第四話 『シオン』

 くたびれたスウェットを脱ぎ捨てて、大きめの白いシャツに袖を通す。

 ズボンは……まあこのままでいいだろう。そんなふうに自室を後にした俺は、ふとスマートフォンの画面を開いて、入力欄に次のようなキーワードを打ち込んでみた。

 

 ――”夢の中で夢を見る 何故”

 

 雑な検索にも関わらず、意外にも目的の記事はすぐに見つかった。

 

多重夢たじゅうむ、心身の披露、又は過度な精神的ストレス……」


 読み上げながら「なるほどな」と納得する。

 ページに書いてある内容があまりにも当てはまり過ぎていて、途端に怖くなった俺は画面を閉じてスマホをズボンのポケットへそっとしまった。

 

 ――病は気からだ。

 

 言い聞かせるように胸裏で呟いた後で、意識を散らしながら階段を一段ずつ下った。

 

 居間へ降りると、左手に見えるカウンター越しに甘辛い匂いが漂ってくる。

 

 ――部屋で嗅いだ匂いはコレか。

 

 思いながらキッチンへ目をやると、彩音がレードルを片手に鍋の中身をゆっくりとかき混ぜていた。

 さっき容姿を褒めたのがそんなに嬉しかったのかして、彼女は長い髪を左右にゆらゆらと揺らしながら、俺に構わず鼻歌を歌うのに夢中のようだった。

 

「今日はカレーか?」と、カウンターから訊ねてみた。

「ううん、肉じゃがだよ。カレーでも良かったんだけど、先週もやったしなぁ――と思って」

 言いながら彼女は頃合いを見て火を止めると、カウンターに置いてあった大皿へ肉じゃがを手早く盛り付けた。

 

 食事の支度は彩音に任せる事にした俺は、食器棚から底の深めな小鉢を一つ取り出すと、少しだけ肉じゃがを大皿から貰って居間へと向かう。

 

 そして、まだ湯気の立った肉じゃが入りの小鉢を――両親の遺影の前へそっと供えた。


「お待たせ」と、夕食の配膳を済ませた彩音も此方へやってくると、俺達は遺影の前に座って静かに手を合わせた。


 お香の香りが広がると共に、束の間の沈黙が俺達をしっとりと包みこんだ。。

 すぐ隣の縁側からは、夕方の涼しげな風がふんわりと居間へ流れこんできて、心の隙間から感傷的な気持ちを引っ張りだそうとしてくる。


 しかしながら、二年も経てば――ほんの少しは――慣れてくるもので、初めは二人して遺影の前で泣いてばかりだったけれど、今ではこうやってきちんと向き合えている。

 

 それでも――いくら時間が過ぎたって、この家がやけに広く感じるのは毎日の事だった、


「……よしっ、冷めないうちに私達も食べよ?」と、淀んだ空気を振り払うように彩音が言うと、俺の肩をトントンと叩いてキッチンへと促した。

 

 ――ありがとな。彩音。


 胸裏だけで彼女の存在に心から礼を言って、俺も立ち上がって食卓へと向かった。


 今夜のカウンターテーブルには、肉じゃがに加えて豆腐の味噌汁と、昨日残ったナスの煮浸しが並んでいた。

 作ってもらっている手前、こんな事はあまり言いたくないのだけれど、彩音は昔から料理があまり上手なほうではない。

 本日の肉じゃがも例に漏れず、調味料の入れすぎか火加減が強すぎたのかして、塩辛い味付けの中にふんわりとコゲた風味が感じられた。

 

 恐らく俺がカレーかと思った原因は、この”コゲ臭さ”にあったらしい。

 

「……ごめん、失敗したかも」と彩音は少し俯いて言う。

 俺は構わず白米と一緒に肉じゃがを口へ運んで、「旨いよ」と慰めた。

 

 そんな最中、ふとカウンターに見慣れない花瓶が置かれてる事に気がついた俺は、そこに生けられた”薄い紫色をした花”に目をやって――思わず箸を止めた。

 

「これ……紫苑しおんだよな?」


「えっと、うん……。学校帰りに繁華街へ行く用事あったから、ちょっとでも気分変わるかなと思って……」

 少し縮こまりながら彼女はそう言うと、次第に遠い目になってその花を眺めながら続けた、

 

「アル姉……、この花好きだったよね」


 言葉に釣られて、脳裏に明るく映った彼女の笑顔に思いを馳せるも、すぐにそれを振り払ってコゲついたじゃがいもを口に放りこむ。


「元気にしてるといいな……」と。彩音はまた俯きながら小さく呟いた。

 

