春眠

うみべひろた

春眠

 この席は窓際にあるから桜がよく見える。

 ソメイヨシノはもう散ってしまったけれど、校庭の端にいっぱい植えられた八重桜はちょうど今から満開を迎えようとしている。


 桜と、その向こうの青空と、5時間目の英語。

 普段はそうでもないのだけど、今日は授業が始まった瞬間から眠くて仕方ない。


 前の席に座った雫。身長が高くてちょっと邪魔。黒板が見えづらいよ。


 授業さえなければ、桜の下でお花見ができるのに。

 雫さえいなければ、窓の外のきれいな景色をもっと楽しめたのに。


 雫が振り返ってにこりと笑う。私に向かって何か呟いてるように見える。

 何なんだ一体。今さらだよ。


 ふわりとバニラの香り。

 私の好きな香り。


 なんだかすごく眠くなってくる。

 多分、雫と一緒に食べたお昼の桜あんぱんのせい。

 考えることが多すぎて、英語が全然頭に入ってこない。

 何もかも、時間の無駄。こんなのやってられない。

 私は睡魔に身を任せる。






 ふわりと霧みたいな違和感をおぼえて、私は目を覚ます。

 教室からは誰もいなくなっていた。

 周りに薄い霞みたいなのがかかっていて、窓の外も見えない。他の席も見えない。


「目、覚めた?」

 前の席から聞きなれた声が聞こえて、向き直るとそこには雫が座っている。

「なんだ、雫か」

「なんだじゃないよー。今、何時だと思ってるの」

「何時だか分かんないんだけど。雫の頭が邪魔で、黒板の上の時計が見えないし」


「時計、ねー」

 椅子ごとこちらに向き直ると、雫は私の机に両腕を載せて身を寄せてくる。

「双葉は知らなかったの? あの時計、初めてこの教室に来た日からずーっと止まってるよ」

「は? そうなの?」

 そんな記憶は全然なかったのだけど。ぴったり12時で止まった時計。


「じゃあ、行こうよ」

 突然立ち上がった雫が私の手を掴んで、私の手を引っ張り上げようとする。

「は? 意味わかんない。どこにさ」

「時計を動かしにだよ」無理やり私を立たせる。「ふふふ。相変わらず双葉って身長低いね」

「雫が高すぎるんだよ、私は悪くない」


「はいはい。そうだねー」

 キャラメルみたいな色の髪がふわりと揺れる。

 雫のシャンプーはバニラみたいな香り。食べちゃいたいって私は思った。お菓子みたいで甘そうで。


 ぐいぐい引っ張られて、教室のドアへ。

 壁についたボタンを押すとエレベーターが到着してドアが開く。

「早く乗りなよ、置いていかれちゃうよ」


 エレベーターに乗ると、雫は迷わず『地下1階』のボタンを押す。

「双葉は地下、行ったことある?」

 雫の言葉に私は首をひねる。

 地下?

「そういえば、行ったことないかも」

 そんなのあったっけ?


