第2話 それは大海原の鍵

 秋、ストーク・オン・トレント、ウェッジヒル邸。

霧雨が馬車の視界を妨げる。チャールズは車寄せに降り立った。

フロックコートの水滴をハンカチで叩き、靴底の泥をドアマットで落とす。

「いやはや、この寒々しい陰鬱な空。否応なく我が母国に帰ってきた実感が湧くな」

おどけた口ぶりで言うと、年老いた御者が苦笑する。


 「義兄さん、お久しぶりです。チャールズ・ベントレー、この度帰国しました」

「おお、お帰り!無事で何よりだ。手紙をいつも楽しみにしていたぞ。さあ、旅の話を聞かせてくれ。珍しい体験を聞きたくてうずうずしてるんだ」

長身だが、それが霞むほど横に立派な体格の義兄が腹を揺すりながら豪快に笑う。

この年の離れた義理の兄、ジョサイアの後押しがなければ、5年に及ぶ無給調査旅行への参加に到底踏み切れなかったことだろう。父はいまだに道楽者の放蕩息子に複雑な心情を抱いているようだが。


 ーー見晴るかす雄大な地層、海へなだれ落ちる巨大な氷河、島々の奇妙な風習、極彩色の鳥、命が縮む大地震、船を翻弄する凄まじい暴風雨。

ジョサイアの聞き上手もあり、航海譚は尽きない。

「それにしてもこうして足を踏みしめられ、地面が揺れないとはなんと素晴らしいことか!船酔いがいつまでも治まってくれず、本当に難儀しました。これだから大学出のいいとこ坊ちゃんは、と船員たちに馬鹿にされますし」


 パタパタ、軽快な足音が廊下に響き、部屋へ近づいてくる。カチャ、と扉が開き、少女が現れた。

「チャールズおじさま!お帰りなさい!!」

華やかな小花柄の布と豊かな栗色の髪の持ち主がチャールズの腕の中に飛び込んで来る。

目を瞬き、肩に手を置いてまじまじと姪を観察する。髪や瞳の色は変わらない。

その点を除けば約6年ぶりに会った少女の外見は随分と大人びていた。

一族共通の秀でた額、形のいい眉。すらりと背が伸び、かつてはぷくぷくとしていた腕も首も細く、女の子らしい体型に変わっている。

「見違えたよ、メアリ。綺麗になったね」

「そう?そんなことより、私にも外国のお話聞かせて!お父さまだけ独り占めなんてずるいわ!」

期待に輝く瞳、雄弁な手振りは変わらない。懐かしさを覚えながら、チャールズは再び自分の航海について語る。

「航海記の出版の話をもらってるんだ。本が出たらメアリに贈るよ」

「素敵!おじさまの旅がご本になるの⁉」

興奮して足をバタバタさせているのだろう、椅子に座る少女の、足首まで届くスカートの表面が張り出したり引っ込んだりする。


 「メアリは最近どんな本を読んでいるの?」

「あのね、おじさま。ジェーン・オースティンって知ってる?」

「名前はね。読んだことはないな」

「物語の中で大事件は起こらないから、血沸き肉躍ったりはしないわ。けれど、会話が楽しいのよ!ただ作中で女性たちが男性を、特に婚約者候補として、保有している財産から何から四六時中値踏みしてることにぎょっとする読者も多いみたい。変よね」

「変?」

「ええ!だって親が裕福だとか、親族の遺産の当てがあるとかでなければ、家庭教師くらいしかまともな職業が望めず、そして教師は女性の誰もが天職とは限らないとしたら、とどのつまり女性と家族にとって結婚は生涯を賭ける投資でしょう?有望株を厳しく見定めるのは当たり前じゃない?」

「辛辣だね、メアリ」

「そう?これでも控えめな表現にしてるのに」

頬に笑窪が浮かぶ。

本の話になると途端に雄弁になるのは昔からずっと変わらない。彼女の母の前ではその熱を抑えているようだが。


 チャールズは優しい笑顔で姪を見つめる。

自分が12歳の頃は、ここまで具体的に自分の将来を考えてはいなかった。

ただ父を継いで医者になるのは何か違う、別な職業、違う人生を歩めないか、と漠然と思っているだけだった。

女の子は早熟なのか?いや、多分考える頭がある少女にとって、未熟なままではいられないのが偉大なる大英帝国の実情なのだろう。



 1839年、ストーク・オン・トレント、ウェッジヒル邸。

「メアリ、これが出来立てほやほやの僕の航海記。はい、あげる」

「ありがとう、チャールズ叔父様!すごい、素敵な絵がいっぱい!!」

メアリは夢中でページを繰る。

「あら?このページ、鳥の、それも頭だけの絵がいくつも?」

「ああ、それはね。似た種類の鳥が、暮らしている場所によって嘴の形がそれぞれ大分違う、という観察を記したところだ。鳥だけじゃなく、カメや他の動物にも当てはまる。生物が住んでいる島同士はそんなに距離が離れていないのに。なぜなんだろうね」

「叔父様は可能性が高い仮説がきっと浮かんでいるんでしょう?」

「まあね。でもまだ漠然としたものさ。もっと根拠が必要だ。それに綿密な論証も」


 カチャリ、扉が開く音がし、少女の母が居間に姿を現す。

慌てて椅子から立ち上がり挨拶しようとするチャールズを制し、彼の姉は言う。

「チャールズ、この娘も再来年にはデビュタントを控えているの。二人きりにならないように気をつけてくださいね」

「お母様!」

「すみません、気が利かなくて。以後気をつけます」

メアリの声に被せるように間髪を入れず、チャールズは殊勝に謝る。


 帰り際、シルクハットを片手にチャールズが玄関で馬車を待っていると、メアリが駆け寄ってくる。

「叔父様、ごめんなさい。お母様が失礼なことを」

「いや、僕が悪かった。もうメアリはカーテンに隠れるおチビさんじゃなくて、一人前のレディなんだものな。お母さんが気にするのも無理はない。大丈夫、これからも君の家族が居る時を見計らって訪ねるようにするから」

「良かった!これからも来てちょうだいね、チャールズ叔父様。研究の話を聞いたり、本についてお話するのが一番楽しいもの。お母様は、あまり興味がないから……」

少女の顔が曇る。


 ーー姉は悪い人間ではない。むしろ家族のために心を砕き、細々世話を焼くいい母親だ。ただ自分がよく知る世界にしか関心がないだけで。

そして多感な少女は母や家族を愛しており、彼女らの意に添わぬ人生を歩む気はなくとも、文字とまだ見ぬ世界への憧れがない毎日では時々息が詰まるのだろう。


 「またね、メアリ」

チャールズは馬車に乗り込みながら、姪に手を振った。

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