第19話 涙の桜子
その日の帰り際、桜子は思い出したかのように言った。
「ゆっきーにもらった子たちね、みんな元気よ」
「ん? ああ、ニジイロの幼虫?」
先月、桜子にプレゼントしたニジイロクワガタの幼虫たちは、無事育っているようだ。
「ほら、菌糸ビンって中が見えないじゃない? だから生きてるかどうか心配で心配で……。食痕が出てホッとしたわ」
「わかるわかる」
「菌糸ビンの壁に沿って食べてる子がいてね、姿が拝めるの。もう倍くらい、おっきくなってるわよ」
菌糸ビンの壁に現れる幼虫を観察するのも、幼虫飼育の楽しみである。
「わしわしアゴを動かして食べてるの見ると、かわいくってかわいくって」
桜子は本当にうれしそうに語った。
その笑顔を見て、彼女にプレゼントして心からよかったと思った。
家へ帰る桜子を、コンテナハウスの出入り口で見送った。
彼女のためにも、あのニジイロの幼虫たちには元気に育ってもらいたいと思う。
秘密の飼育部屋のカギを開ける。
そこには階層世界の第六階層、魔界のカブクワたちがいる。
ゆっきーは彼らの様子を見てまわった。
『ドゥオモ』と『クラドノータ』は産卵し、無事に一齢幼虫が誕生している。
『イリスルミナス』は成長が早く、すでに二代目の幼虫がサナギになろうとしている。
『インゲンス』のお化け幼虫は脱皮を繰り返して、ますますデカくなった。あの大きな水槽がきゅうくつそうに見えるくらいだ。
みな順調だった。
ただひとつ、『パンテオン』を除いては……。
ゆっきーは床下のパンテオン部屋に潜り込んだ。
虫用エアコンボックスやワインセラーに置いてある『プリンカップ』を手に取る。
『プリンカップ』とは、アイスホッケーのパックみたいな小さなプラスチック容器である。
一齢幼虫を入れるのにちょうどいいので、ブリーダーには重宝されている。
ここに土を満たして、マジョルカからもらったパンテオンの幼虫を入れてあった。
ゆっきーはため息をついた。
土の表面は水平で、さざ波ひとつ立っていない。
これが幼虫のいる土なら、チョコチップ状のうんこがあったり、土の表面がさざ波のようにかき回されていたりするはずだった。
プリンカップをひっくり返してみれば案の定、何もなかった。
幼虫は星になって――、溶けてなくなっていたのだ。
それはすべてのプリンカップで同じだった。
目を凝らすと、土のなかにわずかながらうんこが見られるところから、一応少しの間は生きていたことがわかる。
だが現時点で生きているものは一頭もいない。
どうしてもパンテオンだけはうまくいかない。ブリードどころか幼虫飼育すらできていないのだ。
奇跡的に生きている二齢幼虫を見たことが一回だけあったが、それも一日たつかどうかというところで星になった。
ゆっきーはこれまで何通りも、何通りも、土の種類や温度管理を変えてみた。
だがうまくいった試しがない。
いったい何がいけないのだろうか?
何か大事な条件を見落としてやしないだろうか?
悩んだところで結局、総当たりで試すしかない。
バサバサと羽音がすると、肩にずんっと重みが来て、機械のような声が耳に入ってきた。
「失敗シテモ、気ニスルナ」
目線を横へずらすと、いやらしい笑いを貼り付けたマジョルカの顔があった。
「幼虫ナラ、イクラデモ持ッテキテヤル。何度デモ試ストイイゾ」
そうしてあごを上げてクチバシを開き、クケックケックケッと笑った。
夏休みが来て、八月に入った。
日差しは強く、湿度も高い。
こんな日は空調の効いたコンテナハウスにいるに限る、とゆっきーは朝からこの虫部屋に入り浸っていた。
ここは母屋にある自分の部屋よりもリラックスできる。
ディスカウントストアで買った机を持ち込み、誰に気がねすることもなくマイペースに勉強をしていた。
虫たちのカサコソという音を聞きながら読む枕草子も乙である。
ふと気がつくと、マジョルカがゆっきーの数学の問題集を勝手に広げていた。
片足にボールペンを持って、いつになく真剣な表情で取り組んでいる。
ゆっきーはその様子を興味深げに見つめた。
この魔界の奇鳥は、まさか数学の問題を解こうとしているのだろうか。
やおらマジョルカは「閃いた」という感じに、目とクチバシをくわっと開いた。
頭の上に豆電球がピカーンと光ったかのようだった。
そしてメモ用紙に走り書きをして、問題集の後ろのページをめくってにんまりと笑った。
どうやら答え合わせをして合っていたようだ。
満足そうに何度もうなずいたマジョルカは、再びきりっと表情を引き締めて、次の問題へと取りかかった。
ゆっきーは感心した。
お下劣なことを言ったりするので小馬鹿にしていたが、こいつは思っていた以上に頭がいいのかもしれない。
突然、ぴんぽーんっと呼び出し音が鳴った。
出入り口のドアを開けると、そこには顔を下に向けた桜子が立っていた。
特に約束はしていなかったが、そこはふたりの仲である。
アポなしで来ることくらい普通にある。おどろきはしない。
だけど今日は様子が違った。
桜子は泣いていたのだ。
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