 エレベーターはどんどん下る。

 地下1階、

 地下5階、

 どんどんスピードを上げる。

 地下10階、

 地下30階、


「え、なんかこのエレベーター、早すぎて怖い」

 思わず雫の手を握る右手に力が入る。

 あれ? いつから手なんて握っていたんだ。


「双葉は本当に怖がりだねー」

 くしゃりと、私の頭に手が置かれる。「大丈夫だよ。死にはしないから。大丈夫だよ、私と一緒ならさ」

 ふわりと重力が消えて、

 地下50、60、70、

 そして『地下100階』を表示したところで止まる。


「着いたよ。降りて」


 眩しい。

 引っ張られるようにエレベーターの扉をくぐると、そこにあったのは雫の部屋。

「いらっしゃいませ、私の部屋へ」

「なんだか懐かしいよ。ここに来るの、久しぶり」


 今日は本当に天気がいい。風がレースのカーテンをひらりと揺らして、春の光が差し込んでくる。

 窓から見えるソメイヨシノは満開。あの頃と何も変わらない。

 机の端にかかったランドセル。棚に置かれた絵の具。高校に入って取ったのは音楽の授業だったから、使われてなくて真新しい。

 机についた彫刻刀のキズも、本棚に全巻そろったスラムダンクもフルーツバスケットも。

 何も変わらない。


 昔から女の子らしい子って言われてた雫の本質。

 意外に興味の幅が広いのだ。男子っぽいものもまとめて、色々なものを好きだって言ってた。


 だけど、

「やっぱり変わったよねこの部屋」

 私は言う。


「そう?」

 雫は本棚からスラムダンクを抜き取って読み始める。

「仙道かっこいいよねー。双葉もそう思わない?」

「なんで4巻から読み始めるんだ君は」

「双葉も読みたかった? なら譲るけど」

「いいよ別に。私は多分、雫よりもこの部屋のスラダンいっぱい読んでるし」


 そんなことよりも。

「この部屋、こんなにきれいじゃなかったよね」

「大人になったんだよ。掃除ができる大人。小学生の頃みたいに、何もかも放置で自然体だーって。そんなの高校生には許されないでしょ」

「半年前の雫に聞かせてあげたい台詞だね、それ」


 あははは。と、雫が笑う。

「この半年で大人になったんだねー、私も。いつまでも子供じゃいられないよね、やっぱり」


 大人になる。

「雫は、本当に、大人になったの? なりたいの?」

 大人になることって、多分、今までみたいに綺麗ではいられなくなること。

 どうして、わざわざ自分から汚れないといけないの。


 私は大人になりたくない。

 いや、何だろ。

 なってはいけない。今はそんな気がしている。


「何それ」雫は笑う。「双葉はいったい、何を気にしてるの?」


「私は」

 何と言えばいいのだろう。

 窓の外に見える満開のソメイヨシノ。


 こんなにきれいなこの部屋には、

 きれいな思い出しかなかった。


 これからもずっとそうだと思っていた。


 多分もう私はこの部屋に来られない。だからせめて、ずっと目に焼き付けておこう。散り終わるまで。

 じっと目を細めて窓の外に意識を向けたとき。



 ふわりと風が吹いた気がした。

 キャラメル色の、バニラの香りの風。


 そして気づくと、私はベッドに仰向けに寝ている。


 覆いかぶさるように見下ろしてくる雫。

「やあ眠り姫。ご機嫌はいかが」


 雫に遮られるすべての光。

 蛍光灯も春の青空もいっぱいに咲いたソメイヨシノも。

 そして、何だろうあれ。誰かがこっちを見てる。

 満開の桜の向こう、雫の身体の向こう。

 でも今は関係ないか。私は雫の瞳を覗き込む。

 なんでこんなに近いの。


「何、その言い方。かっこつけすぎで全然似合わないんですけど」

 肩よりも長い雫の髪。キャラメル色のそれが今にも私の唇に触れそうで、私は横を向いて目を逸らす。


「君はね、ずっと眠ってるんだよ。春が終わるのが怖くて、季節の移り変わりを直視できない眠り姫」

