第2話


 戌亥は、熱に浮かされたような月島と一緒に、トボトボと夜の道を進んでいた。学校から進んで、戌亥の目の前にあるのは夜の住宅街だった。道路には自動車が走っており、歩道を歩く人は、それぞれの目的地に急いているようだった。


「ねえ、戌亥君。もし本当に異世界に行けたら、どうする?」月島が隣を歩きながらそう言った。


「平和な日常に戻るために手を尽くすかな。」平然と戌亥は答えた。


「戌亥君らしいね。」と月島は笑った。そして、彼女は続けた。


「私は、異世界で新しい友達を作って、現代日本と行き来して、世の中を変えていきたいかなぁ。」彼女の目は輝いていた。それはまるで子供のような純粋さがあった。そんな彼女の姿を見て、戌亥は呆れたように言った。


「お前はいつも楽しそうでいいな」と彼は少し皮肉を言ってみるが、彼女は気にした様子もなく答えた。


「うん、楽しいよ!だって人生は一度きりだし!」そんな会話を交わしながら、二人は夜の町を歩いていった。


「あれだよ、戌亥君!」彼女は遠くに見える建物群、公営団地を指さしつつそう言った。「あれか」二人は、そのどことなく古めかしい感じを持つ白い建物が立ち並ぶ団地を眺めつつ、その方向へ向かっていった。


「戌亥君、ちょっと待ってね。」「分かった」戌亥は、公営団地の敷地に入る手前。そこにいた。団地の敷地内は、敷地内にある白い電灯によって明るく照らされている。隣では、月島がスマホを弄って場所を確認したり、周囲を見たりと忙しそうにしている。

 戌亥は、周囲を観察した。敷地内に所狭しと建てられている、集合住宅の集まり。おそらく高度成長期に建てられ、幾度となく改修を経ている建物。それらは、整備されているにも関わらず、どこか錆びれた雰囲気を持っていた。


「戌亥君、あの案内板を見よう」スマホから顔を上げた月島は、そう言って歩き出した。戌亥は、彼女の後にその敷地内へ入った。


 団地敷地にある、その案内板には、どの棟がどの場所に位置しているのか、現在位置とそれぞれの棟の名称が書かれていた。


「どの棟にいけばいいんだ?」戌亥がそう聞くと、「ええと。」と月島は答えながら、案内板にある棟を一つ一つ確認しているようだった。

 彼女は、たっぷりと確認した後「どれでもいいんじゃない?」そう答えた。


「そうか。」と戌亥は生返事をしたが、彼女は特に気にしてないようだった。

 今の彼女には何を言っても楽しそうだ。彼女は、敷地内の中を歩いていく。そうして、一番手前にある棟の前で足を止めた。


「ここにしよう、戌亥君。準備はいい?」

 彼女の目は冒険を前にした子供のように輝いていた。


 彼女の指定した棟に足を踏み入れた。1階の共有廊下は片側が外に面しており、もし、強い雨が降ると廊下が濡れてしまいそうな構造だ。電灯の明かりが壁を照らしているが、その白く塗装されている壁が、逆に黒いカビや汚れを目立たせていた。人の気配はほとんどなく、静寂が支配している様はどことなく不気味な感じだった。


「まず4階、それから2階へ。続いて6階、2階、10階、そして5階。最後に1階を押して、上手くいけば、異世界の扉が開くはずだよ。」

 月島が先導して、エレベーターに向いつつ、儀式の手順を再度確認するように話しかけた。


 じっくりと周囲を確認しつつ廊下を進む。1Fをしばらく歩くと、何の変哲もないエレベータがあった。扉から外の様子が伺える透明な窓がついており、結構広く感じるエレベータだ。月島は、開のボタンを押した。すると、上の階からエレベータが下りてくる音が響いた。しばらく待っていると、エレベータが到着したようで、音とともに扉が開く。


