片腕の聖女

月森冬夜

1 女神伝説

 結果から言えば、エキドナ王国最大の危機は王太子とその妻によって救われた。

 大国ヴァンバルシア王国によるエキドナ侵攻は失敗に終わった。ふたりがいるかぎりくり返されることはないだろう。

 このとき、王太子アルバートは二十二歳。王太子妃ココは三十歳。

 八歳年上の妻だったが、王太子に寄り添う片腕の王太子妃の姿は、どう見ても十代前半の少女だった。




 ふたりは川沿いの城壁の上に立ち、ウガイ川を引き上げていくヴァンバルシアの船団をながめていた。炎に包まれた船の残骸が大河を埋め尽くし、ゆっくりと下流に流れていた。


「そなたがいてくれてよかった」


 長身の王子は身体からだごと向き直って妻の手をとった。見つめ返す小柄な王太子妃の瞳は、戦場の炎を映したように紅く輝いていた。白い髪は地に着くほど長く、ドレスの袖から覗く右腕は、肩から指先まで精巧ながらも無骨な鉄の義手だった。王子は膝を折ると、うやうやしく生身のほうの手の甲に唇をつけた。

 ココの真っ白い肌は、王子に触れられるとほんのりと暖かな光を放った。


「おかげでエキドナは救われたよ」


 立ち上がった王子は、妻の頬に涙の跡が残っているのに気づいてハンカチでやさしくぬぐった。


「わたしだけの力ではありません。殿下からも力をいただきました」


 ココは布で顔を拭かれながら、ふと、十年前にはじめて会ったときのことを思い出し、「あの頃はおなじくらいの背丈だったのに、ずいぶん大きくなったなあ」などと回想しながら答えた。


「でも、お役に立てたならよかった。聖女としての役目が果たせたなら拾っていただいた恩返しも少しはできたというものです」


「拾われたなどと言わないでくれ」


 王子の怜悧れいりな輝きを放つ瞳が妻の言葉を否定した。


「そなたが聖女だろうとなかろうと、いまこのときおれの隣にいただろう」


 黒い髪とおなじ色の瞳は、切れ味の鋭い黒曜石のような光をたたえており、見るものによっては冷たさも感じられた。だが、いま妻を見るまなざしは慈愛と尊敬の念にあふれていた。

 「昔の王子はあんなにクリッとした目だったのに」と、ココはまたはじめて会ったときのことに思いを馳せながら、ルビーレッドの瞳で見返した。彼女の瞳はもともとはあおかったが十二歳で成長が止まったときにあかくなり、きらびやかだった金髪はすべて白髪になっていた。




 『片腕の聖女 −白の聖女編−』




 ナタ・デ・ココはヴァンバルシア王国の生まれだった。

 彼女は孤児だった。両親の顔も名前も知らない。物心ついたときには聖女学校の生徒だった。ヴァンバルシア王国では孤児の少女のほとんどが王立聖女養成学校に入れられることになっていた。この名前も学校で勝手に付けられたものである。そのいい加減に名付けられた少女が学校開設以来の優秀な生徒になるなど、そのときはだれも想像していなかったのだ。

 ココは勉学に励み、幼いころから聖女としての頭角をあらわし、十二歳にして次期大聖女候補となった。

 聖女とはヴァンバルシアにおいて国を守るための大事な存在である。大聖女はその聖女たちをまとめ、サポートするもっとも重要な立場にあった。


「ココ!」


 次期大聖女の通知をもらって校長室からココが出てくると、同世代の少女が長い黒髪をなびかせて駆け寄ってきた。


「ババロア」


「大聖女なんですってね」


「ええ……どうして知ってるの?」


 ココ本人ですら、たったいま通知を受け取って知ったばかりの人事であった。


「お父様から聞いたのよ」


「ああ、そうなんだ」


 モン・ザ・ババロアは名家モン家の子女である。大聖女の選抜は国家の大事であるため校長の一存というわけにはいかない。前もって王族や大臣たちの会議があったはずだった。

 大聖女には国防の要というだけでなく、もうひとつ重要な役割があった。

 女神とのいにしえの契約により、王家の妻は大聖女から選ばれることになっているのである。現在の王妃も元大聖女だった。


「頑張ったわね」


「だって身寄りがないわたしは聖女という仕事にすがるしかないんですもの」


「すぐに神殿に移るの?」


「いまの大聖女様がいらっしゃるからまだまだ先よ」


 タイミングにもよるが、大聖女の勤めは二十代半ばか後半までとされていた。

 いまの王太子はココやババロアと同世代である。現大聖女ではなく次期大聖女が王妃として迎えられるだろうと噂されていた。それだけに、モン家は娘のババロアを大聖女にしたかったことだろう。