「私はただ、」

「うん」

「ただ、ずっと変わらずにいたいだけだったのに。なんで」


 いつも二人だった。

 ひとりでもなければ三人でもなかった。


 それが心地よかったというよりも、そうでなければいけなかった。

 登場人物は二人でいい。

 これ以上増えたって邪魔なだけ。

 世界が濁るだけ。


「テツ君のことでしょ」


 そのことについて。雫と電話をしたのはいつだったか。確か春休みの終わりくらい。

 私が感じたのは焦りでも嫉妬でもなかった。

 ただ喪失感だけがあった。

 そこで初めて気づいた私は多分遅すぎたのだけど。

 もし、もっと前から自分の気持ちに気づいてたとして、私に一体何ができたというのか。


「教えてよ。私はどうすれば良かったの」

 二人だけの時間が終わったら。私は一人になる。


 突き放そうとした手が雫の胸に触れる。

 やわらかな感覚がやけに手に残って、力が抜けてしまう。


「桜はいずれ散るよ。それが分かってるから咲くのを待つ」

 窓が音を立てて開く。桜色をした暖かな風が吹き込んでくる。


「春はいずれ終わる、みんなそれを知ってる。だから春は終わりから始まる季節なんだよ」

 ぱらぱらと。雫の視線を追って窓の外を見た私に、桜の花びらがぺしぺしと当たる。


「双葉、起きて進もうよ。私たちはこんなところで立ち止まってる場合じゃないんだ。変わらないなんてつまんないよ」

 ふわりと。私の頬を包んだのは雫の手のひら。

「眠って立ち止まってる間に青春は終わっちゃうよ」


「青春って。雫は時々昭和みたいな言葉遣いするよね」

 何を言えばいいのか分からなくて、私は茶化すような言葉をかけることしかできない。


 桜の花は降り続ける。

 私の唇を撫でて消える。

 そうか、桜の花っていい香りがするんだな。って気づく。

 いちごみたいな、ホワイトチョコレートみたいな、思いのほか甘くて儚い香り。


「惜しいね、双葉。いちごじゃないよ」

 微笑みながら私を見下ろす雫の瞳。

「桜の香気成分はベンズアルデヒド。バニラと同じ香りだよ」


 きょーかんまじゅつ。

 歌うように雫が言葉を紡ぐ。

『双葉の中の桜。シャンプーのバニラ。しっかりと繋がって、双葉の中は私であふれるのだ』

 どーだ。すごいでしょ。

 にひひ。って雫が笑う。


「私に見えてる全てのものが、双葉にも見えますよーに☆」


 何だかバカにしたような言い方とは裏腹に。

 頬の手にぐっと力が入って、私に無理やり正面を向かせる。


「双葉にかかってるのは魔女の呪いだよ。100年も解けずに眠り続けるなんて、絶対に許さない」


 桜よりも重くて甘いバニラの香り。

 雫の唇が降ってきた。

 まぶたに、鼻に、頬に。

「今日は特別な日。起きなさい、眠り姫」

 そして唇に。


 雫の唇は薄いけれど、思っていたよりもずっとやわらかかった。

 私の全てを受け止めてくれるハグのような。

 そんなやわらかいキス。



「ダメだよ」だけど私はそれが怖い。「だって汚いじゃん。そういうの」


「相変わらずだね、双葉さんも」大して何とも思ってない口ぶりの雫。


 口と口を重ね合わせるなんて。汚いっていうか、動物的っていうか。

 愛情を欲望で塗りつぶすみたいな行為に見える。


「なんで人は、そういうことをやりたがるんだろう」

 愛情を塗りつぶす動物的な部分。

 そういうのって人に見せるべきじゃない。

 ただ自分の中で、大切に持っておくべきものなんだ。


 雫の目をじっと見ると、

「大丈夫だよ。男とやるよりもずっとマシでしょ」

 桜の花びらが唇を撫でる。くすぐったいけれど、いい香り。


 男。

 さっきの雫の言葉がよみがえる。

 テツ君。


 って誰だっけ。

 あぁそうか。邪魔者か。


 雫の制服で遮られた向こう側。

 誰かいたけどもう見えない。


 雫、

 あなたの唇を誰かに奪われるくらいなら。