「来たね。」ワクワクという擬音が背後に見えそうな雰囲気で、月島はエレベーターへと乗り込んだ。続いて戌亥が中に入る。

 自然と戌亥はエレベータのボタンの前に行く形となり、その横には、月島がいた。にっこりと戌亥を見ている彼女を横目に彼は、4階のボタンを押した。

 戌亥が押したエレベーターのボタンは赤く光っていた。その後、ゆっくりとエレベータの扉が閉まり、エレベータは4階へ向けて動き始めた。重力に逆らって進む感覚を感じる。

 じっと階層表示を見てみると、それなりの上昇速度だ。

 彼女の笑顔はどこか期待に満ち溢れており、これから起きることを楽しみにしている様子だった。


「どうなるかな?」月島は戌亥に笑いかけた。2人を乗せたエレベーターは、途中の階で止まることもなく、4階へたどり着いた。

 エレベータの扉は透明な窓がついており、そこから廊下の様子が見えた。白い壁とコンクリートの床の廊下が見える。特に異常はない。そして、ゆっくりとエレベーターの扉が開いた。


「さーて、次は2階だね。」彼女は、楽しんでいる様子で戌亥に話しかけた。戌亥は、彼女の言葉に反応する代わりに、2階のボタンに手を伸ばした。エレベータは、押されたボタンに反応する。エレベーターのドアが閉まり、再び動き出す。

 戌亥は、エレベータが4階から2階に到着するまで、エレベータの扉の窓から外を見ることにした。別の階の廊下と、エレベータシャフト内の光景が交互に入れ替わっている光景が見える。

 ふと、戌亥は隣をチラっと見ると、彼女もじっと、エレベータの外の様子を伺っていた。そうこうしていると、2階に着き、エレベーターの扉が開く。特に異常はない。


 その後も戌亥と月島は、エレベータで儀式を進めていった。


 戌亥が5階のボタンを押そうとしたとき、月島が話しかけてきた。


「女性が乗ってくるかもしれないから、絶対に話しかけちゃだめだよ。試練だからね!試練!」彼女は確認するように言った。


「ああ。分かった。」彼女が言うには、この世の者ではない女性がエレベータに乗ってくる可能性があるという。戌亥は頷き、5階ボタンを押すために、もう一度ボタンを見た。ゆっくりと5階を押す。

 エレベータは動き出した。そして、順調に降下した後に、エレベータは、5階に止まりドアが開く。周囲には誰もいなかった。


「あれ~?」月島はきょろきょろとしながら、開いたドアから外の廊下に向かって出て行った。戌亥は、その様子をエレベーターから降りずに見ていた。


「うん。誰もいないね。」エレベータの目の前まで出て周囲の様子を確認した彼女はそれだけ言って、エレベータ内に戻った。

「続けるか?」戌亥はいった。


「うーん、とりあえず最後までやろう。」彼女がそういうことを確認した戌亥は1階を押すと、エレベーターのドアが閉まり下降を始めた。儀式が成功すると、上昇するはずだった。しかし、エレベータは無事に1階に到着した。


「やっぱり、だめだったか」月島は残念そうな様子で言った。


「俺はもう二度と付き合わないからな」戌亥は、そういった。


「えー、次は成功すると思うんだけどなぁ・・・。」彼女はぼやきつつも、エレベーターから降りようとしない。4階のボタンを押した。


「おい」戌亥は、抗議したが、彼の意見は無視された。エレベーターは再び動き出すと、4階へ向かって上昇していった。


その後、彼女が納得するまで、何度か儀式を繰り返したが、途中で誰も乗り込んでくることもなく。すべては異常なしで終わってしまった。


「もういい加減に帰ろう。」戌亥は、1階に下りたタイミングで、エレベータから出た。

「あっ、待ってよ」月島も戌亥に続いて、1階の廊下に出た。そこには、何の変化もなかった。その薄汚れた廊下からは、月が見えた。そこから周囲を見回すと静まりかえっており、そこに人の気配はやはりなかった。


「何も起きなかったな。」戌亥はつぶやいた。


「うーん。」ぶつぶつと彼女は何かをつぶやいている。


「月島さんや。」なおも諦めようとしない彼女に対して、戌亥は諌めるようにいった。


「うーん、そうだね。戌亥君。お腹の減ったし、帰りましょうか!今日はここまで、ということで。」彼女は、勝手にそれだけ言って、戌亥の制服の袖を引っ張った。こっちへ来いということだろうか。彼女は先に進みたがっていた。


「おい、勝手に引っ張るな。」戌亥は、一瞬、振りほどこうとも思ったが、これで、この儀式とも解放されると思い、仕方なく従うことにした。

 月島が先導して歩く姿は、まるで、散歩に出かける犬が、飼い主を先導して、はしゃいでいるようだった。彼女は、戌亥の袖を引っ張りながら、儀式を行っていた棟から出て、団地の敷地内を進んでいく。