 俺はゆっくりと口の中身を噛んで時間を稼いだ後で、込み上げる気持ちをそっと撫でつけながら――同じく呟いた。


「……そうだな」




 * * *




 ――例えそれらが同じ花であっても、東側二大国”楓宮ふうぐう桜花おうか”に伝わる花言葉と、西側二大国”コルド、サバナ”に伝わる物では意味が異なる物も多く、そのルーツは旧暦時代にまで遡る。


 ――王の国――現代における王都――がまだ存在しなかった頃、東国ひがしのくに西国にしのくにという二つの国で世界は構成されていた。


 ――当時、対立関係にあった東西の国では、花言葉は”鍵”のように扱われ、関所や城壁を潜る際には決まって花を持ち出しては、自国に伝わる花言葉を……。

 

 ……――。

 

 夕食の片付けを済ませた俺は、縁側で一人、懐かしい本に目を透していた。

 冒頭の内容を読みふけっていた俺は、不意に我にかえってページをパラパラと勧めながら、食卓の花瓶に生けられたくだんの花について調べ始めた。


 ”東西両国とうざいりょうごく花物語はなものがたり”。

 そう銘打たれたこの本は、幼少期にアルが気に入ってよく読んでいた物だった。

 

 ハードカバーに身を包んだ、全五百ページ程からなる分厚くて大振りな冊子は、そのまま手で抱えて振り回すだけでも凶器になりえる程の質量を誇っている。

 

 幾重にも連なるページには、世界中の花に関する豆知識や花言葉が所狭しと並んでいて、写真付きの丁寧なレイアウトでまとめられている他、それと関連する五大国の成り立ちなんかも詳しく語られている。


 幼馴染であり、花屋の孫娘でもあったアルは、この本の背表紙を使って俺をよく小突いては、自慢げにその美文を読み聞かせてきたものだった。

 今となっては良い思い出だけど、あまり花に興味が無かった当時の俺にとっては、なかなかに退屈な時間でもあった。


 そんな昔を懐かしみながら、綺麗な写真やそれに関する解説に幾度となく誘惑されつつも――ついに俺は目当ての項目にたどり着く。

 

 ――”追憶”、”あなたを忘れない”、”遠くにある人を想う”。

 

 読み上げながら、少し離れたカウンターの花瓶に目をやってみた。

 当時、彼女があの花にどんな想いを馳せていたのかは分からないけれど、少し憶測を巡らせるだけでも胸中が焼け焦げて、簡単にどうにかなってしまいそうになる。

 

 だけど、よく考えてみればアルは元々西方せいほうの生まれだ。

 生い立ちを判断材料にするのはどうかとは想うけど、もしかすると彼女は、西側にのみ伝わる花言葉を、あの繊細な藤色の向こうに重ねていたのかもしれない。


 つまりそれは――。

 