 きーんこーん。

 遠くでチャイムが鳴る。授業の終わりか始まりかは分からない。


 かーんこーん。


 そうだ。

 言われてみれば、確かにそうかもしれない。他の誰かとやるより、ずっとマシ。

「それに。キスはただ、眠り姫を起こすための儀式だから」

 そしてまた降ってくる唇。

 最初は冷たかった唇が、段々暖かくなってくる。


「でも眠り姫って、どうしてキスで目覚めたんだろう。何が効いたんだろう」


 私の唇をついばむようなキス。それを何度も降らせながら雫は私に聞き返す。

「双葉はどう思う? 愛情が暖かかったから?」

 私の頭をふわふわと撫でる。


「身体的な接触が気持ち良かったから?」

 どさっと私の上に倒れこんでくる。

 やわらかな胸。脚。雫の身体すべて。


「幸せな未来を一緒に見たかったから?」

 ぎゅっと私を抱きしめる。


 だから私も抱きしめ返す。

「多分、王子様が私を見てくれたから」


「王子様って」雫が私の唇にそっと舌を這わせる。「誰のことなのかな?」

 なんでそんなこと聞くの。

「て、」不意に桜が吹き付けてきて顔に当たる。それが痛くて、言おうとした名前を忘れそうになる。「雫のことだよ」


「人の名前、忘れないでよ」困ったように笑う雫。


 だけど私は。

 もう逃げられないし、逃げる気もないし、誰かに汚される雫なんて見たくない。

「何だかずっと、雫のことばかり見ていたような気がする」


「そうだよね」私を抱きしめる力が強くなる。「安心したよ。私は双葉に、そうであってほしかった」


 唇が重なるたび、ちょっとずつ押し付ける力が強くなる。

 二人の重なる面積が増える。


 汚いよ。って思うけれど、何故だか抗うことができない。


 多分春の陽気のせい。

 私の身体は暖かくなる。


 そのキスはまるで桜みたい。春の空を埋め尽くす桜。

 どこまでも続く。ものすごい密度のピンク色の花びら。

 甘くて、熱くて、いい香り。春っていう季節はジャムみたい。とろとろに煮込まれたジャム。

 私と、雫と、溶けていく。


 ――私に見えてる全てのものが、双葉にも見えますよーに☆

 雫はそう言った。

 今、二人は向き合いながら、くっつきながら、ふたり同じ方向を見ている。

 私には雫が見ているものが見える。きっと雫にだって。


「こうして、ふたり一緒に、幸せに暮らしました。エバー、エバー、アフター」

 唇に当たる、雫の吐息。


 だけどちょっと待って。

 そんな決まり文句で語りつくせるほど安っぽいものじゃないでしょう。二人のこれからは。


 あぁ。邪魔だ。二人の身体が邪魔。

 なんでこれ以上近づけないの。こんなにふたり、溶けあえそうなのに。

 皮膚が。体温が。雫の声が。そんなの無ければ私たちはもっと。




「だよね。うん。そのほうがきっと幸せになれるよ」


 雫は私を力いっぱい、ぎゅっと抱きしめる。


 そしてぽんぽんと私の背中を軽く叩く。

「じゃあね。そろそろ時間」


 そしてもう一度だけ、私の唇にそっと口づける。

 暖かい。


「これが目覚めのキスだよ、眠り姫」


 ぱん。


 もの凄い音を立てて。

 割れる。部屋の窓ガラスが全部割れる。


 細かく砕けた破片はふわふわと舞い散って、私の頬を撫でていく。

 桜だ。

 ソメイヨシノが散っていく。


 春が始まる。


「双葉にかかった呪いは解けたよ。100年間くらいは大丈夫。おはよう、そしておかえり」


 この部屋に窓ガラスはもう残っていない。

 何も無い。

 なんだろう、私が大切にしていたものも、一緒に砕けてしまったみたいだ。


 その欠片さえ、窓から吹きつける春の風に紛れてもう見えない。






 桜の香りがした。



 飛び起きると、目の前に雫が座っていた。

 前の机の椅子をこちらに向けて、私を見ていた。

「あ、やっと目覚めたねー」


 何これ。また夢?


