消したい記憶

nobuotto

消したい記憶

 春になると、誰かに胸を締め付けられるような息苦しさに光男は襲われる。持病の喘息があるわけではない。三十年前の自分の記憶が今の自分を押し潰すのである。

 三十年前に二つ目の会社を立ち上げた。

 最初の会社が倒産から自分流のビジネス必勝法を光男は作り出した。ビジネスの勝負は夏までに決まる。勝つためにはふたつの事を徹底する。

 ひとつは自社の力を伸ばすこと。そのためには優秀な社員で固める。そうでない社員は年度始めに切る。

 もうひとつは他社を潰す。ビジネスは競争である。法に触れないぎりぎりの戦略を立て、淡々と競合会社潰しを実行する。それに従わない社員は当然切る。

 この二つを徹底的に進めて確実に成果を出す。これがビジネス必勝法である。

 お前など碌な死に方をしないと吐き捨てて辞めていく社員は数え切れないほどいた。潰した会社の家族は、一家離散にさえなった。悪魔とさえ罵られながらも、この必勝法で今の成功を勝ち取ったのである。

 会社が安定してからは、世間並みの経営者に変わった。

 悪魔から普通の人間に、天使のような人間になろうと決心したのであった。プライベートでも、美しく知的な明子と結婚し二人の娘も授かった。長女は結婚し、次女も今年社会人になる。会社の経営は娘婿に譲り会長になった。今では善良な経営者、善良な夫、善良な父になったと光男は思っていた。光男流に言えば、幸せな家族になる必勝法を実践した結果である。

 しかし、春が来ると苦しくなる。まるであの時の悪魔の自分が「お前は何も変わっていない。隠そうとしても本性は滲み出るもんだ」と言っているかのようであった。

 長年連れ添ってきた明子は光男の苦しみに気づいていた。明子は知り合いの医者からもらってきたという薬を光男に渡した。それは記憶を消す薬だと言う。薬の有効性は検証され、副作用もないが、社会的な影響が大きい、そしてそれ以上に裏社会で高価に取り引きされるため表には出ない薬なのだそうだ。

 薬の入手方法は分からないが、各界に交流のある明子であれば、こうした薬を入手することも可能なのであろう。

「記憶を消す期間なんて決められるのか」

「その方法は秘密らしいの。この薬を売っている人に頼むと依頼主の希望の期間を調合してくれるらしいの」

 本当に記憶が消えたとしても、それを自分で確かめるすべはない。そこで、光男は部下で試してみた。部下の一週間分の記憶が消えた。心配した奥さんが医者に連れて行ったが、結局原因不明の短期記憶喪失だろうと言われて終わった。

 効果を確かめた光男は薬を飲むことにした。明子には、会社を立ち上げた十年間の記憶を消すように頼んだ。事業が成功した後は、明子との出会いと結婚、長女、次女の誕生と、幸せな記憶ばかりである。あの十年間の記憶さえ失くなれば幸せな記憶だけで生きていける。

 薬を飲むと光男は深い眠りに落ちた。

 目覚めた時には、広いリビングの深々としたソファーの中にいた。しかし、ここがどこか分からなかった。事業が拡大した時に新社屋とともに郊外に建てた自宅かと思ったが、どうも違う。綺麗な女性が目の前にいた。その女は光男を見て微笑んでいる。

「あなたは、誰ですか」

 女の目は嬉しそうに輝いていた。

「忘れたのね。本当に薬が効いたんだわ」 

「お前は誰だ。俺に何をした」

 目の前の女に怒りをぶつけた。しかし、女は光男の怒りを気にもとめていない。

「あなたは、なんにも変わってないわよ。ずっと変わってないのよ。ただ記憶が失くなっただけなの。私達が一番いらない記憶、家族の記憶が失くなっただけなのよ」

 隣の部屋から二人の若い女性が「ママ」と言ってやってきた。彼女達も同じように嬉しそうに光男を見ていた。そして光男の横に来ると力任せに光男を抑え込んだ。

 綺麗な女が光男の口に液体を流し込んできた。

「まだ、自分の記憶は残ってたようだけど、大丈夫、全て忘れるから何も心配しないでいいのよ。幸せな家族になるためだけだから。あなたの好きな必勝法の仕上げよ」

 女性達の笑い声の中で、光男はまた意識を失っていくのであった。

 <了>

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