缶コーヒーと小説を

那木 馨

初恋と桜の毒

 世の中が大正と呼ばれるようになった頃。中学校に入って3年目の春。僕は生まれて初めての恋をした。

 相手は同じ学級に通う同級生だった。広い敷地にお屋敷を持っている徳田という名家の出身で、穏やかで人当たりがいいお坊ちゃんだった。冴えない僕とは違って教室ではいつも中心になって皆を纏めて、明るく誰とでも仲良く話している姿をよく目にしていた。


 僕らが通う学校は木造の古くからある所で、校門の側に見える桜が大きな目印になっている。春の霧雨が降り続いていたある日、徳田はその桜の下で傘をさして木を見上げていて、すぐ脇の廊下を歩いていた僕は偶然その姿を見つけてしまった。初めは傘と制服の帽子に隠れて誰だか分からなかったけど、隙間から横顔がのぞいた時すぐに徳田だと気が付いた。離れていても分かるハッキリした目鼻立ちの綺麗な顔はこの学校に一人しか居ない。彼は傘からはみ出た黒い制服の肩が濡れているのに、何かを待つようにじっと身じろぎひとつせずに立ち尽くしている。 風邪を引くんじゃないかと思って歩きながらその様子を目で追っていた。


注意してよく見ると徳田は、雨に打たれる桜を見ながら泣いていた。声にも表情にも出さないで、ただ桜を見て目から雫をこぼしている。校舎の窓ガラス越しでもその様子が見てとれた。 それはあまりにも静かで繊細な泣き方だった。頬を伝う涙を見た時、とてつもないが僕が僕の体に走った。まるでぶつかった時みたいに胸が押し潰されているように苦しくなった。もちろん実際ぶつかったことなんてないけれど。でも、驚きのあまり完全に足が止まったのは本当だ。現実のはずなのにまるで芝居の一場面にでも出てきそうなほど切なげで美しくて、そんなに美しい男は生まれて初めて見たと思った。 数秒の間放心したように立ち尽くしてしまって、遠から来る人の声で我に返って慌てて立ち去った。教室に帰っても動機は治まらないし熱でも出たみたいに体が熱い。あの横顔が強烈に頭に焼き付いて離れなかった。予鈴が鳴って教室に戻って来た徳田は涙の跡形もなく普段と変わらない様子だったけど、気のせいか聡明で迷いのない顔が少し影っているようにも見えた。


 それから一日中徳田のことばかり気になって授業なんてまともに聞ける状態じゃなかった。制服の隙間から見える襟足の刈り上げた後に気を取られて先生が呼んでいらっしゃることにも気が付かず、皆の前で怒られてしまった。鋭く目を吊り上げた先生に長々と説教をされた後「罰として廊下に立ってなさい」と命じられた。 僕は大人しく椅子から立ち上がって教室を横切った。後ろのほうからクスクス笑う声が聞こえる。注目されながら教室を出て行く途中で、一瞬目徳田と目が合った。徳田も僕を見て面白そうに目を細めて笑っている。桜の下で見た泣き顔とは真逆の表情に、僕は胸が押し潰されそうな謎の衝撃にもう一度耐える必要があった。


 授業中なだけあって、廊下に人影はない。立たされたことは恥ずべきだし反省すべきだけど、不思議と後悔はしていなかった。さっき桜を見て涙を流していた徳田が僕のことで笑ってくれたというだけで怒られて廊下に立たされるだけの価値はある。できるならもう一度あの笑顔が見たい。そのためならなんだってできる気がする。面白がってくさるなら何回だって廊下に立つし、地味な僕だけど精一杯お調子者を演じたっていい。徳田のために何かしたいというだけで体の奥から無限に活力が湧いてきそうだ。


 一人廊下でそんなことを考えている自分に気が付いて、徳田に特別な感情を持ち始めていることを自覚した。僕だけが桜の下の彼を目撃したその日、ただの同級生だった彼は目が離せないほど特別な存在に変わってしまった。 それは顔から火が出そうなほど自分が恥ずかしいことだった。これは誰にも悟られてはいけない。同性の彼にこんな感情を抱くなんて間違ってることは分かっていた。辞めなければいけないのに、誤魔化せそうに無いほどはっきりとした気持ちが僕の中に芽吹いている。気が付いてしまったからにはもうなかったことにはできなくて、僕は異常者になってしまったと思った。 