 机の上には八重桜の花がいくつも置いてある。

 散って落ちたやつじゃない。妖精のスカートみたいに、まだふわふわ。


「それは双葉へのプレゼント。起きないから、暇になって取ってきちゃったよ。いい香りでしょ?」

 黒板の上の時計を見ると、もう17:00。かちかちと時を刻んでいる。

 授業もホームルームも、全て終わっていた。


「もう一生目覚めないと思ったんだよ。そろそろ、キスでもしてみようかなって思いはじめたところ」

 私の机に頬杖をついて、それでようやく私と同じ目線。


「眠り姫」私が呟くと、

「双葉はね、魔女の呪いにでもかかってたんだよ」雫は笑う。

「雫は、眠り姫の呪いってどうして解けたんだと思う? 王子様の何が呪いを解いたんだろう?」


 唐突だなぁ。って雫は笑う。

「お姫様はね。別にキスで目覚めたんじゃないよ」

 雫の言っていることが私にはよく分からない。

「眠り姫にかけられた呪いは『100年間眠り続ける』。時間が来たから、呪いが解けたんだよ。これは姫と魔女の物語。たまたまそこにいただけの王子様なんてただのモブさ」


 そんなの知らなかった。

 だけど、私は確かに目覚めたんだ。寝てたのは100年じゃなくて、多分3時間くらい。

 ふわふわと漂う桜の香り。

 それに紛れた雫の髪のバニラみたいな香り。

 確かによく似ている。


 私の好きな香り。


 もう雫と離れるわけにはいかない。

 離せないんだ。

 私の中に満ちている香り。桜の、バニラの、どこまでも深く沈んでいく香り。

 ぐつぐつと煮えたぎるような春の香り。


「雫」

 名前を呼ぶと、


「どうしたの、双葉」

 名前が呼び返される。

 私がこんななのに、雫はいつも通りのやわらかい微笑み。

 何だか、それがすごく、悔しかった。


 机を挟んで向かい合っている。

 雫が何かをしゃべるたび、その息が私の唇をくすぐる。


 桜の香りがふわふわと舞っている。

「もうすぐ、春が来るねー」

 雫の唇が歌うように言葉を紡ぐ。

 色も薄い、形も薄い。きれいでやわらかい曲線。


 その唇に、私は自分の唇を押し付ける。


 ちょっと勢いが付きすぎてしまったけれど、雫の薄い唇はそれを優しく受け止めてくれた。

 冷たくてやわらかい。つるつるの唇。

 夢の中と寸分たがわず、同じ味がした。


 少しは驚いてくれるかと思ったけれど。

 私のほうに、それを見て楽しむような余裕がなかった。


 息も出来ない。何も言えない。雫のほうを見れない。

 ただじっと、その唇に私の感覚を刷りこむみたいに。

 唇を重ね続ける。

 世界から音が消えて、私の心臓の鼓動だけが聞こえる。


 それは、私の中では決して静かなキスじゃない。

 唇を重ねるなんて汚いけれど、ただ一人、雫とならば気持ち悪くはない。

 突然こんなことをしてしまって引かれるのは怖いけれど、私の気持ちが伝わらないのはもっと怖い。

 何もせずに離れたくはない。私と一緒にいてくれるなら、きっと私は何でもやると思う。

 汚くたって、例えば雫が泣くようなことだって。


 このキスは多分呪いみたいなもの。

 心にわずかに爪を立てて、私のことをやわらかく刻み付けるための呪い。

 例え100年間だけでもいい。私と一緒にいてくれるなら。


 息が苦しくなって、私は唇を離す。


「双葉、なんだか突然別人みたいだよ。こういうの嫌いだと思ってた」

 そう呟く雫の顔を見ることができない。

 恥ずかしくて、どう反応されるか怖くて。


「嫌いだよ。他の人とだったら、絶対にやりたくない」

 私は立ち上がって、机の向こう側、雫の隣に立つ。「それよりも、寝てる間に春が終わっちゃうのが嫌だったんだ」


「春は終わりから始まる季節なんだよ」

 雫がそう言って、思わず私は笑ってしまう。

「夢の中の雫も、そう言ってた」


 じゃあいったい、何が終わったというのだろう。

「これから私は進み始めたいんだよ、雫」


 何度でも私はその唇に触れる。

 これまで無為に過ごしてきた時間を埋めるように。


 私の中で色々なものが揺らいでいる。

 何が汚くて、何は許せるのか。夢の中で雫に触られるたびに境界線が揺らいだ。

 だからなのか、私は大切なものを無くしてきたように感じる。

 どこに? 夢の中に? まさか。


 なんでだか自分の中心にぽっかりと穴が開いたみたいで。

 ねえ雫、教えてよ。

 さっきの夢の続きを。キスの向こう側、エバーエバーアフター、ふたりのストーリーの向こう側を。

 そうすれば雫が全部埋めてくれるんじゃないかって半ば本気で信じている。


 でもさ。

 実際にはもっと単純なんだ。


 私は、雫と、もっと、ずっと、ぎゅっと触れ合っていたい。




『桜あんぱんをあげるよ。言ってたお祝い』


 何故だか今日の昼休みのことを思い出している。

『ありがとう。でも雫、なんで桜あんぱん?』

『これから春が始まるからだよ』


 春が始まる。

 それはあのことを言ってるんだと、そのときの私は勝手に思った。


 あのこと?

