第2話 鍋兄妹
「今日は……、鍋にしようかなぁ」
スマホでの小説鑑賞を終えて、あたしは夕飯の献立を考えていた。
……良い作品に出会うと、その作者の別作品というのもやはり気になるものだ。
まあ、かなりの高確率でそれも「当たり」であることが多いからだ。あたしの検索する指も、知らず知らずのうちに、そういった作品の上に誘われていくことが多い。
で、次にあたしの「読欲」の対象となった作品────。
ひどく整った……有り体にいえば商業作品のような、破綻のない格調高い文章。
物語の内容は、実はそれほど面白くはなかった。
……男に会いに海外まで行く、だけど好きかといえばそうでもない。単に性欲に引きずられるように付き合いを続けている、そんな女の物語だった。
自分の感性とは全く違うその女には、共感も感情移入もできなかったが、文章の美しさは鮮烈で衝撃で、それだけでも掴まれるほどの魅力に溢れていた。
そんな作品の次に選んだ、同じ作者の作品は……。
めったに読むことがないジャンルである、創作論。
その文章を読み進めていてわかったことだが、どうやらこの作者……以前は実際に、本職の商業作家だったらしい。実体験から生まれたという創作論を読んで、それからその筆者の書いた……更に別作品を読み進めていくと───。
………なるほど。
せめてこれくらいは書けよ、書けないなら公衆の場で投稿なんか考えるな、と言っているようでもあり……なかなか……こう、胸に来る。
だが、云うだけのことはあって、やはり……とんでもなく上手い、そして美しい。これが技術10割に振り切った作品かと、精神をガツンとやられた思いだった。
だが、副作用もあった。
創作論で聞いた遠慮も優しさもない物言いが作者の顔と声とを想像させ───。今読んでいる「ナレーション」のような地の文に、その全然優しくない語り口が乗り移ったようで、どうにも物語から受ける澄んだ情動に雑味が混じったように感じてしまうのだ。
こうなってくると……作中の姉の病気に心を痛める優しい弟だったはずの彼が……、思春期特有の…あの訳の分からない苛立ちに任せて分別の無い感情を発露しているように思えて、どうにも具合が悪かった。
せっかくの良作なのに、間に余計なものを読んじゃったかな、と若干の後悔もありつつ、でも作品はしっかりと堪能してから、スマホを閉じていたのだった。
それでも、作品にのめり込みすぎるきらいのあるあたしにとっては、いい「抑え」になっている面もあった。あたしは、いい作品に出会うと、読後数時間は放心していることすらあるからだ。
そんな私を見つけると、兄は「放電中」と呼んで笑うのがお決まりだった。無駄に放電して時間を過ごす必要がないなら、それはそれで助かるのだ。……せっかくの感動は、三割引になっちゃったかもしれないが。
ちなみに、さっき読んだその作中には……入院手続きの際に案内をしてくれた看護師が登場する。
──その弟は、もう病が治らないという姉に事務的に応対する看護師を見て、もっと言い方があるだろう、とか、この人はいったい何人の患者の死を見送ってきたのかとか……あまり良い印象を持っていなかった。まあ、当然だろう。
だが、何故だかあたしは……もう二度と出てくることもないであろう人物である、このモブ看護師の方に想いを馳せてしまった。
事務的に、だが、決して冷たくはない対応で世間話などをする、作中の看護師という人物。
恐らくこの人にも新人の頃はあったのだろう、当然だ。そんな人が、どんな経験をして今の人間性に成り得たのか……。
最初の患者の死を見送ったときは、それはそれは辛かっただろうと想像できる。胸が張り裂け、もうこんな想いをするくらいなら、看護師なんか辞めようと思ったことも何度かあるのかもしれない。だが、この人は仕事を続ける選択をし、看護師として今も生きている。弱く優しい感傷を、必要の無いものと捨てることができたのか。あるいは、心の隅に追いやる術を身に付けたのか……。
この世の職業というのは、得てして……好き、やりたい、という要素と……向いている、適している、という要素が相反していることが多いような気がする。
優しい看護師、というのは誰もが求めるものだろう。だが、その優しさは決して無償ではないし無尽蔵でもない。優しさを捻出する看護師は、業務へのエネルギーとは別のリソースとして優しさを供出して下さっているのだ。
