第4話 決意

 あれから三日間、僕は学校すらも休み、ずっとこの部屋のベッドに仰向けになって、白い天井と会話して過ごした。食欲も睡眠欲も湧かず、おばあちゃんが扉の前に置いてくれるご飯も、毎回半分ほど残してしまったし、夜もまともに眠ることができなかった。

 誰にも会いたくなくなって、何もしたくなくなった。頭の中を息もできないくらい濃い霧が覆い尽くして、何も考えられなくなった。何も遺さずに死んでいく虚ろな時間に、ただ身を委ねていた。


「おーい! 生きてるなら返事してー!」

 部屋にこもって三日目、金曜日の午後四時半頃。静まり返った部屋に、突然声が響いた。「どちら様ですか?」とは聞かなかった。聞くまでもなかった。

「どうして来た?」

「プリント届けに来たの。そっちこそ、どうして三日も学校休んだの?」

 相変わらずの優しい声。いつもは心地よいのに、今はただただ不快だった。

「美冬に話すことは何もない。プリントなら、ばあちゃんに預けて、美冬はもう帰ってくれ」

「なんか、やけにすげないのね。でも、どうしても光平本人に直接渡さないといけないプリントがあるから……」

 ドアの下の隙間を通り、一枚の分厚い封筒が押し込まれるように届けられた。学校から渡される類のものではないというのは、何となく雰囲気でわかった。

「これ、学校からのプリントじゃないな?」

 返事は聞こえてこなかった。どうやら、もう帰ってしまったようだ。

 一体、これは何なのだろうか? 美冬が何かメッセージでも書いてよこしたのか? そんなことを考えながら、封筒を手に取った。その封筒は、外国の映画でしか見ないような、赤い封蝋で閉じられている。実物は初めて見るなと思いながらも、早く中身を読みたかった僕は、それを雑に引きちぎった。

 中身を取り出し、書かれた字を見てから数秒で、僕の頭は真っ白になった。

 何度目をこすっても、僕の視界に飛び込んできたその字の輪郭は、少しも変わらない。その字は、間違いなくお母さんのものだった。これはたぶん伯母さんが言っていた遺書だ。

 わけもなく手が震えた。まだ心の準備が整っていないはずなのに、その文字がお母さんのものだとわかった瞬間から、僕の目はかじりつくように、その文字を追っていた。

 これはきっと、僕がお母さんと「会話」をする、最後の機会だ。


「   光平へ 

 

 この手紙を読んでいるあなたは、一体何歳になっているのでしょうか? それを知ることは、私にはできませんが、きっと全ての秘密を知った状態で、あなたはこの手紙を手に取っているのだと思います。

 恨み、怒り、悲しみ、失望……あなたが今、一番に感じているのは、どのような感情なのでしょうか? もしかしたら、こんな手紙など、すぐにでも破り捨ててしまいたい気持ちなのかもしれません。だとしたら、少し待っていてください。最後に少しだけ、あなたとお話がしたいのです。

 実は私は不妊症で、二十五歳の時に優斗と結婚してから、三十五歳になるまでの十年間、ずっと子供がほしくて、不妊治療に取り組んできました。ですが、いくら頑張っても結果は伴わず、ちょうど十年目の節目ということで、養子をもらうことに決めたのです。

 施設で初めてあなたを見た時のことを、私は今でも鮮明に覚えています。当時あなたは一歳でした。あなたのその透き通るような目は、一瞬のうちに私の全てを奪っていきました。

 あなたと過ごした日々の一秒一秒は、ダイヤモンドの一粒一粒と同じくらいの価値がある、愛おしくて、幸せに満ちたものでした。

 そして二年後、あなたが三歳の時、真由美は生まれました。もちろん、嬉しかったです。幸せ過ぎて心臓がおかしくなりそうでした。ですが、あなたに対する思いも、以前のまま決して変わってはいませんでした。私も優斗も、あなたを真由美と比較したり、注ぐ愛の量を傾けたりしたことは、一度もありませんでした。二人とも正真正銘の私たちの子供です。

 ……真由美が小児がんだと告げられた時は、本当に頭が真っ白になりました。悩みに悩み、考え抜きました。その結果、私たちが最終的に選んだのは、あなたをおいて自殺するという、最悪な方法でした。

 怖いこと、苦しいことからは、ただひたすらに逃げる。そういった、生まれ落ちた時のまま、何も変わらない本能のようなものに、私たちは最後まで打ち勝つことができませんでした。成人して大人になっても、子供を持って親になっても、人間という動物の根本的なところは、実はあまり変わらないのですね。

 私たちがあなたをおいていったのは、決してあなたが養子だからとか、そういう理由からではありません。ただあなたに生きてほしかったからです……なんて、こんなことを言ってもただの言い訳にしか聞こえませんよね。

 私たちがあなたにしたことは、裏切りです。許されない行為です。理由はどうであれ、事実は何も変わりません。私は母親失格です。

 ですが、一つだけこんな私のわがままを聞いてくれるなら、私たちの代わりになるような、心の底から一緒にいたいと思えるような人を、早く見つけてください。

 あなたに出逢えて、本当に幸せでした。              

                                母より  」


 気がついたら、泣いていた。幾筋もの温かいものが頬を伝って落ちていき、手紙を黒く濡らした。同じ涙のはずなのに、三日前に流したあの涙よりも、ずいぶん軽く感じられた。

 地層のように積み重なっていた色々な負の感情は、可笑しいくらい簡単に絆されていった。


「話は、光平のおばあちゃんから全部聞いたよ。ショックなのはわかるけど、来週はちゃんと学校来てよね。光平がいなかったら何というか、困るんだよ私。だからさ、絶対来てね。約束だよ」

 帰ったふりをしていただけだったことに驚きながらも、心の中で返事をする。震えて、声に出すことはできないけれど。


「当たり前じゃないか、行くに決まってる。僕をおいていった二人を、僕はやっぱり許すことができないけれど、だからこそ、僕は自分を愛してくれている人たちを、決してないがしろにしない、おいていったりしないと決めたんだ」

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