狂気の王子

「彼らが此処を訪れたのは、ヴァンが出て行って、暫く経ってからのことでした」


 眠るミアの傍にスツールを置き、其処に腰掛けて介抱しながら、クィンは灰空から落ちる冷たい雨だれのような声で語り始めた。


 大仰な装備を身につけ、エレオスとそのお付きたちは現れた。護衛騎士が警護用の装備を纏っていること自体は何ら問題ないことだが、エレオスの格好が異様だった。とても宿を訪れるだけとは思えない、大仰な魔術用の杖を携えていたのだ。

 彼らは扉を叩き開けると無遠慮に入り込み、不遜な口調でエスタを呼びつける。


「エスタ! 今日という今日は、僕と共に来てもらうぞ!」


 出入口を塞ぐ形で、エレオスと護衛騎士二人が並び立つ。

 エスタは客室から戻る途中、階段下で彼らと相対し、何処にも逃げられない状態で立ち尽くした。


「いったいなにが不満だというのだ? 母の病は治り、宿も立て直せる。なにも悪いことなどないというのに、僕を拒む理由はなんだ」

「そ、それは……」


 拒むなどと、とんでもない。寧ろエレオスのほうこそ、何故こんなにも寂れた宿の一人娘などに執着しているのかがわからなかった。

 確かに、なにもかも彼の言う通りなら、一つも悪いことはない。病に臥せっている母の病は治り、宿も以前の活気を取り戻せるかも知れないのなら。だが、だからこそ納得出来なかった。エレオスに其処までする理由がない上、彼の言葉の端々、表情の一つが、それだけではないとエスタの胸に警鐘を鳴らすのだ。

 頷いてはいけない。折れてはいけない。従ってはいけない。願ってはいけない。

 そんな思いが、胸の奥で強く反響している。


「もう良い!」


 煮え切らない態度のエスタに痺れを切らし、エレオスが叫ぶ。

 諦めて帰ってくれるのかと思ったエスタの淡い期待を、エレオスの『構え』が打ち砕いた。


「え……エレオス様……?」

「こうも言って聞かぬなら、連れ去るまでだ」


 手にしていた杖の先をエスタに向け、にたりと口元に嫌な笑みを浮かべる。左右に控えていた護衛騎士も驚き動揺したが、彼らは主人の行いを止めることは出来ない。

 時間が止まったような空間の中、エスタは光が収束していく杖を見つめ――――


「エスタ!」


 気付いたら、床に倒れていた。

 いったいなにが起きたのか。ハッとして辺りを見回すと、先ほどまでエスタがいた場所でミアが倒れており、それを護るようにしてクィンが武器を抜いて立ち塞がっていた。どうやら、エスタは真横に突き飛ばされたようで、無意識のうちに倒れる体を庇っていたらしい手が僅かに痛んだ。

 主人に武器を向けられた騎士たちも、同様に武器に手をかけている。だが、抑もの原因は、主人が一方的な暴力をふるったからに他ならない。騎士たちには、剣を抜く理由はあっても切り捨てる理由はないために、刃を向けられずにいた。


「立ち去りなさい」

「っ……! 次は必ず連れ帰るからな!」


 クィンの声に、先ほどまでの剣幕が嘘のように縮み上がり、エレオスは捨て台詞を吐いて護衛と共に逃げ帰っていった。

 去り際、護衛騎士たちが安堵したように見えたのは気のせいではないだろう。


「ミア様……」


 扉が閉まり三人の足音が遠ざかって行くのを確かめてから、クィンはミアの傍らに膝をついて意識のない小さな体を抱きかかえた。倒れているミアの周囲には、魔術の衝撃で散ったと思しき、花翼の花弁が無残にも散らばっている。

 その姿を改めて目の当たりにし、エスタは震えながら大粒の涙を零した。


「どう、して……なにが……お、お客様……」


 何故エレオスは突然あのような暴挙に出たのか。大事な客であるミアにかけられた魔法は何なのか。己の身になにが降りかかっているのか。どうすれば良かったのか。

 混乱する頭は何一つまともな思考をしてくれず、腰が抜けた状態から暫く立ち直ることも出来なかった。


「あ……お……お水を……布を、とってきます……」


 錯乱しながらもエスタは震える足を叱咤して立ち上がり、宿の奥から濡らした布を持ってきてミアの頬に当てた。殴られたわけではないので、気休めにしかならないとわかっていても、なにかせずにはいられなかった。


「ご、ごめんなさい……お客様に、なんてこと……私……」

「あなたに咎はありません。それに、これは衝撃魔法です。人の身で受ければ三日は目が覚めずにいたはずです。……酷なことを言うようですが、恐らく彼は、あなたの意識を奪ってそのうちに既成事実を作ろうとしたのでしょう」

「そんな……そんなこと…………でも……」


 それほど強い魔法を躊躇なく使ったこと。それをミアが受けてしまったこと。彼がしようとしていた諸々に、少なからず心当たりがあること。そして彼は、最後に次と言っていたこと。唯一の家族である母が倒れているいま、頼れるものもないのに次々災難が降りかかったせいで、心の許容を超えてしまった。

 エスタは床に座り込み、ひたすら謝罪と混乱の言葉を繰り返しながら泣き続けた。


「とんでもねえな……」


 クィンの話を聞き終えたヴァンは、抉るような溜息を吐いた。

 話を聞けば聞くほど、冒険者でも何でもない宿屋の娘では、混乱して泣くことしか出来なくなっても仕方がない事態だとしみじみ思う。

 もし全員で出かけていたら。もしこの宿を選んでいなかったら。今頃彼女は、誰に知られることもなく城へと連れ去られていたことだろう。


「あの姉ちゃんも大概災難だが……」


 其処で、ヴァンはチラリとミアへ視線をやった。


「嬢ちゃんは大丈夫なのか」

「ええ。魔法種族は魔術耐性が高いですから、間もなく目を覚ますでしょう」


 クィンの言葉通り、ミアは寝起きのようなとろけた声を漏らして、うっすらと目を開けた。


「……ぁ……ヴァン、おかえりなさい」


 不思議そうに視線を巡らせ、傍にクィンだけでなく買い出しに行っていたヴァンがいることに気付くと、ミアはふにゃりとした笑みを浮かべてヴァンを見上げて暢気なことを言った。

 そのあまりにも害意に無頓着な様子に、ヴァンは嘆息しつつくしゃりとミアの髪を撫でる。


「ただいまだが、そうじゃねえ。なんだってあんな無茶したんだ」

「ごめんなさい……危ないって思ったら、飛び出していたの。でも、あれをエスタが受けていたら、きっと今頃もっと大変なことになっていたと思うの……」

「それはそうだろうがよ。誰かを助けるにしても自分を捨てるような真似はすんな。姉ちゃんもだいぶ参ってたぜ」

「……エスタ……そうよね、目の前で急に倒れたりしたらきっと怖かったわよね……ごめんなさい……クィンも、護ってくれてありがとう。気をつけるわ」


 そよ風のような声でミアが囁くと、クィンは傍らに跪き、細い体を抱きしめた。

 縋るような腕で体を包むクィンの冷たい体温を、ミアの小さな手が抱き返す。


「もうあなたを置いて飛び出したりしないわ。約束よ、クィン」

「……はい、ミア様」


 ヴァンは、クィンがミアを一方的に護るばかりかと思っていたが、ミアはクィンに護られることで彼の心を護っているようだと、彼らの姿を見て確信した。

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