 何だろう、あのことって。


『私にできることなんて、これしか残されてないんだよ』


 桜あんぱんは、濃密な桜の香り。

 春の香り。

 それはバニラに似ていて。

 雫と同じ味がした。


 ――きょーかんまじゅつ。

 ――ね、私の気持ちなんてこんなに汚いんだよ。見られたらあなたに嫌われちゃうかな。

 ――でもさ、やっぱり我慢できないよ。これで双葉にも分かったでしょ?

 ――切実だったからこそ、私は汚くなっちゃった。



 あれ? あの後私は、5時間目に何を考えていたんだっけ?


 桜吹雪がぺしぺしと当たる音。私の頬に、唇に、胸に、脚に。



 ――ね、双葉。私の気持ち伝わったよね。

 ――電話であんなこと聞かされて、すごく、苦しかったんだよ。



 ピンク色の霞。

 息をするたび、甘い香りに胸が詰まりそうになる。

 熱い。

 前が見えない。

 何が大切だったのかも。

 思い出せない。


 ――だから、双葉も一緒に、汚くなろうよ。それでふたり、おあいこだから。





「ねえ、双葉」

 私は教室の床に倒されている。


 「私に、双葉の、全部をちょうだい」

 雫のやわらかな頬。スカートの向こう側の暖かさ。

 その身体の重み。


 何だか分からないけれど、

 暖かくて、甘くて、やさしいけど強いものに包まれている。

 春だ。

 いま、私は春の中に寝ている。





 朝の通学路。

 ソメイヨシノの花が降りしきっている。

「凄いね。桜吹雪って、まさにこんな感じ」


 隣にいるのは誰だろう。

 桜の花が邪魔で顔が見えないけど、制服はスカートじゃなくてズボン。

 雫じゃないんだ、残念。って思う。


「3ヶ月記念だよ。これが、今の私の、精一杯」

 私はその男子に向けて手を差し出す。

「ごめんね。やっぱり、どうしても触れられることが苦手なんだ。でも、いつか必ず、頑張るから」


『いいよ、でも、この手。苦手なのに頑張ってくれてありがとう』

 その男子が笑う。

 顔が見えない。


「ゆっくりと進もうとしてくれて、ありがとう。これからちょっとずつ進もうね、テツ君」


 あれ? テツ君って誰だっけ?

 雫の彼氏だと思ってたけど、そうじゃない気もしてきた。

 まぁいいか。どうせもう観賞用のストーリーは終わり。モブなんてぜんぶ邪魔者。


 雫に電話で彼氏がいたんだ、付き合って3か月なんだ、って伝えたこと。

『おめでとう。新学期になったらお昼一緒に食べようよ』って喜んでくれたこと。

 今日のお昼ご飯に、『お祝いだよ』って桜あんぱんをくれたこと。


 桜迷路の向こう側。

 現実感が無いというか。

 そんな景色を見ている。降りしきる桜の向こうに薄れていく。


 夢なのか、幻覚なのか。

 よく分からない。




 ――私に見えてる全てのものが、双葉にも見えますよーに☆




 まぁ雫がいればどうでもいいか。

 今はこれだけ。これだけが現実だし、これからの私たちに約束された未来。


 魔法をかけられて100年、その後も物語は続く。


「ねえ双葉、これからは、私だけを見てね。私以外に触らせちゃダメだよ」

 降ってくる声。

 桜の香りと、バニラの香り。

 目の前が桜に紛れて見えなくなる。

 桜色をした霧。


「ごめんなさい、ごめんなさい、わたしは……」

 なんで私は泣いてるんだろう。


 机の上の八重桜から、最後の花びらがぱらりと落ちた。

 また、辺りに桜の香りが満ちる。


「一緒にいようね、双葉。あと100年くらい」



 王子様のキスで100年の呪いから目覚めた眠り姫は、幸せに暮らしたんだろうな。

 ふたりで、ずっとずっと。いつまでも。

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春眠 うみべひろた @beable47

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