「あたしも聖女候補に選ばれたからそのうち神殿に行くわ。地方だけど」


 ババロアは沈んだ声で言った。


「そう……」


 大聖女以外の聖女は八人おり、彼女らもまた聖女学校の生徒から選ばれる。

 八方にある聖女神殿はその性質上国境付近にあった。王都からはかなり遠くなる。

 モン家の望みがわかっているだけに、ココはなんとも返答のしようがなかった。




 ヴァンバルシア王国には女神の伝説があった。

 かつて周辺国から一斉に攻め込まれ国が滅びかけたとき、王が女神に祈ると、女神は八人の聖女を従えてあらわれた。女神はここを自分の国とするなら救済しようと王に言った。具体的にはこれからずっと女神の化身である大聖女を王妃にしろということだった。そうすれば国はこれからも守られるだろうと。王が承知すると聖女たちは八方に飛び、国を囲む防壁をつくった。防壁は物理的なものではなく霊的なもので聖女たちが祈っているあいだだけ敵の侵入を防いだ。女神は王都の神殿で聖女たちに指示を出した。

 国は守られた。その神殿がのちに大聖女の神殿となり、王妃は大聖女から選ばれることとなった。

 もともと広い国土を持っていたヴァンバルシアは他国からの侵略の心配もなくなり、現在では大陸一の大国になっている。

 地域も家柄も関係なく選ばれる大聖女が、本当に女神が転生したものなのかは疑わしいが、いつのときも、ちゃんと防壁は張ることができた。




 孤児のココが大聖女に選ばれたのは大きくふたつの理由からだった。

 ひとつはもちろん、トップの成績だったということ。王妃候補でもあるわけだから、当然、孤児のココではなく名家のババロアをという声もあった。僅差であれば名家のほうが選ばれただろう。しかし、ココは二位以下のババロアたちの追随をゆるさぬほど、工作のしようもないほどに圧倒的に優秀だったのである。

 そして、もうひとつの理由が深刻だった。

 大陸に戦争の気運が高まっていた。ヴァンバルシア王国をとり巻く周辺国が攻めてくるのではないかという懸念が大きくなっていたのである。

 現在の王国は大国であるがゆえに、他国に対する配慮はおろそかになっていた。過去に六国に攻められ危機に陥ったときの教訓は、いまの王家に活かされていない。逆に聖霊防壁があるせいで増長していた。


 ——国が滅んでは王妃もなにもない。


 次期大聖女は実力主義で選ばれたのだった。 




 ココは聖女学校の校長と、ババロアをはじめとするこの年に聖女候補に選ばれた生徒たちとともに王に謁見えっけんした。

 ちょっとした儀式のあと、大聖女候補として王に正式に任命された。


「見た目は悪くないが孤児とはな」


 立ち去る校長と金髪碧眼の娘のうしろ姿をながめながら廷臣たちはささやいた。


「これまでも孤児の聖女はいましたが、大聖女ははじめてですな」


「背に腹は変えられんということか」


 王宮のべつの場所では、王太子ランデルが大声で怒鳴り散らしていた。


「俺は嫌だぞ! どこの野良犬ともわからぬ血統の娘など」


 王子は今年十五歳になる。同世代の大聖女候補ということは、自分の結婚相手に決まったようなものである。


「王家に犬の血を入れるのか!」


「まあまあ……たしかに身元のわからぬ孤児ではありますが……」


「大聖女に選ばれたということは、女神の血統ということになりますし……」


 臣下たちは腫れものに触れるように、癇癪を起こしている王子をなだめた。


「この裁定にはモン伯爵も不満を持っているようです。まだ時間はあります。少し様子を見ましょう」


「モン伯か……」


 ランデル王子は爪を噛みながらつぶやいた。

 結婚するのは、大聖女候補が職について、さらに十年近い役目を終えてからのことである。たしかに時間は十分あると思えた。

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