───優しさとは残酷だ、それを持つ者にとって。
優しさの欠片も無い人なら、苦しんでいる人や困っている人を見ても、何とも思わないだろう。だが、優しい人にとって……その、他人の苦しみは共感となって自分を苛むのだ。放置すれば後悔となり、手を差しのべれば苦労となり、場合によっては嘲りと嫉み、謂れのない非難をも呼び込んでしまう。
優しさは弱さという人もいるが、あたしは呪いではないか……とさえ思うのだ。
この看護師は、自分の優しさと、手持ちの精神力と、そして生活とをしっかりと見つめ、秤に掛けて……現在を形作ったのだろう。
そこで、なるほど……とあたしは気付く。
先ほどの強弁創作論者も、ひょっとしたら似たようなプロセスを経て今の人格を形作ったのかもしれない。もし、本人の言う通りのことが実践できていて、しかもそれが真実だとしたら、何もわざわざこんな場末の小説投稿サイトで講釈を垂れ流さなくても済むことだろう。
もしかして、この人も己の優しさに押し負けて小説家と云う本職の舞台から降りたのかな、と……そういう想像もできるのだ。
あたしに農業を教えてくれた師匠が、言っていた事がある。
「───ひょーろん家ってのは、自分でできなかったから評論家になるんだ。言ってる事が事実なら、自分で実践すりゃ良いだけのことだからな」
そう考えると、この人の創作論もあんまり重く受け止めるのも考えものなのかな、と思った。
「──買い物行くけど、何か欲しいか?」
不意に兄が声をかけてきた。
たぶん、あたしの「放電」が終わりそうだというタイミングを見計らってのことだろう。
兄はこう見えて、割と人の機微に敏いところがある。長男で、甘やかされていたと云う先入観ばかりがずっと彼に対する印象を邪魔をしていたのだが……。実際は、子育て初心者の両親に育てられた、試行錯誤の犠牲者でもあるのだ。
そして、学生時代はいじめのような境遇にあったこともうっすらと覚えている。通学のバスに乗りたくないと言って、泣きながら帰ってきた姿が今でも思い出されるほどだ。
そんな兄が、今も優しさを失わずにこうして生きていてくれると云うのは、ある意味で奇跡なんじゃないかとも思えるのだ。
「……ん~……。夜、鍋作るから、それに入れる具材欲しいな。肉でも魚でも良いよ」
あたしは、予定していた今晩の献立を思い浮かべて、そう答えた。
「鍋な、了解了解。もやしとニラと……豆腐は、あるよな?」
あたしは、冷蔵庫の中の記憶映像を脳裏に呼び出す。……大きなボウルに入っているすこし不格好な豆腐が4つ、あったのが思い出された。
「うん、豆腐はある。……こんにゃくが無いかな」
「こんにゃくね……書いていくか、忘れそうだ」
そう言って、兄はカレンダーを小さく千切ったメモ用紙に、ボールペンで書き留めていた。
「えび、食いたいな……。シーフード鍋って、できるかな?」
兄が、そんな希望を言う。
えびか……それは、私も食べたいのだが。
「海のもの、苦手なんだよね……どのくらいが適量なのか、まだ掴めてないのよ」
あたしは、ちょっと弱音を添えた。
食べるのは好きだが、魚介類は扱いが難しい。鍋に使うなら尚更だ。ちょっと過ぎると、たちまち味がくどくなるのだ。自分で作るから美味しいものを多めに、という意識がいつも働いてしまうが、魚介類でそれをやると、失敗することが多いのだ。
まあ、これも試行錯誤していれば慣れるだろう。やってみないことには始まらない。幸い、失敗しようとも食べてくれる家族には困っていないのだ。
「心配すんな。食えるもの入れてるんだから、食えるだろ」
案の定、兄はそう言って笑っていた。
うん、今日はシーフード鍋。それでいこう。
美味しいものを、家族で囲める。
そんなささやかなことに幸せを見出だしたって、いいだろう。あたしが作ったものを、食べてくれる人がいる。これだって、当たり前のものじゃないんだから。
それが、より美味しいものであったなら……尚いいのだが───。
あたしは、買い物に出発しようと動き出した兄の軽トラックに手を振って、呼び止めた。
不思議そうに窓を開ける兄に向かって、私は声をかけた。
「ごめん! 鍋スープも追加で」
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