「……兄ちゃん?」

 彩音の声が急に耳元で聞こえたのをきっかけに、突然現実へ引き戻された俺は、無意識に本をパタンと閉じていた。


「びっくりした……。居るなら居るって――」

「ご、ごめん……。お風呂、先にもらったよ」

 右隣へちょこんと座っていた彼女がそう言うと、湯浴みのせいかほんのり赤くなった顔で悪戯っぽく「えへへ」と笑った。


 本を傍らに置いて縁側から足を放り出した俺は――おもむろに彩音の服装へ目がいった。


 藍色のノースリーブワンピースを悩ましく夜風に揺らす彼女は、俺の真似をするように縁側から白い脚をひょいと放り出す。

 露出の多いその姿に思わず目を逸らすも、それに気付いたのだろう彩音は俺のすぐ側までわざとっぽく距離を詰めた。


「まーたそんな薄着して……。湯冷めするぞ?」と、俺は唇を尖らせて言う。

「えへへ、……可愛いでしょ?」と、彼女は反省の色もなく得意げに笑って見せた。


 やりにくさを感じながらも、俺達二人は少しの間何も喋らずに、居心地の良い兄妹水入らずの時間を何となく過ごした。

 少し経つと、次第に虫の鳴き声が活気づき始める。もうすっかり夜のとばりが降りた頭上では、既に星の砂粒が群れを成していて、互いに瞬きながら談笑を始めていた。


 ふと隣の彼女に目を向けてみると、少し気恥ずかしそうに右手で髪をいじる彩音の横顔があった。

 その姿は、ついこの間まで小学生だったとは思えないほどに大人びていて、俺の後ろばかり追いかけていた幼少期の彼女とは、まるで別人のように映った。


 そのまま横顔を眺めていると、視線に気付いた彩音は横目に俺を見て微笑し、また庭のほうへと戻してからそっと囁いた。


「兄ちゃん」


「……ん?」


 短いキャッチボールが交わされ、彼女はたっぷり余韻をもたせた後――言い放った。


「一緒に、逃げちゃおっか」


「……え?」


 突然突拍子の無い事を言う彩音に気圧されて、俺は声を漏らして固まってしまった。


 そんな俺を置き去りにするように、彼女は足元の沓脱石くつぬぎいしに置いてあったツッカケを履いて庭へ出ると、背中で腕組をしながら「一歩、二歩」と数えるように歩いた後で、続けて話し始めた。


「学校も辞めて、この家も引き払って、私達の事を知ってる人なんてだーれも居ないような、遠い遠いどこかにまた家を買うの。そこで二人きりで暮らそ? そしたら、今みたいに兄ちゃんがいじめられたりもしないで済むでしょ? それに、場所さえ選べば、無理に魔術なんかと向き合わなくてもよくなるかもしれないし」


「彩音……」


 俺は静かに呟いて、そのまま言い淀む。

 確かに、そういう道もあるのかもしれない。けれど――。


「気持ちは……嬉しい。けど、いくら父さんと母さんが残してくれたお金があるからって、そんな簡単に――」

 そう俺が言い終わる前に、彩音は此方へ向き直って言葉を遮った。


「大変なのは……わかってる」

 彼女はその優しい声で鋭く言うと、紅の瞳を一層輝かせながら――続きを付け加えた


「それでも……。私は、兄ちゃんがいいの」


 頭の中を、当時の情景が駆け巡った。そしてその景色はふわりと広がって、十二歳の二人を遠目にそっと見つめる”少女”の姿が加筆される。

 

 そして――彼女は更に続けた。

 

「……ごめんね。私、実は知ってるんだ。兄ちゃんが、私の為に隠してくれてた事――」


 全身が波打つように鳥肌が走る。

 恐らく彩音がそれを言い終わる頃には、俺達は今のままでは居られなくなるだろう。だから――俺はずっと大事に隠してたんだ。

 でも、彼女にはとっくにバレていたらしい。恐らくはずっと前から……。

 

 ――”忍耐””、”繊細”、”愛の象徴”……か。

 

 俺はさっき閉じたページに書かれていた、”もう一つの花言葉”を思い出した。

 そして、眼前で美しく重なった”二人の少女”の立ち姿に、三つの響きが見事に調和して見えた。


 繰り返しになるけれど、彼女がそれを言い終わる頃には、俺達は今の兄妹では居られなくなる。それでも、恐らく彩音は俺を手放さないだろうし、俺を遠ざけたりもしないだろう。

 それがきちんと分かってるからこそ、俺は一つ願うことにした。

 

 どうか、この細やかで幸せな時間だけは、夢のように覚めたりしないでくれ――と。






 ドッ。






 まず、何の音なのかを考えた。

 重く響いて、耳に残るような鈍い音。

 決して良い音ではなかった。なんなら耳を覆いたくなるような、そんな衝動さえ感じたほどだった。

 

 次に、視界に無数の斑点模様が飛散する。そしてそれは拡散して、それから――。


「……ぁ……ぇ……?」


 彩音の喉が吐息だけで声を作った。腹部からは黒く鋭利な突起物が突き出していて、それはまた同じ音を立てて彼女の中へと吸い込まれていった。

 直後、彼女はその場にドサリと倒れ込む。またたく間に辺りは血だらけになっていて、もはや庭がどういう地面だったのかすら思い出せないほどの惨状と化していた。

 

「彩音!!!」


 気付けば叫んでいたし、駆け寄っていた。彼女を抱きかかえると、もはや下は血の海だった。

 腕に沿って熱い血液が傳ってくると、俺の服にドクドクと染み込んでいく。

 こんなのは、その道に学のない素人だって簡単に気付く事だった。

 

 ――死。

 

 頭の中でこの一文字が浮かんだ瞬間、俺の目の前で蠢く”絶望”は、声であるのかも怪しい雑音で最悪なセリフを言い放った。

 

「……良カッタネ、夢ジャナクテ……」

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