母娘の宿

「エスタは無事かしら。よく眠っているようだったから、置き手紙だけ残してお城に行ってしまったのよね……驚いていないといいのだけれど」


 ヴァンが宿の扉を開けると、食堂とキッチンとを往復するように忙しなく駆け回るエスタがいた。なにやら慌てふためいている様子で入ってきた一行にも気付かない。


「エスタ、ただいま」

「あっ……皆さま、申し訳ございません!」


 ミアが声をかけると、エスタはぴゃっと小さく跳び上がり、勢いよく頭を下げた。二本のお下げがエスタの動きにつられて大きく跳ね上がる。見るとどうも随分焦って編んだようで、所々編み損なった後れ毛が跳ねている。


「お客様がいらっしゃってるのに寝坊をするなんて……なんとお詫びを申し上げれば良いか……」

「いいのよ。ずっとお宿のことと、お母さまのことで大変だったのだもの。たくさん眠れたのだから寧ろいいことだわ」


 萎縮するエスタに対し、ミアは全く気にしていない様子でのんびり微笑んだ。

 エスタが怖々顔を上げれば、三人のうち誰一人としてエスタを責めていなかった。クィンは元々が無表情なのでわかりにくいが、エレオスと対峙したときの張り詰めた空気を思えば、いまの彼は言うに及ばず。ヴァンに至ってはキッチンから漂う煮込み料理の匂いに気を取られている様子だ。


「ミアさん、皆さま、本当にありがとうございます……! すぐにお食事のご用意を致しますので」

「ありがとう。昨日のスープも美味しかったから楽しみだわ。お料理が出来るまで、わたしたちはお部屋で待っているわね」

「はいっ、準備が整いましたらお部屋に伺います」


 深々と頭を下げて見送ると、エスタは再び食事の準備に取りかかった。


「本当に皆さん、優しくていい人だなぁ……こんなに楽しいお料理はどれくらいぶりだろう……このままお母さんも良くなってくれたら言うことはないんだけど、高望みしすぎかな」


 獣肉や魚が食べられないミアには昨日とは違うスープとデザートを、筋力と体力を使う戦い方をしていそうなヴァンには体力がつきそうな獣肉と香草を使った料理を、それぞれ作る。元々料理は好きだったが、最近は食材を買うことも出来なかったため腕を振う機会にも恵まれなかった。

 それがいまだけは、客のために最大限おもてなしをすることが出来る。

 彼らにはお礼を言っても言い尽くせないほどの恩がある。それをせめて、泊まっているあいだに少しでも返せたらと、エスタは腕によりをかけた。

 石鍋に具材とスパイス、調味料を入れて竈に預けたところで、一息吐く。すると、廊下の奥から誰かゆっくり近付いてくる足音がして、エスタは首を傾げた。


「どなたかお風呂に行ってらしたのかしら……?」


 それなら水でも出したほうがいいだろうかとキッチンから顔を覗かせたエスタは、息が止まるほど驚き、目を見開いたままその場で固まってしまった。


「エスタ」

「お、かあ、さん……?」


 信じられないといった様子でエスタが呟く。視線の先に佇む人影――――エスタの母親は目を細めて微笑むとエスタの傍まで歩み寄り、手を広げてやんわりとエスタを抱きしめた。一年も寝たきりだったことを思わせない温かな腕に包まれ、大粒の涙を零して何度も母を呼んだ。


「ごめんなさいね……あなたを独りにしてしまって。もう大丈夫よ」


 いったいなにがあって、急に回復したのか。

 そんなエスタの疑問を察したかのように、母が答えた。


「さっき優しい歌が聞こえてきてね、誘われるように眠ったら朝には嘘みたいに体の重さが消えていたの。体を動かすのにも全く不自由しなくて、寝たきりだったなんて信じられないくらいよ」

「その歌なら私もさっき聞いたわ。昨晩聞こえてきた歌もそうだけど、凄く優しい声だった。そうだ。私、その歌を聞いていたらいつの間にか眠っちゃってたんだ」


 雲に包まれるような、晴れやかな空の下で花に囲まれているような、えも言われぬ安息を思い出した。ついでに寝坊した事実も思い出し、エスタは母の腕の中で密かに落ち込む。


「ねえお母さん、お客様が来てることは知ってる?」

「ええ。可愛らしいお嬢さんのことは知っているわ。昨日声をかけてくれた子よね」

「聞こえてたの?」


 エスタの問いに、母はおっとり頷く。


「あなたの声も聞こえていたわ。うっすらと意識だけはあったから。あなたがひとりがんばってることを知っていたのに、なにも出来なくて心苦しかった」


 眉を下げ、目を伏せて母は語る。

 あの日の夜。ただ風邪が悪化しただけだとばかり思っていたが、気付けば意識ごと体が重くベッドに沈み込み、指一本自由にならなくなっていた。声を出すことも瞼を押し上げることも出来ず、眠っているとき以外は意識が僅かに残っているのにそれを伝える術すらなかった。

 隣室でエスタが泣いているときも、母にぽつりと弱音を零したときも、エレオスの行動に怯えて混乱しているときも。なにも出来ない無力感を、ひたすら味わい続けていた。それは、エスタが想像する以上に母の胸を苦痛で引き裂く日々であった。


「そうだったんだ……本当に、治って良かった。でも、どうして急に……?」

「何となくだけれど、あの歌が治してくれたような気がするわ」

「あの歌……」


 思い出すだけで胸が温かくなる。確かにあの不思議な歌なら、原因不明のおかしな病を治すことが出来そうだと思える。根拠なんてないけれど、何となく。


「そうだ。他にもクィンさんとヴァンさんって方が来てるの。フローラリアと妖精とヒュメンのパーティなんて珍しいよね」

「そうね。でも、旅の事情はどんな方であれ探らないものよ」

「うん、もちろん」


 そんな話をしていると、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。竈に預けていた肉料理が完成しつつあるようだ。


「あら……この匂い、グゥの香草煮込みかしら? こんな高級品、よく買えたわね」

「それが……」


 エスタはミアたちが此処を訪れてからのことを、食事の支度を進めながら母に話し聞かせた。食材が殆どなかったがために、客人に買い出しをさせてしまったことや、王子の凶行。それにより、ミアに怪我をさせてしまったこと。母が倒れた一年前からろくに眠れなかったのに、昨晩の歌で嘘のように眠れはしたが、代わりに寝坊をして客人を見送れなかったこと。

 思い返せば失敗してばかりの二日間だった。だというのに、彼らはエスタを責めるどころか料理を褒めてくれたりエスタや母の体調を気遣ってくれていたことも、全て包み隠さず話した。


「ミアさんたちが来てくださらなかったら、私はきっと、エレオス様の提案を呑んでしまっていたと思う……本当に、どうすればいいかわからなくて……」

「エスタ、あなたは良くやってくれたわ」


 俯くエスタの頭を引き寄せ、優しく抱きしめながら囁く。

 母の記憶にあるよりずっと痩せている娘の肩を抱き、暫くそうしてから、一つ息を吐いた。


「さあ、切り替えましょう。お客様をお待たせしているのだから」

「うん」


 エスタは涙の痕が残る頬を拭って、前を向いた。その顔に強がりの色は最早微塵もなく、彼女の持つ本来の輝きが戻っていた。

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