「吉井、もう戻りなさい」」

 授業の終わりを知らせる鐘が鳴ると先生が教室から顔を出されて中に戻ることを許可された。下を向いて教室に足を踏み入れて徳田の方を視界に入れないように自分の席に戻った。あの瞳を見てしまえば、彼に詰め寄ったうえに今のこの気持ちを無理矢理伝えてしまいそうで自分が怖い。徳田がこっちを見ているような気がしたけれど、先生に怒られて項垂れている振りをして無事に席に着くことができた。


「廊下、寒かったんじゃない」

 先生が教室から出て行き他の皆が自由に話始めるなか、何故か徳田は僕の席まで声をかけにやって来た。僕の机の前に立って真っすぐにこちらを見下している。

「……だ、大丈夫」僕は目を逸らして俯いた。今まで直接会話をしたことなんて殆どないのに、よりによってこの状況で向こうから来られてしまった。

「そう。今日雨だし少し肌寒かったんじゃないかと思ってね。……さっきは御免。気を悪くしてないかな」

「え……なんのこと?」

「ほら、君が廊下に立たされた時に俺笑ちゃったから。すまなかったね」

「別に、気にしてないよ」なるべく顔を隠せるように無意味に前髪を触ってみる。

「良かった。誤解は避けておきたかったんだ」

「わざわざいいのに……」

「折角なら、同じ学び舎の友とはいい関係でいたいからね。それはそうと、どうしてこっちを見なんだ。話しかけてるのに少し失礼じゃないか」机に手をついて腰を落とした。 必然的に目線が下がって完全に目が合ってしまった。

「その……顔に大きなニキビが出来ちゃって」

 間近で見る徳田の顔はますます整っていて顔が熱くなった。

「ニキビ? そんなに気にしてるのか」

「気にしたっていいじゃないか」

「さっき見た時は気が付かなかったけど。とにかく、俺は馬鹿にするい気はなかったんだ、許してくれ。やけに強張った顔で廊下に向かうのがなんだか可愛いくてさ」

「可愛い……?」

「あ、御免。嫌だったよね、君もれっきとした日本男児だ」

「う、ううん……平気だ」

 教室の中でも地味であまり喋らない僕は、どちらかと言えば不気味で気持ち悪いと思われていると思っていた。可愛いなんて言葉は本当なら男として喜ぶべきじゃないのかも知れないけど、僕が徳田にとって好意的に見えていることが嬉しかった。

「やっぱりニキビなんて見えないよ。頬が赤いのが気になるな。熱あるんじゃない」

「これは大丈夫だから」

「風邪でも引いてたらどうするんだ」

「そんなんじゃないよ」

「そんなに先生に診ていただくのが嫌なのか」不思議そうな顔で僕を見た。

「か、風邪を引くなら徳田のほうだろ。さっき雨の中で桜を見てたじゃないか」

 僕の言葉に徳田は一瞬言葉を詰まらせた。

「……見てたのか」

「た、たまたなんだ。近くの廊下歩いてたら外に居るのが見えたから」

「や、いいんだ。別に見られても……」

 珍しく少しぶっきらぼうな言い方で視線をずらした。

「き、聞いてもいいかな。……どうしてあの時泣いてたの」

 今度は徳田のほうが耳を赤くする番だった。髪は短く切られているから正面でも耳の変化がよく見える。耳の淵が一気に綺麗な赤に染まった。

「情けないな俺。男のくせに」

「心配しないで。僕誰にも言わない」

「ああ、うん。大したことじゃないんだ」照れを隠すように頭を掻いた。

「そうなの?」

「……ちょっと後で話せるかい?」

「え? え、あ……うん」

「じゃあ授業が終わった後にあの桜の下で」

「わ……分かった」

 僕が答えるとその人は満足そうに頷いて自分の席に戻って行った。

 なんだかよく分からないけど二人で話せることになってしまった。


 放課後、激しく脈を打つ心臓を抑えながら家路につく皆を横目に桜の場所に向かった。外はこうなることを予測してたみたいに綺麗に晴れている。待ち合わせの場所に近づくと桜の木に寄り添うようにしてこちらに背を向けて立って居る姿が見えた。

