春の風
まだ少し冷たい風が僕の前髪を揺らす。
さっき受けとったばかりなのにもう丸まってしまった卒業証書を広げ直して目を瞑ると、精一杯生き抜いた日々をもう一度肌で感じているようで。
あの日、僕は彼女をかっこ良いと思った。
普段は穏やかなのにいざという時は自分に厳しい性格も、繊細なのにその中にはしっかりと芯があるところも。
そして、それと同じくらいにかわいいと思った。
みんなを包み込むような優しくてふわふわした雰囲気も、キラキラとした音色を聴いて目を輝かせる姿も。
本当にどこまでもまっすぐな人だった。
そんな珈那に僕はどんどん惹かれていった。
目が合う度に胸がドキドキしたり、関わろうとしても緊張のせいで真顔になってしまったり。なかなか上手くいかなくて悩み抜いたあの夏、どうか指揮者になりたいとオーディションに向けて家で必死に練習したのも今となればいい思い出だ。
そしてついに、僕は気づいてしまった。
好きだからこそ自然と彼女のことを眺め続けてしまっていたのだろうか。
そこにはいつも同じ男の子のことを目で追う珈那がいた。
相手はハイスペックで学年一のモテ男、遊佐藍。
一年生の頃の珈那はあんなにも藍を恐れて、嫌っているようだったのに。同じクラスになった頃からだろうか、ふたりの距離はみるみるうちに縮まっていった。もう僕には止められないくらいに。
夏色にきらめく水面が真っ赤な太陽を浴びて揺れている。
あの日、僕は勇気を出して珈那に聞いた。
「藍のこと好きなの?」
と。
どうか嘘であってほしいと願う僕に、彼女は否定の言葉を吐いてくれた。
僕はそれがすごく嬉しくて、その言葉を信じ続けた。その方が僕にも都合が良かったから。
けれど今朝、いつものように話すふたりを眺めていると珈那の顔だけが少し強ばっていることに気づいた。
体育館の裏へと消えていくふたりを不思議に思い、ついつい後をつける。
かすかに聞こえるふたりの声。
僕はそこでやっと珈那が藍に告白しているのだと悟った。
驚きのあまり何も感じられなかった。僕を包み込む優しい温度にも、僕の背中を押すようなあたたかい日差しにも。
"ここにいてはいけない"
そう感じた僕は藍が出す答えを聞く前にその場を離れた。
卒業式が終わったら告白しようと思っていたのに。
好きな人にただ想いを伝えられることがどれほど幸せか、僕は分かっていなかった。
あまりの悔しさにぎゅっと手を握る。
僕に吹いていたのは春の風だった。
僕の恋には似合わない、甘い香りのする風だった。
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