痴だ」と渋い顔をされて以来、歌には自信が持てなかったが、目の前の貴族たちの反応を見て、自分の歌はそれほどひどいのだと、新は真っ赤になった。

 薫子は手で口元を押さえて、勇仁を横目でちらちらと見ながら笑いを噛み殺している。

 周りを取り囲むようにして笑われて、新は自分の足元をじっと見つめることしかできない。勇仁の顔に泥を塗ってしまったことが申し訳なくて、顔を上げられなかった。

 その時だった。

 ──闇の中でお前を見つけた 一人立ちすくむ背中が 自分と似ていた

 誰の手も取って欲しくない 私の手を取れと 叫んだ

 勇仁が壇上ですっくと立ち、歌っていた。

 薫子が、薫子の侍女が、その場にいた全員の貴族たちが、驚き、勇仁を凝視していた。

 新はなぜ勇仁が急に歌ったのか分からなかったが、その歌声の美しさに聞き惚れた。繊細ながらどっしりと力強く、まるで心細さに怯える新を奮い立たせるような美声だった。思わず背筋が伸びる。

 歌詞が自分の歌ったものとどこか似ていて、新は不思議な気持ちになった。

「王様が……!」

「王様が歌われた!」

「返歌を歌われた!」

 貴族たちがざわめいていたが、勇仁は新を見つめ、歌い続ける。

 勇仁の真剣な瞳と、新の不安げな瞳が、絡まった。

 ──誰にも渡さぬと決めた もう何も怖くはない たとえ神さえも

 お前に欲してほしい 私以外いらないと 私以外の何もいらないと

 勇仁が歌い終えると、しん、と静けさがホールを包み込んだ。

 それを破ったのは、薫子の金切り声だった。

「いやあああああ!!」

「薫子様!」

 彼女は頭を両手で掻きむしり、高価そうな飾りを力いっぱい足元に叩きつけた。宝石が床で砕け散る。

「いや!! こんなの、いや!!」

「落ち着いてください薫子様!」

「お前達、薫子様を押さえろ!」

 薫子の周りに使用人たちが集まり、取り乱す彼女を懸命に押さえる。しかし薫子は半狂乱になっており、誰の手もつけられない。

 貴族たちは薫子の錯乱っぷりに動揺しているようで、そそくさと会場を後にする者、おろおろとその場で慌てふためく者など、さまざまだった。

 新は貴族たちの波に飲み込まれかけたが、ぐいと誰かに腕を引っ張られた。

「王様!」

「しっ、この隙に逃げ出すぞ」

 大柄な貴族たちに挟まれて窒息しそうになっていた新を抱きとめたのは、勇仁だった。勇仁は新をひょいと横抱きにすると、さっさとホールの奥へ向かった。ホールの奥には小部屋があり、そこを抜けると広い廊下に出る。いくつかの部屋を横切ると、勇仁の寝室に出た。

 普段部屋の前にいる騎士も、並んでいる使用人も、今は歌会にかかりきりのようで誰もいなかった。がらんとした寝室は普段以上に広く見える。

 寝室には大きな半円状のバルコニーがついており、中庭が見渡せる。空にはぽっかりと月が浮かんでいて、青白い月の光が中庭を明るく照らし出していた。

 勇仁は新を抱いたままバルコニーの窓を開けると、新をそっとデッキチェアに座らせた。

 さあ、と夜風が吹いて、二人の髪をなびかせる。

 成人男性一人を担いで走ったというのに、勇仁の額には汗の一滴も浮かんでいない。

「災難だったな」

「まさか人前で歌わされるとは思わなかったです」

 新が苦笑すると、勇仁も笑った。

「薫子は嫉妬深い。新に何も仕掛けてこないのが怪しいとは思っていたが、まさかな」

「あの、そういえば薫子様は、王様が歌われた後、どうしてあんなに怒って……?」

 周囲の貴族たちは「王様が歌った」ことにひどく驚いていた。他の貴族だって歌っていたのに、王様が歌うのには何か意味があるのだろうか。

「新は、あの歌をどう感じた。私の歌を聴いたろう?」

 勇仁は珍しく新の質問には答えず、質問を被せてきた。新は先ほど聴いたばかりの歌を反芻する。

 ──闇の中でお前を見つけた 一人立ちすくむ背中が 自分と似ていた

 誰の手も取って欲しくない 私の手を取れと 叫んだ

 誰にも渡さぬと決めた もう何も怖くはない たとえ神さえも

 お前に欲してほしい 私以外いらないと 私以外の何もいらないと

「とても……一途な愛だと思いました。神様さえ怖くないと思うくらい誰かを求められるって、すごいことだと思います」

 新が言うと、勇仁はしんと静かな瞳で新を見つめた。

 新が言うと、勇仁はしんと静かな瞳で新を見つめた。

「王が返歌をするのは、王妃にだけだ」

「え?」

 新は目を限界まで見開いた。

 王妃にだけ?それは、一体、どういう意味なのか。

 言葉の意味が、頭に入ってこない。

「あの歌は、私のお前への想いだ。私は、お前を愛している。伝説の白き鳥など要らない。お前さえいればいい」

 勇仁は、座る新の前にひざまずいた。

 怖いほど真剣な瞳だった。

「私に愛されるのは、怖いか?」

「いいえ……いいえ……!」

 新は目の前で起こっていることが、夢なのか現実なのか分からなかった。こちらを見つめる勇仁の瞳から目をそらせず、ただ夢中で答える。

 身体の中で感情がめちゃくちゃに暴れまわり、制御できない。勇仁は、本当に自分を愛しているのだろうか。その証を求めるように、新は勇仁に震える手を伸ばした。

 勇仁は新の手を取ると、ぐいと自分の方に引きつけ、抱きしめた。

 勇仁に抱きしめられるのは、二度目だ。広く逞しい胸に頬を押しつけられ、その力の強さに、新は夢ではないのだと痛感した。

 今この瞬間をわずかでも見逃したくない、と見開いていた目から、ぼろりと涙がこぼれ落ちた。

 勇仁が、新の顔を覗き込む。

「王様を、愛して、いいのですか」

 戸惑いながら尋ねた言葉に、勇仁の力強い答えが返ってくる。

「私以外を愛するなど、許さない」

 新の両目から、ぽろぽろと涙がこぼれていく。人は感極まると涙が自然に溢れるのだと、新はこの時初めて知った。

 勇仁は新を上向かせると、頬を流れていく涙を唇で吸い取った。

「お前の涙の一滴さえ、私のものだ」

「俺の全ては、王様のものです。他の誰のものにもなりたくない」

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