「お、お待たせ」後ろから声をかけると振り向いた徳田は柔らかく微笑んでくれた。

「ううん。今来たところ。悪いね、わざわざ呼び出して」

「大丈夫だけど。……雨も止んだし」

「そうだな。花びらが散ってしまわなくて良かった」

「それで話って何……?」

「ちょっと待って」

 徳田が急に僕との距離を詰めてきた。真剣な目でゆっくり腕を伸ばして僕の首元辺りを触ろうとしていた。

「え、え、え、何?」

「花びら。襟についてた」柔らかい花びらを摘まんで見せてくれた。

「あ、ああ……。花びら」

「ちょっと驚きすぎじゃないか」

「ふ、普通だ」

「なんだか怪しいな」

「え。な、何が」

 動揺する僕を見てニヤリと笑った

「貴様。俺が好きだろう」

「え……?」

 賢く柔和な印象の徳田が貴様なんて言い方をするのを初めて聞いた。

「まさか、こんな近くに男を好きな輩が居るなんてな」僕を上から下まで観察した。

 いつもと明らかに様子が違う。教室で見ていた優しくて頼りにされる彼は何処にも居ない。代わりに目の前にあるのは意地悪く目を細めて笑う別人の姿だった。

「と、徳田? どうしたんだ」

「廊下に立たされるお前を笑った時怪しいと思ったんだ。妙に俺と目を合わせようとしないし。可愛いって言われて顔を赤らめるし。

「そんなことないよ、なんのこと。僕知らない」

 何も知らない振りして否定しようとしたけれど、声は上擦ってるし目線も泳いでいるのが自分でも分かる。

「変態野郎」

 見下すような顔をして吐き捨てた。人を蔑む色を帯びてもなお、彼の瞳の美しさは全く損なわれていない。その目に僕の全ては見透かされてるような気がした。

「許してくれ……誰にも言うつもりなんてなかったんだ。君にも」

「ほら見ろ、やっぱりそうじゃないか」

「辞めてくれ。関係ないだろ、放って置いてくれよ」

「俺が好きなんだろ? いわば俺のほうが立場が上ってことだ」

 徳間はおもむろに懐から財布を出すと一枚札を抜き出して僕に見せつけてから手を放して地面に落とした。

「おっと、落ちしてしまったな。おいお前。拾えよ」

 悪びれてもいないような迷いのない命令だった。

「や、嫌だよ。なんで僕が」

「今ここで、お前が男児にあるまじき変態であることを大声で叫んでもいいんだぞ」

 僕達の少し後ろでは帰ろうとする学生たちがぞろぞろと歩いている。こんな所で皆に知られたら明日には学校中が、先生方も含めて知ることになるだろう。

「な、なんでそんなことするの」

「俺は徳田家の息子だ。上に立つ者として、軟弱者を調教してやる義務がある」

 あの徳田にこんなに意地が悪い一面があるなんて思わなかった。雨の中ではあんなに綺麗な姿を見せていたのに。実際に桜の下で会う徳田はとても意地悪で傲慢だ。

「ほら、どうすればいいか分かるよな?」

「でも……」

「いいから、拾え」射るような強烈な目に命令されると逆らうことができず、言われるまま腰を屈めて手を伸ばした。

「いたっ……」

 指先がお札に触れた瞬間、僕の指が徳田の足に踏みつけられた。

「どうした? ほら、早く拾え」

「い、痛いよ……。足を退けて」

「お俺に指図するな。立場をわきわえろ」

 より一層強い力で上から押し潰されて骨まで軋んできた。

「あ……っ。痛い、痛いよ」

 だんだん痛みが飽和してただ鈍い痺れになってくる。

「これくらいで弱いなあ。仕方ない。ワンって言うなら離してやってもいい」

「え……?」涙目で見上げた徳田は、王様のように僕を見下して笑っていた。

「ワン、だ。男の体を追いかけるような気色の悪い奴には畜生と同じ扱いがお似合いだろう」

「や、やだよそんなの。言えない……」

「言えないならこのままだ。それともやはり、貴様が男色であることを皆に暴露されたいか?」

「わん……」

「聞こえない」

「ワン!」

 今度はちゃんと犬のように吠えた。思ったより大きな声が出て少し恥ずかしい。

「よぉし、いい子だ」足がどかされた。

 解き放たれた指は痛みが尾を引いている。徳田は屈んだ僕の頭に手を置いてゆっくりと優しく撫でてくれた。

「いいか、これからも俺はお前に辛く当たると思う。でもそれはお前の為を思ってのことなんだ。他の連中にはこのこと知られたくはないだろう?」

「……分かった」

 一定のリズムで動かされる徳田の手の温度と動きで思考がどろどろに溶かされていくようだ。上手く頭が働かなくて何も考えられなくなっていく。

「俺の言う通りにしてれば、誰もお前が男色だなんて気付かないさ。俺が主人でお前が飼い犬だ。ご主人の言うことはちゃんと聞けるな?」

「うん……」

「よし。それでいい。これからも仲良くしよう」

 そう言って徳田は緩やかに微笑んだ。桜を背景に見たその笑顔が天使なのか悪魔なのか、その時の僕にはもうよく分からず、ただ地面に手をついて大人しく頭を撫でられていた。

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