 しばらく歩いて団地へ入っていた入り口付近までたどり着いた。来た時に確認した、団地案内板の前を通って、公営団地の敷地から出たとき、彼女は初めて戌亥の制服の袖を放した。


 戌亥と月島は、団地で分かれずに、月島の家にまで一緒に帰ることにした。戌亥の気遣いだった。


「家まで送ってくれるなんて戌亥君は、優しいね。」彼女は、唇に指を当ててそう言った。歩道を歩いている月の光が彼女を照らしている。その姿は、美しく見えた。


「何かあったら嫌だしな。」戌亥は無愛想に答えた。彼は、月島の家まで彼女を送り届けるつもりだった。


「ありがとう、戌亥君。気持ちだけでもうれしいな。」彼女は楽しそうに話していた。そんな変わらない様子を見た戌亥は、彼女のペースに流されていた。


「私の住んでるマンションは、ここからだと、少し歩けばつくかな。」月島は、自分の住んでいるマンションについて話した。彼女の家は、あの団地の近くにあるらしい。


「私はね、一人暮らしをしてるんだ。」彼女は続けた「お父さんは、私のことを心配に思ったらしくて、セキュリティのしっかりしたマンションを用意してくれたんだよね。」彼女は自慢げにそういった。


「ほんと親に恵まれたな。」戌亥は言った。


「うん、感謝してる。でも、はじめは大変だった。登下校の時の、学校への送り迎えとか。」彼女は、少し照れながらそう言った。


「ああ、あれね」戌亥は、入学時に噂になっていたリムジンでの送り迎えのことを、思い出した。


「そう!まあ今となっては、楽しい思い出だよ!」彼女は笑った。


 歩行者の数も疎らな、そんな歩道を二人で歩いている。その時、彼女が大きなマンションの一つを指さしつつ、話しかけてきた。


「あれだよ。私のマンション!いいところでしょ?」それは、周囲の建物と比べれば一際目立って見えた。近くの道から見るだけで、そのマンションは、それなりに広い敷地を持っていそうだった。彼女は、このマンションの最上階に住んでいるという。

 とても高校生の身分では住めないようなマンションに見えた。その方向に向かっていく。


 彼女が住むマンションの敷地前へたどり着いた。


「それじゃ、俺は帰るからな。」彼は帰ろうとしたが、彼女は引き留めた。「せっかくここまで来たんだから、なんか飲んでから帰りなよ。」彼女は戌亥に部屋に上がるように勧めてくる。なんだか、断れる雰囲気ではなかった。


「わかった、少しだけお邪魔させてもらうよ。」戌亥はそういった。


「うん、そうこなくっちゃ、戌亥君は初めてのお客様だよ。」彼女はうきうきとしながら、歩く彼女の後を戌亥は、追いかけていった。彼女はマンションの敷地内を歩いていく。

 外から見える通り、マンションの敷地は広かった。

 敷地内には、手入れの行き届いた木々が植えられていた。駐車場や駐輪場を見つつ、コンクリートで舗装されたマンション内の建物へ向かう通りを歩いて行く。そして、マンションの入り口から建物内へ入った。


 彼女は、オートロックを解除するとエントランスへ入って行く。エントランスには、受付窓口があって、そこには人が見えた。24時間体制のようだ。


「さぁさぁ、戌亥君もこっちへ。」彼女は戌亥の手を放さずに、中へ引き込んだ。そして、エレベーターの前までテクテクと綺麗な内装の廊下を歩いて行った。エレベータは複数台あった。ボタンを押すと、すぐにエレベータがやってきた。中へ入る。

 彼女は、最上階のボタンを押した。エレベーターで最上階へと昇っていく。

 その間、彼女は一言も発しなかった。エレベーターが開くと彼女は廊下へと歩いて行く。


「ここが私の部屋だよ。」彼女が指さしたのは、一つの部屋。


「さあ入って、入って。」彼女はドアを開けると、中へと入っていった。


「お邪魔します。」戌亥は中へ入っていく。一歩踏み入れると、そこに広がるのは思った以上に広い空間だった。玄関は広く、靴箱も複数ある。


 靴を脱ぎ、玄関から廊下を通ると、すぐに目の前に広がるのは、白い壁紙で統一された、清潔感あふれるリビングルームだった。壁紙の白が、部屋に置かれたシックなデザインの家具たちと調和し、全体に落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 リビングからは広いガラス扉を通して、夜景が望めるバルコニーへと続いていた。


「さあ、座って。」彼女は椅子を引いて、戌亥に座るように促す。


「ああ、ありがとう。」戌亥は指示された椅子に腰を下ろした。


「ちょっと待っててね。今、お茶用意するから」彼女はそう言うとキッチンの方へいった。戌亥が、待っていると、部屋に漂う彼女の清潔感のある良い匂いに包まれ、少し落ち着かない気分になっていた。

 周囲を見渡す。ダイニングキッチンになっていて、リビングにいる戌亥からは、彼女が電気ポットのお湯をティーカップに注いでいる姿が見える。


「お待たせ!紅茶で大丈夫だったよね?」彼女は木目調のお盆の上にティーセットを載せて戻ってきた。白い陶器のティーカップとソーサー。彼女は、それらをテーブルへ置いた後、戌亥が座っている場所とは、テーブルを挟んで反対側に座った。そして、戌亥にもカップを勧めた。戌亥はそれを受け取り一口いただく。紅茶の良い香りが鼻を通った。


「それで・・・俺はなんでここに呼ばれたんだ?」戌亥は沈黙を破り切り出した。彼は急に家に連れてこられた理由が分からなかったのだ。


「うーん?ちょっとね・・・」彼女が珍しく口ごもった気がしたが、すぐに言葉を続けた。「戌亥君は、新しい友達を作らないの?」「まあ。あまり作る気がないな」戌亥そう答えた。彼女は紅茶に口をつけると話を続けた。


「私ね、本当の意味で、分かり合える人がいなくて、これまでずっと1人で寂しかったんだ・・・。だから、今日は来てくれて本当に嬉しかったんだよ。」彼女は少し寂しそうな表情をした。そして、また一口紅茶を飲むと続けた。


「だから、また付き合って欲しいな・・・。ダメかな?」彼女は少しうつむきがちに、だがしっかりとした口調で話した。戌亥はその姿を見て、彼女の寂しさが伝わってきた気がした。そして、彼は静かに答えた。


「ああ、わかった」「ありがとう!」彼女は嬉しそうに笑った。それは心からの笑顔に見えた。その笑顔を見たとき、戌亥は少しだけ彼女の孤独が理解できたような気がした。彼女の孤独が、こんな子供じみた探索で解消できるのなら、と戌亥はそう思った。


「そういえば、このマンションで儀式はやらなかったのか?」戌亥はふと疑問に思い聞いた。


「うーん、このマンションは常に人がいるし、雰囲気が違うかなって。」彼女はそういった。まあ、そうだよな、と戌亥は思った。


 その後、2人は他愛のない話を続けた。そして、紅茶を飲み終えた後、戌亥は自宅に帰ることにした。


「あっ、そうだ。戌亥君、ちょっと待ってね」帰る前、一緒に部屋の玄関まで来てくれた彼女からそう言われた。彼女は部屋に戻っていく、奥の部屋からは、ドタバタと音が聞こえた。戌亥は、しばらく待った。

 しばらくすると、玄関に彼女は戻ってきた。彼女の手には、黒い多面体ダイスの形をした小物が握られていた。彼女は、その片手に収まるサイズの黒い多面体ダイスのようなものを、戌亥に見せる。


「これあげるね!」そういって彼女は、その多面体ダイスを戌亥へ手渡してきた。渡されたのは透明で、黒いものが中に入っている、不思議な多面体ダイスだ。


「これは?」戌亥は、彼女から受け取ったものについて尋ねた。


「これはね、おまもり!大切にしてね!」彼女は、笑顔でそう言った。


「お守り?」戌亥は、手渡された黒の多面体ダイスを、手で遊ばせるように転がしていた。そして、それを鞄の中にしまい込んだ。


「ありがとう」彼は、そういいながら玄関から出ようとした。


「またね!戌亥君!」「じゃあな」彼女は笑顔で手を振った。戌亥はそれに答えるように、手を挙げて答えた。


そして、そのまま彼女の部屋を出た。

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